第二章 変わらない児童館
第二章 変わらない児童館
「終わりは同時に始まりって言う人がいるけど、それは間違っている。終わりはただの終わりとして終わり、始まりはただの始まりとして始まっている。それぞれは、独立しているんだ」
「独立ですか?」
「独立だ」
二年ぶりに会った藤川先輩は地方銀行に勤めている。
日々、保証人審査と決算書の目通しでクタクタなはずなのに、先輩の胃の中には、芳醇な怒りと言葉が溜まっている。
「始まりは終わりの始まりというのが、嫌いだ。俺だって、四ヶ月前に五年付き合った彼女と別れたよ。結婚するとさえなかなか思っていた」
そうなんだと、僕は思った。『結婚』か。
「だけど。五年付き合って別れた=永遠は存在しない、じゃない。絶望がしたいだけのオナニー野朗の言い草に、俺は靡かない。そういう糞みたいな話は、マルポロを吸いながら、『そうなんですか! 勉強になります!』聞き流すものだ」
「でも先輩、煙草吸えないですよね?」
先輩は楽しそうに笑った。俺が言いたいのは、聞き流すことと人の話を聞かないことは別のことだってことなんだ。
それから先輩は、咽せた。吸えない煙草を肺に送ったからだ。
「大人になっても、変わらないことはある」
先輩は、世界にはもう希望しか残っていないと信じて疑わない子供のように笑って、喫煙室を出た。
『喫煙室で立ち話をしよう』
昨日ぶりの友達でもおかしいのに、それが二年ぶりの先輩からの誘い文句なのだから、非常識だ。だが、非常識。良いじゃないかと、僕は思った。
「とりあえず。新手のネズミ講じゃなくて、安心しました」
吉祥寺の東急百貨店の喫煙所から『太陽の広場』の芝生の上に場所を移して、僕らは二年ぶりとはとても思えない居心地の良い会話の間隔で冗談を言い合った。
緑色のツンツンとした芝生の上で仰向けになると、空の雲が近く、灰色の雲の隙間から覗く青には、絵の具にはない無二の手触りがある。触れられなくても良い。でも、舌先でちょこっと舐めてみたい。そういう手触りだ。
七日に一日は東京の街に訪れる可も不可もない空模様の下で、僕らはどちらにも寄らないシーソーの上で、対等な会話を交わしている。僕にはその不変が、嬉しい。例えばそれは、土地の再開発が推し進められている世の中で、何一つ変わっていない地元の児童館を見つけたようなもので。損得じゃない場所で、心が笑うのは本当に久しぶりのことだなと、僕は思う。
高校の彼女と別れてから、二年が経っていた。ということは、三浦紗枝と別れてからは、一年と十一ヶ月が経っている。
もうすぐ、大学三年の真夏が訪れる。
僕は回想する。僕の元を通り過ぎた季節のことを。色々なことがあった。本当に、色々なことがあった。
僕は目を瞑る。
瞑った先には、一足先に春の陽射しに溶けた先輩とはまた異なる、僕だけが経験して、僕だけが吸収した海馬の世界が紡がれている。
大学一年目の春。
風はまだ肌寒さを残しながらも、柔らかな陽射しが雪解けの大地を照らしている。桜のつぼみはゆっくりと膨らみ始め、川沿いの草木が新しい緑を芽吹かせる。土の匂いが濃くなり、野の花がほのかに色を添えてゆく。僕は目を瞑る。
記憶の中で、僕は息を吸う。
東京じゃない。僕は日本の春を吸っている。吐き出したくないほどの充満な蜜の香りが、肺の中を巡っている。
大学一年目の夏。
空は青く澄み渡り、陽射しが地面を焼くように照りつける。濃い緑の木々が風に揺れ、蝉の声がどこまでも響き渡る。夕暮れには真っ赤な太陽がゆっくりと沈み、夜の帳が降りるころ、川面に蛍が淡い光を瞬かせる。
