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分かっている。僕ら。中指に約束をしたんだ(上)  作者: 佐藤不変


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第三章  宝くじとたこ焼き

 第三章    宝くじとたこ焼き



「こんばんは」

「こんばんは。今日はどうしてここに?」

「適当に話せたらいいかなと思って」

「じゃあ、深い話は禁止ね」

「分かった。最近楽しかったことは?」

「昨日、友達とカフェ巡り。抹茶ラテが最高だった」

「入った時から思っていたけど、君に抹茶ラテの美味しさを語らせたら、30分は持ちそうな目をしている」

「素敵な目ってこと?」

「ちなみに、僕は昨日コンビニのコーヒーだった」

「寂しくない?」

「カフェに行く相手がいないからね」

「今日こうしてラウンジに来てる時点で、それは察してるよ」

「的確な分析だ」

「でしょ? 私、人の本質を見抜くの得意なの」

「じゃあ、僕の本質は?」

「うーん…ちょっと捻くれているけど、根は真面目」

「なんでそう思う?」

「飲み物、ちゃんと値段見て頼んでたから」

「そんなところまで見てるんだ」

「ちゃんと気にしてるあたり、可愛かったから」

「じゃあ、次の飲み物は君が払ってくれるの?」

「それはないね」

「やっぱりか」

「ルールだから」

「理不尽なルールだ」

「それが、世の中でしょう?」

「そうだね。それが、世の中だ」

「あなたの名前は? 言わなくてもいいけど」

「たこ焼き。薄味たこ焼き」

「たこ焼きね。いい名前ね」

「そっちは?」

「宝くじ。三等宝くじ」

「宝くじか。いい名前だ」

 小さなプレートに盛られたチーズやクラッカー、サラダ、そして綺麗にカットされたフルーツ。店内の奥、暗がりのエリアでは、すでにいくつかの男女の盛り上げがアルコールを通して始まっている。

 前のめりになって話を聞く男、スマホをいじりながら相槌を打つ者。偽なのか真なのか、白い歯が散らつく愛嬌の女。静かすぎず、煩さすぎない絶妙な空気が流れ、時折、軽い笑い声が響く。

 黒服の男性がホールを巡回し、空になったグラスや皿を下げる。壁際の鏡には、楽しげに話す男女の姿が映り込む。

「過去が今を作るわけだから、今を知りたいなら、その人の過去を聞かなければいけないの。どういう出来事を経て、その出来事から抽出した感情はどういうもので、それらの感情はどのような形で連鎖して今のその人の背骨になっているのか。人を知るというのは、あくまでどこまでいっても足し算なの」

 僕は、先輩の横にいる名前も知らないけど、確かな熱を持っているラウンジ嬢の話を聞きながら、僕の背骨を思い返す。


「美女がいっぱいいる、ラウンジってやつに連れてってやるよ」

 先輩はカツ丼を食いながら、言った。

「いや、僕そういうの大丈夫ですよ。多分、苦手なので」

 僕は親子丼を食べながら、応えた。

「そういうの? 多分? 違うね。お前は、領域を作って、自分を守っている。変わらないんだよ。地球の裏側に行こうと、隣で蕎麦を啜っているこのハゲ親父だって、俺だって、お前だって、何も変わらない。人は、みんな等しく寂しい」

 先輩は輪切りのネギと麩が入った味噌汁を啜りながら、言った。隣で蕎麦を啜っているあのハゲ親父は、一瞬、こちらを見て、またすぐに蕎麦を啜った。

「本当に行くんですか?」

 先輩は、水が入ったコップをほとんど90°に傾けながら、水を飲み干した。それから、コップの中の氷が全て溶けるのを待つかのように、ゆっくりと問いを投げた。

「なぁ、ユエル。大人になっても変わらないことは、なんだ?」

「先輩が、タバコを吸えないということ」

「そうだ。じゃあ、大人になってもっと好きになることは、なんだ?」僕はうーんと宙に考えて、分かりませんと答えた。

「女だ」

 先輩は、誇らしそうに言った。

「女・・・ですか?」

「そうだ」

 先輩は、もっと誇らしそうに答えた。僕は間違えて、何処かのアウトレイジの飲み会にでも来ているのかと思った。

「良いか? 好きなものを好きだということは、お前が思っている以上に大切なことだ。女が好き。AVが好き。ビートルズが好き。料理が好き。どれも、同じ好きだ。だけどな。他人はその情報だけで、人に見分けをつける。忙しい世の中だ。時間がないから、それは仕方がない」

