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分かっている。僕ら。中指に約束をしたんだ(上)  作者: 佐藤不変


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第四章  全者全様

 第四章   全者全様




「もしかして、春秋さん?」

「あ、はい。えーっと、何処かで。あ。あ、もしかして、一年生の英語で一緒だったユエルさんですか?」

「あ、そうです。ユエルです。この授業、ずっと取られていたんですか?」

「はい笑 ずっと一緒の教室にいたんですね」

「そういうことになりますね笑。弥生のことは、まさかでした」

「本当にびっくりしました。もうどうしようも出来ないですけど、それでも忘れられない悲しさがあります」

「横、座っても良いですか?」

「あ、もちろんです」

 春秋は照れくさそうに笑って、ユエルが座ろうとしている右側に寄っていた自分のパソコンやペンやノートを自分側に寄らせた。

「パソコンとノートが机の上に出ていますけど、板書のメモはどっちでしているんですか?」

「ノートです。パソコンは先生が使っている資料を見るために、念の為に開いています笑」

 ユエルは、気がつく。

 春秋の肌がすっかり綺麗になっていることに。赤みや膿を帯びていたニキビは消え去り、その分だけ、目の鋭さが以前よりも際立っている。

 未だこの世界での生き方を知らないような、優しくて不器用だけど、真っ直ぐな眼をしていた。

 春秋依真。

 彼女と、僕らには常に一定の壁があった。話すことは少なく、言葉数は人より多い。いわゆる、“間合い”が、僕らとは違う。

 ユエルはふと聞いてみたくなった。回っている車輪に人差し指を入れたくなるような、純な好奇心から。

「春秋さんは、器用に生きている女性のことを、どう思いますか?」

 えっ?と春秋は言った。

 それから、「えーと、今ってなんて言いましたか笑?」と続けた。

「こう言いました。春秋さんは、この世を器用に生きている糞みたいな女性のことを、どう思いますか?って」

「最初、糞は無かったような気がするんですけど笑」

「最初、糞は無かったです。それで、春秋さんはどう思いますか?」

「それじゃあ、どうして付け足したんですか?」

 春秋は苛ついた。口調が強く、笑顔が強張り、眼は照れることなくこちらを見つめていた。

「糞だからです。それで最後に聞きます。答えたく無かったら、大丈夫です。この世を器用に生きて、人のことを簡単に見下して、実のところ自分のことしか考えていない、器用な女性のことをどう思いますか?」

 そこ五月蝿いぞと教授がきっと僕らのことを指摘していても、僕は彼女から眼を逸さなかった。どうしてだろう。僕は彼女の解答に何かを期待している。春秋はじっと手元を見つめてから、僕の白目周辺を見つめて、強く言った。

「むかつきます」

「それは、僕のことですか? それとも器用な女性のことですか?」

「どちらともです」

 春秋は顔を赤らめて、それでも嵐の中でも決して掻き消されることのない確かな声で言った。春秋の言葉は、地中で熟成されて深みが増した古代の紹興酒のように、芳醇だった。紅い火が渦巻いている。

