俺の現状、三木の実情、庄司の思惑
『もしもし、庄司でございます。幸久様、どうなさいましたか?』
「えぇ、あの、少しおじさんと話をしたいことがありまして。今、時間大丈夫ですか?」
三枝さんを部屋から出してしまってから、俺は一つ大きく息を吐いて、それから上着のポケットの中から携帯電話を取りだした。時間的にそろそろギリギリかもしれないけどきっとまだ家にいるんじゃないか、ということで、電話帳の中から庄司の実家の番号を呼び出し、コールする。
コール音をきっかり二つ鳴らしてから受話器が取られ、聞こえてきたのはおばさんの声。電話を取るのは基本的におばさんの役目だから当然なのだが、今日はそこで用件を伝えて終わり、というわけにはいかない。これはおじさんに直接聞かなくてはならない用事なわけであって、おばさんを通じて用件だけを伝達すればいい、という類のものではない。
「おじさん、出してください」
『はい、承りました。それではただいま呼んでまいりますので、少々お待ちくださいませ』
それから、通話を保留したときの音楽(『エリーゼのために』)がしばらく流れる。おそらく最終確認の見回りか、あるいはその途中でやり残しとも言えないようなやり残しをやっている最中に違いないわけで、それほどの時間を置かずに再び受話器があげられるだろう。
『お待たせしました、幸久様。何か問題が発生しましたか?』
「どうも、おじさん、そろそろ家を出るってころに電話しちゃってすいません。少しでいいんで、時間もらってもいいですか?」
『もちろんでございます。それで、なにがありましたでしょうか』
「おじさん、昨日俺に電話してきましたよね。『がんばれ』とか、なんとか。あれって、どういう意味ですか? おじさんは、何か知ってるんですよね。俺の知らないことを何か知ってるんですよね。どうしてもいえないっていうんなら聞きませんけど、言えるんなら言ってください。俺の状況は、もしかしたら切迫してるかもしれないんです」
『切迫……? …、切迫するような何かが、幸久様の身に、起こってらっしゃるということで、よろしいですか? 何か問題が発生しているということで、よろしいですか?』
「まぁ、そうですね。ちょっと、変な気配は感じてます。まだ具体的に何が起こったっていうわけではないですけど、何か起こるかもしれない、みたいな感じは。」
『まだ、起こってはいらっしゃらない? 幸久様、今、どちらから電話をしてくださっているのでしょうか。携帯電話からの着信ですので、現在位置をお教えくださると助かるのですが』
「今、旅館の部屋です。通してもらって、部屋付きの仲居にも出てもらいました。それが、どうかしたんですか?」
『いえ…、お部屋には、入られたんですね?』
「はい、すごい景色でした。で、それよりも……」
『そのこと、です』
「はっ? どのことですか?」
『ですから、私が先日お電話にて申し上げたのは、そのことについてです』
「そのことって…、部屋のこと?」
『先々代様が残されたそのお部屋、旅館、土地等々、幸久様がそうと知って触れるのは初めてのことですので、お心構えをしていただければ、とお電話をさせていただきました。今まで、三木に残されている名残、幸久様の受け継がれた財産については、明言することを避けていましたので、急に言われては驚かれると思いましたので』
「…、全然、分かりませんでしたよ」
『私も、メイド長から言ってはならないと止められていたので、電話で詳しくお話しすることは出来ませんでした。その点については、申し訳なく思っております。結果的に困惑させることになってしまい、こうしてお電話をさせることになってしまったことも、幸久様にお手間を……』
「いや、そうじゃなくて、ですね」
『そう、ではない……?』
「だから、俺が電話したのは、じいさんの遺産についてじゃなくて、ですね」
『先々代様の話では、ないのですか……?』
「確かに、じいさんの遺産にはびっくりしたし、すごいとも思いましたけど、でもそんなことよりも…、…、え? ちょっと待ってください」
おじさんが俺にがんばれと言ったのは、じいさんの遺産について。となると、俺が今聞きたい彼女、三枝弓子については、おじさんたちはどう関わってるんだ? まさか、なにも知らないなんてことはないだろうけど、俺への警告は必要ないレベルということなのか? それとも、本当に何も知らないのか?