 忙しい世の中。確かに、その通りだと、僕は思った。この世は、忙しすぎる。

「でも、それと自分の好きなものを言わないことは、畑が違う話だ。AVが好きなら、下品なのか? ビートルズが好きなら、趣味が良いのか? 口に出してみればいい。どれほど馬鹿げているか、すぐに分かる」

 先輩は、コップの中の氷が溶けるのをいよいよ待てなくなったのか、コップの中にある氷の一つを口に入れて、もぐもぐと噛み砕いた。

「AVが好きなら、下品。ビートルズが好きなら、センスが良い」

 僕は先輩が言った通りに、言葉に出してみた。口にしてみると、確かにおかし過ぎる話だった。ビートルズだって、AVを好きだったかもしれない。

「俺もこの社会で仕事をして、飯を食っている。

 だから、俺も徐々にこの社会に染まっていっているのが分かる。上司の顔色も伺うし、時には嘘もつく。でもな。今でも俺はこんなことを期待している。AVが大好きですって言った男が、合コンで大モテして、料理が好きですって言った女の子が、誰からもモテなくて・・・。それから世の中に媚びても誰も見向きもしてくれないならって啖呵を切って、本当になりたい自分を見つけて、例えば消防士にでもなって、それから久しぶりの合コンをしたら大モテする話。そんな話を聞けたら、俺はそれをおかずにして、この人生を十年間は生きていけると思う。俺は、ユエルにはそんな奴になって欲しいんだ」

 先輩の頬は紅潮していて、人を立体的に見るための両目には、塩水が浮かんでいた。先輩は、目線を一度下に落として、また再び上げて、そういえば、お前が好きなものはなんだ? と聞いた。

「今は、AVが大好きです」と僕は答えた。

「嘘をつけって、言ってるわけじゃないんだけどな」

 先輩はおしぼりで目を拭って、「よし、美女で溢れたラウンジに行こう」と言った。

 この日から、僕の哲学には、『自分の知らない世界を知る勇気を持て』、という文言が追加された。後に、『一度も知る必要がないことを、一度も知らないままでいる強さを持て』、という文言が同じページに追加されるのを、今の僕が知る由はない。



「それで、たこ焼きの過去には、どんな出来事があった?」

 先輩は背が小さく、白く丸っこい頬をしていて、紫色でタイトなミニスカートを履いている女性と再び個別に話していた。

 そして僕は再び、宝くじと二人で話をすることになった。ラウンジには、集団と個別を交互に繰り返す不文律があるのかもしれないと勘繰りながら。

「甘酒を持っている八本足のタコと出会ったことがある」

「それで?」

「甘いなこのお酒はって言ってたから、これ、甘酒って言ってお米で出来ているんですって伝えた」

「たこ焼きって、親切ね」

「甘酒って言うんだ。そのままで面白いなって言って、そのタコが海だか川だかに帰っていくところを見届けて、僕はそれから生のタコが食べられなくなった」

「だから、たこ焼きって名前?」

「そう。だから、たこ焼きって名前」と僕は繰り返した。

「タコには、脳が九個あるんだよ。知ってた?」

「知らなかった」

「だから、私は母に三歳に捨てられて、施設で育って、生きていくことだけをずっと考えて、色々な方法でお金を稼いだ。今は、少しの余裕が出来たから、お金をそのまま節約出来て、もしかしたら恋なんて非現実的ことが出来るかもしれない場所だと思って、ラウンジで働いているの」