「どういう意図があるのか分かりませんが、もう答えないことにします。私は、ユエルさんがこんなに喋る人だったことに、びっくりしています」

「それは、嫌味ですか?」

「嫌味に聞こえたなら、嫌味なんじゃないですか?」

「褒め言葉に聞こえていたら、褒め言葉でもあるということですか?」

「ユエルさんは、言葉が上手いですね」

「ありがとうございます」

 彼女はメモしていたノートを閉じて、ピンク色の縦置きの筆箱に次々と机の上に出していたペンをしまった。

「冗談です。信じてくれないと思いますけど、悪気は全くなかったんです。ただ、興味本位で聴いてみたら、ついついノリノリになってしまっただけです」

「私のことを、音楽みたいに言わないでもらえますか?」春秋は言う。その時でも、彼女は机の上の片付けをやめない。蛍光ペンが次々と筆箱に仕舞われていく。

「僕が帰るので、春秋さんはそのままここにいてください。本当にこれ以上、迷惑はかけないので」

 春秋は今のユエルの言葉に対して、溜飲が少し下がる。片付けの手を一旦止めて「あ、いえ。その、こちらの方こそ、その、すみませんでした」と言った。

「いえ。完全に僕が悪かったので」

 僕は、素直に謝った。

 教授はそろそろ、僕らのところに直接出向いてきて、お前ら出て行けと言いそうな雰囲気を発していた。僕はそれを直感的な防衛本能でひしひしと感じていた。大教室でも紛れることが難しいくらいに、僕らのvolumeは上がっていたらしい。

「その・・。私は音楽を聴くことが好きです」

 なるほど。これが、彼女の気遣いか。

「ジャンルは何ですか?」

「K-popです」

「良いですよね。流行りすぎているせいか、ほとんど聞かない僕の元にも流れてきて、こんな曲があるんだって」

「でも私は、今みたいに流行るもうちょっとだけ前から実は好きでした笑」

 春秋は笑いながら返事をした。

「もう少し古参だったってことですか?」

「はい笑」

 春秋は照れたように笑った。僕はその純粋無垢で白い笑顔を見て、まだ世の中には、このような人間が生き残っていたのだと感動した。

「春秋さんって、かっこいいですね」

「かっこいい? 私がですか?」

「はい。なので、僕も春秋さんに負けないようにカッコつけることにしました」


 教授!! すみません! もうすぐ大声で怒鳴られそうなので、先に言っておくことにしました! 授業中にうるさく喋ってて、本当にすみませんでした!! 今日、僕はもう逃げるように帰るので、次回からは改心したところを見せることを誓います!


 春秋は、ゴジラが素っ裸で立ち上がって日本語を喋っているのを見かけてしまった後のような顔をしていた。ユエルも慣れない行動で、顔は火がついたように熱かった。指先は大きく震えていて、ほとんど板書を書き留めていない見せかけのノートをショルダー・バッグに仕舞うのも一苦労だった。

「また来週、来ます」

 ユエルは春秋にそう言って、躓きかけるほどに震えている両足をなんとか歩かせて、教室の外に出た。変わらずに震える両足でそのままトイレに向かった。

 蛇口から出る冷水を顔にパシャと当てて、ふぅーとゆっくり息を四回吐いた。心はゆっくりと平静を取り戻していき、心拍も比例して落ち着いていった。

 ユエルは鏡に写っている自分を見つめる。ユエルの中心視は自身を嫌なくらいにはっきりと捉えている。ユエルの頬は、薄く赤くなっていた。ふぅーと、もう一つ息を吐く。身体ごとトイレの床へと崩れ落ちそうになる。求めてもいないのに、腹が空く。

 食堂に行こう。

 食堂へ向かう道の上で、初夏の太陽の下で、生暖かい温度の真中で、知らないと、ユエルは思う。二十一年間の海馬を手当たり次第に引っ張り出してみても、見当たらない。この心に湧いている訳が分からないけど確かで内側の全てをはち切れんとするこの充足感を表現するのに足るぴったりの言葉が。霧に覆われた一輪の向日葵のように、まるで見当たらない。ユエルは可笑しくなって、大笑いする。『孤独』の八咫烏のように、心象世界の中心で、ははははぁと。



 木々の葉は新緑から深緑へと色を濃くし、井の頭公園の池の水面は陽光を反射して細かな輝きを散らしている。夏風が吹くたびに、湖畔の柳の枝がゆるやかに揺れ、その細い葉が水面に触れては波紋を広げている。遠くではカワセミが水際の枝木で休息を獲得し、池のほとりでは、ボートがゆっくりと進み、オールの先からこぼれた水滴が空中で光る。木陰ではベンチに腰掛けた人々が涼を求め、柔らかな風が頬を撫でてゆく。