「あの、おじさんは、俺がこの旅行で大変なことがあるとしたら、そのじいさんの遺産についてだけだと思っている、ってことでいいですか? じいさんの遺産を目の当たりにして俺があまりに驚いて心臓発作で死ぬとか、そういう危険しか考慮されていないってことですか?」
『そう、ですね。こちらとしては一応、幸久様が現実を受け入れることができるのでは、という年齢までお話するのを控えさせていただきましたので、まさか幸久様が心臓発作を起こすほどに驚かれるとは思っていませんでしたが、そのことについては考慮していました。もちろん、先日のお電話はもちろんですが、こちらの余計な口出しになるだろうことは分かっていましたので、一応の処置です。ですがそれ以外というと、私にはわかりかねます。メイド長もそれ以外の件については動いていなかったと思われるので、庄司の管轄内で、私の知らないところで何かが動いているということはないのではないでしょうか。もちろん、庄司の管轄の外に出てしまいますと、何かが起こっていたとしても把握することは難しくなると思いますが』
「わ、わかりました。つまり、おじさんはなにも知らないってことでいいですね? 俺に隠れて何かこそこそやってるってことはないんですね?」
『もちろんでございます。幸久様に利することならば、どのようなことであってもしますが、そうでないならばすることはありません。それが幸久様に隠れてこそこそと、というならばなおさらです』
確かに、おじさんは昔からそういう人だ。基本的に俺に対して、俺が不利益を被るようなウソはつかないし、そういう類の隠しごともしない。恐妻家ではあるけれど、庄司の家をしっかりと管理しているし、俺の父親代わりとして厳しくもやさしく、執事としての領分を守りながらもまるで本当の父親のように接してくれた。そういう実直なおじさんのことを、俺は誰よりも信頼しているし、だからこそまだ見ぬ財産の管理とか諸々を丸投げすることができるのだ。
あえて言うならば、おじさんの行動理念は忠義にある。庄司の家と三木の家は、かなり昔からの古い付き合いで、その間ずっと主と従者という関係を保ってきたんだという。だから我々もそうするべきである、という考えがおじさんの中にはあるんだそうだ。そんなこと、俺に言わせれば気にしなくていいことでしかなく、律儀というかなんというか、おじさんは俺を主と定め、自分を従者という立場に置くことを止めようとしない。
これまでの先祖の忠義を自分が引き継ぐというのは、なかなか大変なことだろうし、少なくとも俺には分からない世界だなぁ、とどうしても思ってしまう。
『それでは幸久様、いったい何があったというのでしょうか。私どもが考えていることとは、どうやら違う何かが起こっていらっしゃるように、私には感じられたのですが、間違っていたでしょうか?』
「いえ、間違って、いません」
『それでは、どのようなことが起こっているか、お話しくださいますか? 状況を知ることができれば何らか対処を行なうこともできるかもしれませんので。それとも、何も起こってはいないけれど、漠然とした不安があるということでしょうか』
「一応、まだ何も起こっていません。それに、危害を加えられるとか、誘拐されるとか、そういう不穏なことではないです」
『それならば、どのようなことでしょうか?』
「…、女の人が……」
『? 女性、ですか?』
「は、はい…、旅館の仲居で、部屋付きの女の人がですね、どうも俺のことを知っているらしいんです。しかも、仲居として、仕事として宿泊客のことを把握しておくとか、そういうレベルではなく、知っているらしいんですよ」
『それは、なんというか…、恐ろしいですね……』
「それでその人、三枝弓子って名乗ってるんです。まぁ、それが本名かどうかは分からないんですけど。この旅館にも飛び込みで働かせてもらってるってことらしいですし」
『飛び込みで? それはおかしいですね…、そういうことはしないように、決まっているはずなのですが。もしそういうことがあったときは、よほど信頼できる後見人が確認できる場合を除いては断るはずです』
「つまり、本当に飛び込みだとすれば、その後見人はかなり信頼できると判断されたということですよね」
『そういうことに、なると思われます。しかし、そのようなことはない前提で定めた決まりでしょうから、どのような人物が後見人として付いているときは認める、という決まりはありません。本当に信頼できる人間が後見人についているかは、わかりません。幸久様、その後見人の名前は、分かっていますか? おそらく、番頭に尋ねれば分かると思いますが』