「だから?」

「そう、だから。何かおかしい?」

 僕は、うーんと宙で考えて、何も確かにおかしくはないと答えた。生まれつき子宮が存在しない女性がいるように、たまに接続詞を言い間違える女性がいたって、それは何もおかしいことではない。むしろマシだと、僕は思った。

「宝くじの背骨は僕より、よっぽど強そうだ」

「触ってみる?」

 彼女は僕に聞いた。うんと答えて、僕は彼女の背骨を順に触る。頸椎、胸椎、腰椎、仙骨、尾骨。縦にすらりとなぞっていく。

 彼女はオフショルダーの黒色のワンピースを着ていたから、頸椎は、彼女の皮膚を触ると同義になった。「綺麗な背骨」と、僕は言った。「うん」と彼女は応えた。

 不思議な感覚だ。

 触れているのはカルシウムとコラーゲンと水分だけで出来上がった骨の数々に過ぎないのに、僕の心拍は彼女の沈黙と相まって、高まっていく。心拍に呼応して、各部の動脈圧がどんどんと上昇していく。類を見ない速度で身体に血液が送り出されていることが皮膚の下から分かる。

 時間にすれば、十秒にも満たない出来事だ。でもそれは確かに、僕らの間に秘匿的な親密性をもたらす時間となる。例えばそれは、通り過ぎた赤の他人の持ち物の全てが自分の持ち物と全く一緒だった時のような。

 いつから、だ。

 僕らを囲む辺りの温度が緩くなっている。一歩二歩と踏み出せば、宝くじの紅色のぷっくりした艶やかな唇が待っている。当たり前の話だ。男と女だ。つまり僕らは、たこ焼きと宝くじには、決して成りえない。

「これ、私のライン。良い? ラウンジで人に上げるのはたこ焼きが初めて」

「じゃあ、僕はラウンジにいる宝くじからラインを貰った一人目になるってこと?」

「それは、四人目ね」

「理不尽だ」

「それが、世の中でしょう?」

「そうだね」

「ねぇ、最後に教えて。私が今日伝えた言葉の中で、何個の本当があったと思う?」

「全て」と僕は答えた。

「一つだけだよ」

「どれ?」

「タコには、九個の脳があるってこと」

 可笑しくなって、笑った。また来る、と僕は言った。

「本当に?」と彼女は聞いた。

「本当に」と僕は答えた。

「それは、すごく嬉しい」と彼女は言った。

「本当に?」と僕は聞き返した。彼女は艶やかな微笑だけを浮かべた。

 僕は先輩が残していったテキーラ観覧車のチョコレート味みたいなものを最後に呑んで、店を出た。

 先輩は僕よりも先に店を出ていた。多分、今頃は紫色のタイトなミニスカートを履いていたあの女の子とそういうことをそういう場所でしているのだろうと考えると、AVが大好きと言った男が合コンで大モテする世界も、案外目の前まで来ているのかもしれないと思った。

 見上げると、ベガとアルタイルが渋谷の夜空に光っていた。

 望遠鏡が手元にあったらなと、思った。

 そうして’僕は少しだけ真理とのことを思い返す。とうとう、僕らの望遠鏡は日の目を見ることが無かったなと。

 不思議だ。楽しかった。今日の全ては、楽しかった。

 でもどうしてだろう。僕は元彼女のことを思い出している。まるで分からない。僕の魂が一体全体何を望んでいるか。

「今、自分もお店を出ました。今日は、ありがとうございました」と先輩に送った。



「たこ焼き。今度は、ラウンジじゃなくて井の頭公園で散歩しよう♡」井の頭線に乗って、渋谷から永福町に帰っていると、宝くじから最初のラインが届いた。

「喜んで。空いている日を、後で送っておく」

 案外、宝くじはラインで♡をつけるタイプなんだと、僕は知った。

 知らないことばかりだ。この世は、知らないことばかりで回っている。井の頭公園。また吉祥寺か、と僕はぼーっと考えながら、家に帰った。

 時刻は12:00を回っている。

 じめっとした汗を39度のシャワーでざーっと流して、身体をピンク色のタオルで拭いて、化粧水と乳液を頬に塗って、繊維が解けつつある赤色のパンツと白色のシャツを着て、ベッドに着いた。