 湿り気を含んだ初夏の空気は、甘い草いきれと池の涼やかな匂いを運びながら、緩やかに公園を包み込んでいる。

「次は、上海に行かない?」

 宝くじは、下から見ても上から見ても、小雪のように美しかった。

 黒色のハイ・ヒールに黒色のショート・パンツを履き、真赤いカットソーのTシャツの下には、臍に埋められた銀色の真珠が光っている。

 生きている意味がなんてどうでも良くなる日照りの良い青空の下で、生きている意味なんて考えずに、たこ焼きと宝くじは歩いている。

 彼女の生命には、今にも消えていきそうな儚さが含まれている。雪が降り注ぎ、宝くじの身体が頭上から雪に覆われていき、いつの間にか真っ白に溶けて消え去りゆく冬の光景が目の前に浮かぶ。

 彼女の身体の線には、そういう生命の薄さと淡さがあった。

「上海蟹の上海?」

「上海蟹。それも素敵ね。上海蟹の有名なお店を予約して、それをたこ焼きと口一杯に食べるのも楽しそう」

「お腹いっぱいだ、なんて言ってね」

「じゃあ、決まりね。飛行機とホテルとの手配は私がしておくから」

「少し待ってほしい。大学の授業のこともあるし、宝くじに手続きの全てを任せるのにも気が引ける」

 ふーんと、宝くじは言った。「たこ焼きは、大学生なんだ」

「そう。そういう人間としての基礎情報も、僕たちは何も知らない。だから色々と知ってからでも・・・」

 宝くじは、影が音もなく夜の帳に溶け込むように、僕の唇に口づけをした。彼女の唇と僕の唇は端からくっついていたと錯覚するほどに、ファースト・キスは極めて自然な成り行きだったように、思えた。

「基礎情報を知って、互いの身近を話題に持ち寄って、共通の趣味を見つけて、二人で楽しく笑って、それから照れながら手を繋いで、やがてキスをして、最後にコンドームを付けて気持ちの良いセックスをする。それが正しい恋愛の順序なら、私たちは今キスをしたから、上海に行って、現地のコンドームを買って、それから気持ちの良いセックスをすることになるみたいね」

 なるほど。昔々、あるところに、宝くじに当たって、一億円を貰った人がいた。昔々、あるところに、お金を節約して、お金を貯めて、インデックス投資に貯金を回して、複利を活用して、一億円に増やした人がいた。なるほど。確かに順序はひょんなところでスキップされる。だが、結末は変わらない。なるほど。

「僕らは上海に行って、現地のコンドームを買って、それから気持ちの良いセックスをしている? 歳も職業も名前も分からないままで」

「お互いの予定が、きちんと合えばね。私のここと、あなたのそこが、うんいいよって合意すれば、望まなくてもそういう展開になるんじゃない?」

 僕の脳裏には、佐藤さんのことが浮かぶ。特定のこと、じゃない。ただ、あーなんか、うーんなるほど。まぁそうか。そうか。春秋ともう一回話したいな。曖昧で瑣末で感情的なことだ。

「一応、確認しておきたいんだけど。僕には夜のテクニックみたいなものは特別無くて、宝くじの期待には応えられないかもしれない。それこそ、宝くじのそこと僕のここが合意した後に、聞いていた話とは違うとなるかもしれない」

 宝くじはゆっくり優しく笑って、「大丈夫」と応えた。

 宝くじの年齢はいくつなのだろう。ふとした時、彼女はびっくりするくらいに年上で、ふとした時には、嘘みたいに子供に感じられる。

「宝くじは、僕のことを好きでいてくれているの?」

「うん」と彼女は即答した。

「たこ焼きが想像しているより100倍、あなたが好き」

「知らなかった」とユエルは言った。

「たこ焼きは? たこ焼きは私のことをどう思っている?」

 ユエルは考えるまでもなく、好きだよと答えようとした。事実、ユエルは宝くじのことを好きだったから。初夏にも雪で溶けてしまいそうな宝くじの側に居たいと思っていたから。もし、春秋のあの純粋無垢で真っ白な笑顔さえ浮かばなければ。