「本人から聞きました。二見啓蔵、だそうです。この名前、どこかで聞いたことはありますか? 俺は、なんかどこかで聞いたような気がするんですけど」
『二見啓蔵氏!? それは、間違いありませんか!?』
「え、えぇ…、間違ってないです。ついさっき聞いたばかりですから、忘れてないですし、聞きちがえてもいないかと」
『その女性は、二見氏とはどのような関係でしょうか』
「いえ、そこまでは。縁者ということですので、単に知り合いっていうわけではないと思いますけど。たぶん、親戚、じゃないですかね……。あっ、確か旅館の上客だとか言ってました」
『となると、おそらく間違いありません……。二見啓蔵氏は、フタミグループの先代総帥であらせられます。現在は引退なされて、当代に総帥の座をお譲りしたようですが、いまだ会長として最前線にとどまっていらっしゃると聞きます』
「…、フタミグループって、あれですか? あの、テレビCMとかバンバン流してる、フタミとか二見重工とかの、フタミグループ、ですか?」
『はい、その通りです。日本最大のコングロマリッドであり、重化学工業で世界にその名を轟かせ、今なお成長を続ける、フタミグループです』
「世界シェア何十パーセント、とかいろんな製品について言っちゃう、あれ……?」
『あれ、です。特に氏は、その発展の基礎を築きあげた創設者です』
「い、いわゆる金持ちって、やつですか……?」
『単純な資産力で言ったら、おそらく日本国内に比肩する者はほとんどいないかと思われます。なにしろ、世界的企業ですので』
「っていうことは、その、三枝さんも、お金持ちってことでしょうか?」
『いえ、それは分かりませんが。フタミグループは家族企業ですので、幹部は氏の肉親で固められているそうですので、その方のご家族がどれだけ氏に近しいかを知ることができなければ、知ることはできないでしょう。いえ、それよりも、フタミグループは、いえ、二見という家は、三木と同じく七天星家に属する家です。二の星といえば、幸久様でもお分かりになるでしょうか』
「み、三木は、三の星、ですからね、確か」
『その通りでございます』
「っていうことは、二見啓蔵って人も、うちと同じ旧華族ってこと?」
『左様でございます。しかも、二見は三木と隣り合う星です。先々代も、氏とは深い親交を持っていたと記憶しております。あるいは、後見人を引き受けるほどの関係を持っている方にならば、幸久様についてお話になっていてもおかしくはないかと。幸久様は、お嫌かもしれませんが、この界隈ではそれなり以上に名の知れたお方ですので』
「それは、嫌ですけど、まぁ、今はいいです。とにかく、もう一つだけ聞かせてください」
『はい、何なりと』
「庄司の家は、この女の人のことは、知らないんですね? 関係ないんですね? 俺への刺客として差し向けたりはしていないんですね?」
『全てに対して、はい、と返答申し上げます。庄司の一同は、その方について存じ上げません。それにしても、刺客とは、どういう意味でしょうか?』
「…、なんか最近、おばさんが、俺の将来の結婚がどうとか、いろいろ言うじゃないですか。それです……」
『そのことについては、単にメイド長の小言と考えてください。私たちとしては、特に何をしようというわけではありませんので。とにかく、今回のご旅行では三木の財産の一端に触れていただくことだけを、庄司では計画しておりましたので、それ以外のことで手を出そうとは考えておりません』
「それなら、いいんですけど……。…、それじゃあ、聞きたいことは聞いたんで、切りますね。忙しい時間に長々と、すいませんでした」
『幸久様のお聞きになりたいことに、適切にお答えすることができたならばよかったのですが。それでは、ご旅行をお楽しみくださいませ』
そして、通話を終えた俺はパタッとケイタイを閉じて、それをポケットに滑り込ませる。とりあえず、知りたい情報は手に入ったし、そのことにおじさんたちが関わっていないことがよく分かった。それらが分かっただけで、おじさんたちにわざわざ電話をかけた意味があったいうものだ。
しかし、どうやらあの人、俺が思っていたよりも厄介そうだ。後ろについてる背景は考えていたよりもこの国の重鎮っぽいし、俺の知らない何らかの入り組んだ事情もありそうで、なんとなくいろいろと大変なことになりそうな予感がビシバシ伝わってくる。なんというか、俺のセンサーが、そこはかとなく反応しているのである。