 深部温度が下がり、副交感神経が優位になるまでの寝付けない間に、僕は色々なことを思った。湧いては消えていく記憶と思考と感情が僕の脳内を乱雑に往来した。一ヶ月後に、その内の二つや三つが言語化され、僕の人生哲学を豊かにでもするのだろう。

 最後には、いよいよとうとう一人でオナニーをしたい気分に駆られたが、僕は眠らないといけなかった。夜の頭で夜の本能に身を任せることは、大概において正しい選択になり得ないことを、僕は人生を通じて学んでいる。

 だから、僕は穏やかに眠った。



 ※




 闇がすべてを支配している。音はない。聞こえるのは、己の鼓動だけ。昇っているのか。降っているのか。それすらも分からない。上下の感覚はすでになく、空を求めて飛ぶべきなのか、それとも深淵へと沈むべきなのか。その答えを持つものも、またいない。独りだ。前も、後ろも、右も左も、すべてが闇。足を動かしても、そこに何かがある感触はない。ただ、見えない深淵が気を狂わせるように黒い。すべての方向が等しく遠く、すべての距離が曖昧に伸びきっている。此処は何処だ・・・? ただ、闇が果てなく広がる空間。分からない。自分が動いているのか、闇に運ばれているのか。何もかもが、不確かだ。此処は一体・・・此処でどうすればいい? 呼吸が浅く速くなる。経験したことのない底冷えで身体が震え出す。香りがする。この世の全てを煮詰めたような吐瀉物の香りだ。一体、誰の何の吐瀉物なんだ? 耳を澄ますと、今度は、ぐすっぐすっと鼻をすする音が聞こえる。なんの音だ? 泣いているのか? 泣いているとしたら、これは・・・誰の涙なんだ? 此処は・・・此処は何処なんだ?

『久しぶり。久しぶりだけど、今度は、僕のことを覚えてくれているかな』闇から一羽のカラスが音もなく浮かぶ。闇の中で型取られた鴉の雛形のようだ。その鴉は飛ばない。カァカァとも鳴かない。もはや、鴉の擬態をしただけの中身は他の何かであるようだ。

「以前、一回だけ会った、八咫烏?」と僕は問いかける。ははぁははぁと、闇の中から八咫烏は笑う。大笑いだ。不思議だ。僕は泣きそうになる。闇の中で聞こえる八咫烏の笑いとは、此処まで魂を揺さぶるものなのかと。僕の魂はもはや押し殺すのが難しいほどにはち切れている。『いいよ。泣いてくれたって。笑ってくれたって。どちらでも全くに構わない。だって君は、それほど大きな一歩を踏み出した。僕のことを覚えてくれているということは、君はついに君自身が持っている心の直感と向き合ったということに他ならないのだから』僕は八咫烏の言葉に従うまでもなく、泣き出した。涙は、壊れた蛇口のように全く止まらなかった。気がつくと、身体は寂しさで魂の芯からぶるぶると震えていた。寂しい。ずっとずっと寂しいんだ、僕は。『そうだ。力の限り、泣くと良い。君にはその資格がある。寂しさで身体が震えるのは、君が何よりも生身である証拠だ。君は麻痺しなかった。どれほど周りの医者が君に全身麻酔を促しても、君は、麻酔は大丈夫ですと断ってきた。立派だよ。君は本当に立派だ。そうだな。僕が好きなアーム・ストロング船長の言葉でも借りようか。君にとっては、小さな一歩かもしれない。もしかしたら、歩んだという感覚すらないかもしれない。だけどね。君の未来にとって、それはそれは本当に大きな飛躍を、君は勇気を持って踏み出した。それこそ、僕が泣きそうになるくらいに立派な勇気を持ってね』僕はゆっくりと呼吸をして、自分のしゃくりを落ち着かせてから、八咫烏に聞く。「ねぇ。此処は一体何処なの」八咫烏はははぁともう一度心地良さそうに笑ってから、『何処だっていいさ。此処が何処かを、君が知る必要はない。此処が何処かを分かると、人は癖になって此処にやってきてはしがみ付くんだ。僕はそういうナルシシズム的な人を何千万回と見飽きている。でもね。此処が何処かを知らなくても、東西南北のとの字も分からなくても、それこそ地図なんか読めなくても、君が全身麻酔の手術を受けない限り、君は此処にまた来ることになる。そうだな。あえて言うなら、此処はそういう人には、いつでも開かれた場所だ』八咫烏は闇の中を楽しそうに飛びながら言った。「分かった」僕の身体の震えはまるで消えていた。闇に目が慣れてきたのかもしれない。来た時ほど暗いとは感じなくなっている。「今日はありがとう。でも、僕はそろそろ此処から出たいと考えている」八咫烏はぴたっと闇の中を飛ぶのを止めて、『出ればいいさ。自由に、出ればいい。此処はそういう場所だ』と言った。僕は「その出方が分からなくて困っているんだ」と応える。『それは、まだ常識に囚われているせいだ。入ったら出る。その考え方がネックになっている。考えるんじゃない。目を閉じて、聞くんだよ。答えは、いつも開いた口の中じゃなくて、閉じた目の先にある』八咫烏はそう言って、パタパタと闇の中に溶けるように、消えていった。心臓の奥から、カァカァという鳴き声だけが薄く遠く聞こえる。答えは、いつも開いた口の中じゃなくて、閉じた目の先にある。僕は目を瞑る。そうか。