「ねぇ、たこ焼き。ゴミ箱に入れたゴミがその後、どうなるか知っている?」

 宝くじは、僕の返事を待たなかった。はなから、僕の答えなんてどうでも良かったのかもしれない。僕はゴミ箱に投げられたゴミの数々を想像する。

「燃えて、灰になる?」

「そう。燃えて、灰になるの。燃えないゴミは埋め立てられて、資源ゴミはリサイクルされる。つまり、塵は灰になるか。埋め立てられるか。リサイクルされるか。それなら私は、燃やされて灰になりたいの」

 不思議だ。そうではないかと、ユエルは納得する。彼女の内側には、余りにか細い命の紡ぎ目がある。万が一、彼女が守ってきた命の紡ぎ目が何かしらの不手際で一旦解けてしまえば、彼女は彼女が積み重ねた全てを投げ出して、すぐさまに自らを業火の渦中に放り込み、灰に変えてしまうだろう。

 ユエルは彼女に聞いてみたくなる。君も『孤独』の地に出向いたのかと? 辺りを通り過ぎる男の三割が彼女をいやらしい目で見つめていても、彼女の肌に温もりは灯らない。

 孤独は磁石だ。

 それなら、僕らは惹かれ合う運命にあるのだろうか。人は言う。桜は儚いからこそ美しいと。でもそうじゃない。儚いことを自覚しているから、美しいのだ。生き方に工夫が宿るから、個性なのだ。

「それで。私はずっと誰の側で灰になるかを考えているの。この人の横でなら、死んでも仕方がないと思えるかを、ね」

「僕は宝くじには死んでほしくないけど。多分、結構辛い気がするから」

「その言葉を待っていたの」

 宝くじは楽しそうに子供みたいに笑った。

 どうしてだろう。宝くじはたこ焼きのことが好きで、たこ焼きは宝くじのことが好きなのだ。どうしてだろう。どうして、僕は佐藤さんが今頃どのように過ごしているのか気になっているのだろうか? どうして? どうして、僕の魂は今もゆっくりと沈んでいるのだろうか? どうして? どうして? どうして? どうして、僕はこのどうして?の答えを心の深いところで理解できているのだろう。

 僕は、佐藤さんのことが気になっている。そして、宝くじのことを好きになって、気持ちのいいセックスをしたいと思っている。

 欲求の交差だ。

 どちらともに正義は寄らない。

「ねぇ、宝くじ。もう一回、キスしてもいい?」

「駄目」と彼女は断った。

「楽しみは、上海に取っておこう」

「分かった」とユエルは答えた。







  ――――永遠なる不変より―――― episode1 愛







 ねぇ、お母さん。このお話読んで。どれどれ。あ、亀と兎ね。私が子供の頃も、お母さんに読んでもらったな〜。良いよー。じゃあ未来みらい行くよ〜。あるところに亀さんと兎さんがいました。兎さんは、ぴょんぴょんと飛べるからのろまな亀さんを馬鹿にしました。「そんなにノロマじゃあ、一生かかっても俺には勝てないぞ」って。すると、亀さんは怒りました。「そんなことは、やってみなければ分からない。競争しようじゃないか」亀さんと兎さんのレースが始まりました。兎さんはぴょんぴょんと飛んで、すぐに亀さんを置いてきぼりにしました。兎さんは、亀さんといっぱいの差があるから眠っても良いと思って、途中で少し眠りました。その間に、亀さんはコツコツと歩いて、兎さんが起きた頃には、亀さんはゴールしていました。すると、亀さんと兎さんの競争を見ていた人間が俺たちもやろうと言いました。そして、人間と人間の競争が始まりました。当然、殆ど足の速さの戦いになりました。それじゃあつまらない、と言い出した人間がいました。もっと長い期間で競争をしようと言い出しました。Aレーンには、どれくらいの時間がかかるか分からない。ゴールに辿り着けるかも分からない。沢山の障害物が用意されていて、小石や罵声もいっぱい飛んでくる。それでも、最も欲しいものがゴールには待っている。Bレーンには、最も欲しいもの以外の大抵のものが用意されていて、先に走っているランナーも沢山いる。障害物も殆どないし、「そのまま頑張れー」っていう応援の声がいっぱい聞こえてくる。でも、最も欲しいものは絶対に手に入らない。未来みらいはどうする? 

