第六章 社会革命
第六章 社会革命
初夏が幕を引こうとしていた。
夏は秋へと向かいながら、此処に未だ存在すると証明する地縛霊のように、じりじりと熱を募らせている。肌を撫でる風は重く、歩くだけで毛穴から汗が滲み、皮膚の上を流れていく。地球温暖化――ただのニュースの見出しではなく、日常の実感として染み込んでくる六月の終わり。大学の講義も終盤を迎え、キャンパスには社会が満ちていた。履歴書を埋め、内定直結型のインターンへ駆け込んでいく。「モラトリアム」などという言葉は、もうどこか遠い時代の遺物になったのかもしれない。
六月初旬。
僕は人知れず、秋学期の休学届を提出する。立ち止まらねばならないのだと、身体のどこかが告げていた。喧騒の中で、ひとり歩みを止めること。それが逃避なのか、再生のための猶予なのかは、まだ分からない。ただ、今は一度、息をつかねばならないのだ。
お金は幸い、たくさんある。二年前、年末ジャンボ宝くじを買ったからだ。500万分の一の確率で、二等の1000万を引き当てた。連番で買って、もしかしてと思った時には当たっていた。どうやら、僕は『宝くじ』に縁があるようだった。
6/14
「久しぶりです、佐藤さん」
白い半袖のシャツを着て、色落ちした青いデニムを履いている佐藤さんの背中は、丸まっている。彼女は、ピンク色の筆箱から授業に使うペンを一本ずつ取り出していた。
「あ、久しぶりです、ユエルさん」
相も変わらず穏やかな目の奥には、尖ったシャーペンの芯のようなものが見え隠れしている。彼女の立体的な両目は、僕の精神に手を突っ込んで心臓を揺らす。「起きろ」彼女の両目は告げる。
「その、この前は色々とすみませんでした」
僕は、佐藤さんの横に鞄をおろして座る。
「いや。こちらの方こそ、久しぶりだったのに色々と言ってしまってすみませんでした」
佐藤さんは、座っていた姿勢より前傾に十度俯いて、遠慮しく微笑んだ。
それから、教授が講義三分前に教室に入って来て、資料をアップロードしているので確認しておいてくださいと言った。
「なので、僕は器用な女性が嫌いです。彼女達は楽しそうに笑って人を馬鹿にして、楽しそうに笑って人と自分に嘘をついて、楽しそうに笑って群れを作って、楽しそうに笑ってこの世界の真実から目を逸らす。僕は佐藤さんと同じように、器用な女性が嫌いなんです」
「なので?」と佐藤さんは言った。
「なので、です。何かおかしいですか?」佐藤さんは間髪置かずに「はい、おかしいです」と笑った。
「僕もこの前まではそう思ってました。でも、接続詞の使い方が間違っていることとおかしい事は似ているようで全く違うんです。子宮が生まれつき存在しない女性がいます。彼女は可笑しいですか?」
「おかしくないですけど・・」
「だから今日、一緒に夜ご飯を食べに行きませんか?」
「行きません」と佐藤さんは言った。
それでは第十三回の講義を始めますと教授が言った。一枚で充分なほどに分厚いシャッターが訳もなく突然二枚下ろされたような感覚だ。
7/4.
「真綿のように、選り好みせずなんでも吸収することが正しい時代は、有史以来一度も無かったですよね?」
「有史以来一度も無いことと、間違っていることは全く違うと思います。例えば、コンピューターが出来上がった時も、ユエルさんは、これは間違っている。有史以来一度も無かったからって言ってました?」
「コンピューターの出来上がりは、発明の一つです。発明は有史以来、ハグのようにたくさん行われてきた。歴史は繰り返さないけど、韻を踏むからです」
「知ってますよ。マーク・トウェインですよね。じゃあ、絶対に宇宙人はいないと思いますか?」
「分かりません。だから、一緒に夜ご飯を食べに行きませんか?」
「行きません」と佐藤さんは言った。
それでは第十四回の講義を始めますと教授が言った。両頬から同時にビンタを喰らったような感覚だ。
8/1
「焼肉を六十日連続で食べ続けて、便は一度も大腸から出なくて、左右の耳からはずっとブスっていう罵声だけが飛んできて、身体は四十度の熱があって、周りを見たらみんな嘘みたいに楽しそうに笑ってて。そういうことって、経験したことありますか?」
「ありません。逆に、経験したことあるんですか?」
「ないです。でも、そうなったら嫌だなと思います。だからその前には、佐藤さんとご飯に行きたいなと思って」
「ちなみに、どうしていつも夜ご飯なんですか? 昼ご飯なら、まだあれだと思うんですけど」