 闇が鼻孔を満たし、喉を通り、肺の奥へと沈んでいく。闇の静寂が血の中に流れ込み、体内の血液と混じり合い、動脈を泳ぎ、全身を渡る。もう一つともう一つと、僕は吸う。目を開ける。辺りの闇は眩しいほどの光に変わっている。僕の両目からは、事前に図り合わせたように、透明な水が一滴ずつ溢れる。そうか。此処は・・・『そうだよ。君が思っている通りだ。此処は・・・、『孤独』だよ』八咫烏は、心臓の奥の奥から低いドロンボーンのような声で話す。『誰の心にも存在する筈の場所だ。その中で、君は正しい選択をした。『孤独』の中では、天を探そうと空を飛ぶのも、一層沈んでしまおうと深い闇の底に潜ろうとするのも間違っている。此処には、公式がある。君がやってのけたように、吸い込むんだ』八咫烏はそこまで言うと、ぷつっと紐が切れた糸電話のように、無だけを宙に残して消えた。数秒の沈黙が、置かれた後のこと。それは、人生で聞いたことのない静かな声だった。



『すると、孤独は君の一部になる。孤独を認めて、自分の一部と認識すること。対話すること。僕はどうしたい? 私はどうしたい? それは、とても美しいこと。なぜならそれが、人の個性を形作るのだから。これから君がするべきことは、これからの君が決める。当たり前の事だ。だから、これはアドバイスじゃない。私のエゴだ。君は孤独に酔うべきじゃない。孤独は、それ自体には意味がない。だから、君は孤独を何かに変えろ。願わくば、狂ったこの世界を変えろ。一人じゃない。二人で、だ。孤独は、磁石だ。君は、出逢う。君と似ていて非なる孤独に。俺の名前は、XXXXXXXだ。また、な』


 翌朝、目が覚めると、まず耳に飛び込んできたのは、岩を穿つほどの雨音だった。空の全てが泣き始めたように、部屋の中は薄暗く、カーテンの隙間から漏れる光すら、灰色に濁っている。ゆっくりと布団から抜け出し、窓際へと歩み寄る。ガラス越しに見える景色は、水の幕に包まれているコンクリートだった。無数の雨粒が窓を流れ落ち、満遍なく水を湛えている地面はすでに川と等しい。瞼の奥に残る微睡みはあっというまに消え失せ・・消え失せたのに、現実と夢の見分けを未だ失いそうになっているのは、昨夜の夢が余りに現実リアルで、目の前の豪雨が昨夜の夢の結末とおおよそ真反対の展望を示しているせいだろうか。   