「分からないよー〜ー」

 そうだよね。未来みたいにどうしようって、迷う人がいっぱいいた。少し経って周りを見ると、Bレーンに立っている人が殆どだった。Bレーンの人たちはね、両目を瞑って笑っていた。やっぱこっちだよなって楽しそうにお喋りしながら。Aレーンには数人しかいなかった。Aレーンの人は身体をぶるぶる震わせて、声も上げずに、不安に怯えていた。

「えーー、なら未来は絶対Bレーンにする。一番欲しいものは我慢する代わりに、みんなと一緒に走るもん!」

「理由もちゃんと言えて、未来は偉いね」よーしよし〜。

 未来、これだけは覚えておいてね。人が一番欲しいものは、何歳になっても、実は変わらないの。野球選手になりたい男の子が、パン屋さんをやっていても、一番欲しがっているものは変わってないの。それはね、愛なの。不思議ね。一番欲しいものを手に入らないって諦めると、その人は二番目に欲しいものまで分からなくなるの。

「うーんンンンン。ママ、難しいよ!!」

「難しいね。簡単に言うとね。愛を諦めると、みんな欲しくないものを欲しいって言い出して、嘘つきになっちゃうの」だからね。未来はBレーンでみんなともちろん走ってもいいの。ゴールをしてもいいの。でもそしたら、今度はまたスタート地点に戻ってAレーンでもう一度走り出すの。BレーンからAレーンに横入りしてもいい。最初は横入りするなよ。こっちは苦労してきたんだからって文句を言われちゃうかもしれない。でもね、頑張ってAレーンを走り続けると、自分がBレーンにいたことを自分も周りも忘れるの。パパとママはね、そうやって出逢ったの。二人ともAレーンに横入りして、横入り同士仲良くなって、結婚したの。






 ――――永遠なる不変より―――― episode2 殺人






「人を殺しました。もう無理だって、気がついたらすでに手遅れでした」


「どうして殺した? こうなることは、最初から分かっていただろ」


「殺さないとどうしようもないと思いました。頭の中で声がひっきりなしに鳴るんです。殺せ。どうした? 殺せよ。殺したら、楽になるぞって毎日のように呼びかけてくるんです。でもいざ殺したら、もっとどうしようもなくなりました」

「普通、人は人を殺したらその死体をずっと隠すものだ。誰の目にも見つからないように、永遠にな。それなのに、どうしてお前は今日ここに自首しにきたんだ?」

 刑事の言葉が、静かに夜気を裂いた。男は虚空を見つめ、ゆっくりとまばたきをした。目の奥には、まだ熱の残る闇がわずかに揺らめいていた。

 しばらくの沈黙の後、男は口を開いた。

「……歩いていたんです。ただ、歩いていた。何も考えずに、ただ道を踏みしめる感触だけを頼りに。でも、ふと気がついたら、僕は警察署の前に立っていました」

 男は、唇を噛みしめるように話した。

「殺した後は、ただただ人形のようだったんです。何も感じなくなったんです。味がしないし、味を求めもしなくなった。有るのは、ただの空っぽでした。殺したのに、何も変わらなかった。楽にもならなかった。ただ、声が消えただけだった。味のあるフリをして楽しんでいるフリだけが上手くなっていたんです。そしたら、気がついたんです。殺意に抗って、殺人になんとか手を染めていない時の方がよっぽど楽しかったことに」