「それなら、今日一緒に昼ごはんを食べに行きませんか?」
「行きません。でも、初めて接続詞が正しかったですね」
佐藤さんは楽しそうに微笑んだ。氷点下で冷え切った身体の元に届けられた温泉のような笑みだと、僕は思う。
「佐藤さんのお陰です。大層な話も大切なままです。でも、接続詞のような身近の話も、僕にとってはとても大切なものになったみたいです」
「よく分からないです」
「わかりやすく言うと。いつもなら、この時間で分厚い二枚のシャッターが降りてくるか、両頬へのビンタが飛んでくるんです。でも今日は暖かくしてくださいと言って、毛布が配られたんです。教授、遅れてますね」
「なんですか、それ」佐藤さんは意味が分からない顔をした。
「なんなんでしょうね、一体」
遅れてすいません。それでは、第十五回の講義を始めますと教授は言った。
――――永遠なる不変より―――― episode4 常識
「ご予約のお名前、伺ってもよろしいですか?」
「えっと……佐藤、です。」
「佐藤様ですね……はい、少々お待ちください……申し訳ございません。佐藤様のご予約が見当たらなくて……」
「あ、じゃあ、田中かもしれないです。すみません、名前、間違えました」
「……田中様も……本日は入っていないようでして……ご予約は、どのような方法で……?」
「ネットです。多分。いや、もしかしたら電話だったかも……“中村”ってありませんか?」
「……中村様も、本日は……」
「じゃあ、“ナオキ”……」
「……ナオキ様、上のお名前は……?」
「いや、ナオキが、苗字なんですけど……あっ、遠藤……遠藤ナツミって名前、ありませんか?」
「……女性の方のお名前でしょうか?」
「僕です」
「確認させていただきますね……ええと……“遠藤ナツミ”様……ですね…………いらっしゃいました。“遠藤 ナツミ”様で、19時に2名様でのご予約をいただいております」
「はい、それです……たぶん。いや、きっと」
店員はにこっと微笑んだ。あくまで完璧に、どこまでも機械的に。
「ご案内いたしますね。お連れ様がいらっしゃいましたら、お呼びいたしますので」
「……はい。連れが、来たら」
多分、来ない。でも、いる。どこかには。そう思いながら、僕はまっすぐ、僕じゃない私の名前で、予約された席へと歩いた。
僕? 私? には人格が十一個ある。人から見れば、ただの嘘つきか、詐欺師。最近は、僕も僕のことを詐欺師と思うようになった。最近は、私も私のことを嘘つきと思うようになった。最近は、他人が考える僕と私が、僕であり私であると思うようになった。そして今、死んでも良いから、死にたいなに変わった。
「お待たせー」と僕の横に座る人は・・・誰?
「お疲れ様です」と私は答える。
「あ、その感じ。今日はナツミさんじゃないんですね。初めまして。私はジャッキーニー・おまんこ・おちんこです。金星と木星のハーフです。お名前伺ってもいいですか?」
ジャッキーニー・おまんこ・おちんこ・・・? 金星と木星のハーフ?・・・
「あ、佐藤です。佐藤って言います」
「佐藤さん。素敵な名前ですね。私のことはジャッキーって呼んでください。おまんこ、おちんこは、地球だと卑猥なんですよね。ナツミさんに教わりました」
「ちなみに、ナツミとはどこで出逢われたんですか?」
「ナツミさんが一羽の蝶々をずっと追いかけてたんです。青くて赤い蝶々でした。それを見て、私は素敵だなと思って、地球に飛んできて一緒に追いかけたんです。そしたらナツミさんはもっと笑って、なかなか捕まえるのは難しいですねって言ってくれて。それから蝶々は捕まえられなかったですけど、メール・アドレスを交換して、そこからの付き合いになります。なので、多重人格であることも伺っています。佐藤さん。素敵な名前です」
「そうですか。変わった出会い方ですね笑」私は皮肉的に笑う。私が笑われる時に一番嫌いな笑い方を私はしている。
「はい、変わった出会い方でした。だからだと思います。ナツミさんとは宇宙一の親友になりました。これは私の持論ですけど。変わった出会い方や、彼氏、彼女、親友以外の他人から見たらまるで可笑しな話や言動こそ、二人の愛や友情を育むと思っています。なぜなら、この人以外にはこの世界にこの価値観を分かち合える人はいないことになりますから。佐藤さん。ぜひ、貴方の話も聞かせてください」
「少し待ってください。お手洗いを借りてきます」