 僕は目を瞑る。目を瞑った先の暗闇には、世界を吸い込むためだけの皮膚色の鼻が浮かび上がっている。

 ユエルは息を吸う。湿度に覆われた暖かな雨の匂いが鼻腔を通り抜け、肺を巡る。昨夜の夢の中のことを振り返る。

 僕のことを覚えてくれているということは、君はついに君自身がずっと持っている心の直感と向き合ったということに他ならないのだから。

 なるほど。八咫烏が言うことに従えば、僕は僕自身の心の直感と向き合った。いつのことだろう。僕には思い当たらない。

 でも、不思議だ。その通りだと、僕は共感している。僕はどこかのタイミングで、僕の心から逃げることをやめた。それだけは、間違いない。どうしてか。僕の身体からは、筆舌に尽くしがたい静かだが着実なイライラのようなものが、綺麗さっぱり消え去っているからだ。  

 そして、八咫烏が与えてくれたこの事実を一旦認めると、僕の心と身体には、今までに経験したことのない肯定感が巡り出す。

 外は豪雨だ。だから、なんだ。外が豪雨だから、気分が落ち込むのは昨日までの話だ。いつだって、僕の心が僕を形作る。外の世界がどうだから、どう、なんてのは、辟易だ。このままじっとするわけにはいかない。心に沸いた取り止めのないこの肯定感を、僕は今すぐに解き放たなければならなかった。僕は今すぐに窓を開けて大声で叫びたい気持ちになった。でも、近所に迷惑がかかる。だから代わりに、ナイキのスニーカーもプーマの靴下も履かずに、裸足で雨の中に出掛けることにした。

 ドア(扉)を開けると、正面から緩い温度の空気が吹き込んだ。湿気た風に目を瞑り、再び開けた時。目の前には、弱虫で幼い、くっさいうんこのような猫背の僕が立っている。空蝉のような姿見に、ユエルはゆっくり微笑む。『大丈夫。今度は、僕が守るから』行ってくるからなって。それから、土砂降りの雨の中を素足で走りまくった。いや、走りまくってやったのだ。暖かい初夏の朝だった。気が狂ってしまいそうなほどに、僕は幸せだった。全身を叩く雨粒と、自分の荒い息遣いだけが、音だった。ザァザァと、ハァハァだけで、僕の世界は成り立っていると考えると、身体がゾックゾクとした。今、死んでもいいと思った。死んでもしまえと思いながら、累々の雨の束に身を賭した。




「返信遅くなった。6/21 22は一日中空いてて、26と28は夕方から空いている」

 六月十五日の今朝、東京は歴史的な突発的な豪雨に襲われました。一時間に、60㎜の降雨が記録されました。へぇー、60㎜ね。もしかして昨日、僕が夢の中で堰き止められなかった涙と昨日の24時間のうちに世界中で流れた涙の総量かなと思いながら、ユエルは、宝くじに未来の予定の空きを送った。

「バーカ。じゃあ、21日。朝十時に吉祥寺、公園口前ね」

 午前十時に宝くじに送ったメッセージの返信が返ってきたのは、夜の9時だった。

「了解!」

 ユエルは、21;15分に返信をした。

 もし、雨が世界中の涙の総量で成り立っているとしていたら、悲しみはこの世から無くならない方が良いのかもしれない。涙のほとんどは悲しみで出来上がっていて、農業のほとんどは天然の恵みの上に成立している。悲しみは、無くならない方がいい・・・? 

 そうかもしれない。

 芋虫のようにゆっくりと布団の上に上がる。白い壁を背もたれにして、目を瞑る。明日は月曜日だ。大学が始まる。

 今日は、良い日だった。それなら、明日もきっと良い日だ。

 僕は布団にくるまって、眠る。なかなか寝付けなかった。脳の全体から、目の奥から、心臓の真中から、未来の光が差し込んでは、止め処が無いせいだ。



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