 男の声は乾いていた。それは夜の風のように、どこか遠くへ流れていくようだった。

「でもね……自首しにくるこの道だけは、違いました。久しぶりに、心から笑えたんです。なぜだか分からない。でも、笑えた。僕はそのまま、ここに来たんです」

 刑事は男の目を見つめた。

「そうか」

 刑事は黙ったまま、目の前の男をじっと見つめた。男の言葉はどこか淡々としていたが、その奥には、剥き出しの魂が張り付くような、奇妙な温度を感じさせた。

「笑えたのか」

 刑事は呟くように言った。

 男はゆっくりと頷いた。

「ええ。本当に、久しぶりに」

「此処は、お前にとって救いだったか?」

 刑事の問いに、男は少しだけ目を伏せた。そして、まるで答えを探るように、唇をわずかに動かした。

「わかりません。でも確かなことが一つあります。此処に来て、自分の罪を認められたこと。それだけは、他ならない自分への救いになりました」

 刑事は、手帳の端を指でなぞった。

「それで……ここから先はどうする?」

 男は少し考え込むように間を置き、それから、静かに目を細めた。

「それは、刑事さん。あなたが決めることじゃないんですか?」

 刑事は無言で首を左右に一回ずつ振った。

「違う。それは、お前が決めることだ。残念なお知らせだ。此処は、警察署じゃない。ましてや、俺は刑事じゃない。お前が人を殺したのは事実だ。お前が自首したのも事実だ。だが、此処は警察署ではない。此処は、闘技場だ。お前は、常識と環境と自分の弱さに負けて、仰向けに倒れた。その状態で、自分の心臓をサバイバル・ナイフで刺して自死した。つまり、お前はお前自身を殺した。立派な大罪だ。それまでは合っている。だが、お前の心臓は一つじゃなかった。思い返しても、みろ。お前は幾つの心臓を貰った? お前の心臓だけでは、この闘いは確かにゲーム・オーバーだっただろ。だが、今のお前にはcontinueボタンが残っている。後は、お前がどうするか、だ。お前に心臓を分けた仲間達がどうして欲しいと思っているか、だ。最後に聞く。お前は、本当にもう二度とこれから先立ち上がらないのか? それならそれでいい。だが先に伝えておくが、一生仰向けで倒れ続けているのも、それはそれで辛いものだぞ。青空を見続けるわけだからな。そして立ち上がるのなら、今すぐ立ち上がれ。時間は無い。血は出続けて枯れていくからだ。それは、あなたが決めることじゃ無いんですか? それが、人間の悪い癖だ。いつだってそれは、目の前のお前が決めることなんだ。最後だ。人は殺すものじゃない。救うものだ」

『面白い短編小説だ。続きを読みたいけど、今日は此処までにしよう。このままでは、消化不良になる。ただしは目を瞑って、ぐっすり寝むった。夢では、毛虫が身体の至るところをチクチクしてくる夢を見た。朝起きてみると、全身がどうしようもなく痒かった。正は思った。夢じゃなかったのか?』

 正は可哀想な奴だと思いながら、僕はかつてないベストセラーと謳われている短編小説『永遠なる不変において』に栞を挟んで閉じて、リモコンで部屋の電気を消して、眠った。      

 初めて読んだ小説の感想は、悪くないじゃんだった。

 眠る前に思ったことは、来週、俺は上海にいるのか、だった。夢の中では、亀ではなく上海蟹が虐められていた。浦島太郎は、オラが浦島太郎だぞいと言っていた。

 朝、目が覚めると、横に正が寝ていた。僕は思った。小説じゃなかったのか? 


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