私は席を立って、化粧室に向かう。化粧室の扉を閉めて、水垢で曇った鏡を四秒見つめてから、ポケットの携帯を取り出す。「クジラ。私です。佐藤です。この前、私が毎日信じられないくらいオナラをすることを好きって言ってくれましたよね。私は、自虐のつもりで言って、事実周りにいるみんなが笑ってくれました。「だからいつも臭いんだ」って笑ってくれました。それなのに、貴方は私に結婚したいと言った。佐藤さんが好きですって。でも、私は断りました。何を言ってるんだと思いました。今でも私は毎日オナラをします。毎日、階段で躓いて盛大に転びます。それでも良いなら、結婚しましょう。クジラ。貴方の激しい貧乏ゆすりが、実は私は大好きです。私は解離性同一性障害です」私は携帯をポケットにしまう。冷たい水を顔に浴びせる。私の皮膚は全て鱗のように硬くなって、一枚一枚と剥がれ落ちる。私はトイレのタイルに落ちた一枚一枚の鱗をトイレの小さなゴミ箱に一枚一枚と捨てた。化粧室を出る時には、真っ裸だった。「佐藤さん。とても素敵です」と、ジャッキーニー・おまんこ・おちんこは言った。「そうでしょう?」と私は応えた。
視界が透明な宙をゆらゆら揺れている。右に振られて、左に振られて、真中で静止する。再び、右に左に。
「授業、終わったよ」その声で、僕ははっと気がつく。『永遠なる不変において』を読んでいる途中に、眠っていたようだ。
「大丈夫?」佐藤さんは初めて敬語を抜いて心配してくれた。
「うん、大丈夫」と僕は答えた。
「ところで、今日ランチはどう?」「私から誘おうと思っていた」佐藤さんは言った。でもいつまでも寝ているなら、「起きているよ」僕は言った。
僕らは初めて、三時過ぎの遅いランチに出掛けることになった。夢の中で、僕は大切な人に会った気がしながら、机の上の荷物を片付けた。Episode5のタイトルは、白を忘れるな。だった。
僕らは、ビーフ・ハンバーグ・シチューを食べた。どうしていきなり昼ごはんに行ってくれたのかと聞いたら、寝顔と眠っているときの柔らかい雰囲気を初めて見たからと、佐藤さんは言った。
これで僕らが付き合ったら、告白の言葉は昼寝ってことになるのかな? と聞いたら、佐藤さんは「そうじゃない?」と応えた。「付き合ってほしい」と僕は言った。「昼寝に免じて」と佐藤さんは応えた。
僕らは二人ともお酒が弱くて、二本のほろ酔いと一箱のコンドームだけを買って、吉祥寺のラブ・ホテルで乾杯をした。ほとんど飲まなかったから、僕らは実際にはシラフで、「好きです、付き合ってください」と「私も好き」を白いベッドの上でやり直した。
「これより先は、やっぱりまだしたくない」と佐藤さんは言って、僕らはボディー・タッチとフレンチ・キスだけをした。
それでいいと、僕は思った。セックスなんかより遥かに、魂が喜んでいたからだ。
それから、僕らは付き合い続けた。
一年目 大学四年の夏だ。暑かった。でもその暑さを共有できる人がいた。
そのことで少し泣いた。
二年目 佐藤さんは社会人になった。中央官庁のキャリア組だ。OB訪問で来た経産省の女性が格好良いと思ったからという理由だった。
この頃から、僕らはセックスをしなくなった。もし別れたら、世間的にはセックス・レスが原因なんて言われるんだろうねと、僕らは笑い合った。
事実、僕はセックスに興味が無くなっていた。佐藤さんのことを女としては見ていたし、誰よりもエロい女性であると佐藤さんのことを認識していた。それでも、だ。それでも、僕らは魂が喜ぶことにセックス以上の快楽と意義を見出していたのだ。そして、セックスよりも魂が喜ぶ時は決まって、佐藤さんとの会話の往来と各々が積み上げてきた努力が成果として報われる時だった。
だから、僕らはいっぱい話をした。話が尽きることは無かった。この世にはいっぱいの未知があって、それらを分かち合う場所として、僕らは二人だけの根城を築いてきたからだ。
三年目 変わらないために、僕らは変わり続けた。その結果だろう。僕らの魂の交流はまるで変わらなかった。二人にとって、二人は無二となった。僕は休学が終わり、残り一年で大学を卒業することになった。二十五歳だった。
藤川先輩に報告をした。『永遠はありました』と。『その通りだ』と藤川先輩は言った。藤川先輩は二日間付き合った女性と結婚をした。『おめでとうございます』と、僕は伝えた。『AV女優は好きなままか?』と先輩は聞いた。『前よりも大好きになりました』と、僕は応えた。『何よりだ。ありがとう』
先輩は楽しそうに笑って、電話を切った。
四年目 彼女が消えた。僕は、社会革命を起こした。