僕は、樹齢数千年の大樹の下に寄りかかり、蝉の声を聞いている。閉じた目の先には、蛍の光が陽炎のように揺らめいている。
命の歴史を、僕は香っている。
大学一年目の秋。僕は、樹齢数千年の大樹の下に寄りかかり、蝉の声を聞いている。閉じた目の先には、蛍の光が陽炎のように揺らめいている。山の木々が赤や黄に染まり、風が乾いた葉を静かに舞い上げる。黄金色の稲穂が陽を浴びて輝き、収穫の季節を迎える。夕暮れは少しずつ早まり、川辺には白いススキが揺れ、澄んだ空には高く群れ飛ぶ鳥の影がある。
市場には、秋の味覚であるカボチャやサツマイモが並んでいる。
僕はそれを一つ手に取り、秋を見つめる。そして、僕は想像している。木枯らしの全てが僕の上に降り注ぎ、次に通過して、今度は降り注いだ全ての木枯らしをベッドにして、ひっそり何処かの公園で眠ってしまうことを。僕は、独りを嗅いでいる。
大学一年目の冬。
冷たい風が吹き抜け、森の木々は葉を落とし、静寂に包まれる。灰色の空から細かな雪が舞い、やがて大地を覆う白銀の世界へと変わる。夜には家々の窓から灯る光が雪に反射し、しんとした静けさが広がる。少しずつ早まり、川辺には白いススキが揺れ、澄んだ空には高く群れ飛ぶ鳥の影がある。
トンネルを抜けると、そこには雪国があるらしい。僕には、まだ抜けられない長いトンネルだけが、続いている。
僕の鼻は、副鼻腔炎を起こしている。「細菌感染を起こしています」と、医者に言われている。『細菌の感染?』 と僕は思っている。
大学二年目の春。
柔らかな桜の花びらが風に舞い、新緑が再び木々を彩る。川のせせらぎが冬の寒さを洗い流すように響き、小さな蕾たちが温かな陽を浴びてほころび始める。野には蝶が舞い、世界には鳥のさえずりが響いている。
抗生物質が効いたのか。副鼻腔炎は無くなっている。
僕は青い春の中で、何千と積み重なっているキャンパスの上で、何千一回目に上塗りされた真っ白を嗅いでいる。
でも実は、それは真っ白では無い。
積み上がった数千のキャンバスから滲んだ色々の上に塗られた白色であることを、僕は嗅ぎながら感じている。吸い込めば吸い込むほど、僕の涙腺は情動に緩んでいく。
玉葱を調理すれば涙腺が刺激されることを知りながらも、何十万と玉葱を調理し続ける寡黙な料理人のように。
僕は世界を吸い続けている。
大学二年目の夏。
空は雲一つなく青く、強い日差しがそのまま地面に届いている。舗装された道路や歩道は熱を帯び、近隣の建物もその熱を受け、柔らかな赤みを帯びた輝きを放っている。街路樹や公園の木々は濃い緑を保ち、わずかな風で葉が揺れる。夕暮れになると、太陽はゆっくりと西の地平線へと沈み、空の色は鮮やかなオレンジから柔らかな淡いオレンジへと変わる。
僕はどこにも立ち行かない猫背で、昼より冷たいアスファルトの上に座っている。
僕は、夏の夜を吸い込んでいるのではない。僕は、終わらない永遠と、死んではいけない道徳が調合された、果てしなさを吸い込んでいる。
大学二年目の秋。
僕より先に現実の世界に戻った先輩からの肩たたきで、僕の意識はゆっくりと「今」に引き戻されていく。
「今」は過去の全てのキャンパスの上に立っている、当たり前のことを、僕は異常な奇跡として認識しながら、目を開ける。空に浮かんでいた灰色の雲は、果てしない青に変わり、太陽は今すぐ捕まられそうなほどに、眩しい。
「どうだ。よく眠れたか?」
「はい、よく眠れました」
広場に集まっていた赤ちゃんの泣き声や、母親同士にしか分からない苦労話や、高校生同士の青春の間を邪魔しないように通り抜けて、僕らは広場を後にした。




