第一章 火日常
物語は、大学二年生になったユエルの回想と、現実と非現実の境界が曖昧になる体験から始まる。穏やかで透明だった一年は、説明のつかない違和感とともに終わりを迎え、世界は静かに歪み始める。
ユエルは、法廷のような空間で八咫烏を名乗る存在と邂逅する。八咫烏は、人間の直観や世界の秩序、そして「死ぬべき人間/死ぬべきではなかった人間」という不穏な言葉を残し、ユエルの記憶に強い痕跡を刻む。その直後、ユエルは亡くなった同級生弥生美沙と一時的に対話するという、現実離れした体験をする。弥生は「月へ行く」と告げ、限られた言葉だけを残して消える。
現実に戻ったユエルは、弥生の死(転落事故)を「たまたま」とは受け取れず、そこにある空白と違和感を抱え続ける。やがて、同級生の三浦紗枝と向き合う場面では、彼女の過去(暴力的な訓練、歪んだ成功体験、自己同一性の崩れ)が語られ、二人は互いの孤独や逃避を映し合う。倫理や関係性が崩れたまま、欲望と空虚が交錯し、ユエルは裏切りと自己嫌悪の中で「人間であり続けること」に敗北した感覚を抱く。
物語の終盤、ユエルの内面は激しく崩壊し、世界への怒り、孤独、救済への渇望が洪水のように溢れ出す。
第一章 火日常
ユエルが入学式に向かってから、一年が経った。
年号は令和のままで、2025。4から5に変わった。だけなのに、何かの螺子が巻かれ、何かの概念が渦を巻いたような音がした。
ユエルは、大学二年生になっていた。
悪くない一年間だった。
季節がゆっくりと穏やかに移ろいだ、青写真のような一年間だった。空の雲は近くなったり、遠くなったりした。月も満ち足り、欠けたりした。綺麗な日々だった。透明なせせらぎの音が後ろから聴こえてくるような、まっさらな日々が続いたら良かった。
でも、続かなかった。
コンクリートのような約束。最新機種のスマホ。コイントスと変わらない永遠の誓い。継承と消耗が前提の個体。
変わらないとは、観測できないほどゆっくりと変わっているだけ。
※
前方を見渡せば、秩序が重なり合った風景。正面には、裁判官の席が高く設えられ、背後には、国の象徴とも言える紋章が掲げられている。
裁判官は黒い法服に身を包み、表情を崩さずに記録を見つめている。横には書記官が静かに控え、細かな筆記音だけが彼女の生命の色を表している。法廷内の壁は無機質な白、もしくは木目の静かな色合いで統一され、不必要な装飾は一切なく、ただ正義の場としての厳粛さが支配している。窓から差し込む光は抑えられ、人工の照明が規則的に配置されている傍聴席では、記者が静かにメモを取る音、誰かが息を飲む音が合わさり、耳を澄ませば演奏のようにも聴くことが出来る。ここが舞台の上なら、ジョン・ケージの『4分33秒』よりも美しい音色だ。でも此処は、舞台の上じゃない。
ここは、・・・何処だ? 何処なんだ?
カァカァ。カァカァ。鴉の鳴き声が心臓の奥で響く。カァカァ。カァカァ。鈍く重い振動が心臓を揺らしている。低音のトロンボーンが体内で暴れているようだ。
『また呼んでくれて嬉しいよ。こういう形で会うのは、久しぶりだね。僕の名前は、ユエルだよ』心臓の奥の奥から、鴉が日本語を話している。また? 久しぶり? 僕と同じ名前なのはどうして? 口にしようとするが、僕の口という器官はこの世界には存在が無いようで、口を開くことはもちろん、口が何処にあるかを認識する事すら出来ない。だが、不思議だ。目は存在している。そして、いつもの操作も出来る。だから、僕は目を瞑ることにする。口が無いなら、目も必要ないという様子で。『そう。僕は、君と同じ名前を持っているんだ。馴染みがないかな? 一般的に、僕はこう呼ばれている。八咫烏って』 八咫烏? と僕は思う。神の使いが、どうしてここに? 『ノンノン。みんな神の使いなんて僕らのことを呼ぶけれど、それは歴史の誤解と人間の神話作りのせいだよ。実際には、僕たちは常にみんなの周りを飛んでいる』みんな?と僕は思う。口が無くても、会話が出来ている。八咫烏は、僕のどこから僕の声を拾っているのだろう? そもそも、声とは何だ? 『そうさ、みんなだよ。会社員の人。投資家の人。キャバクラの人。現場の人。セクシー女優の人。殺人犯の人。君の横を通った人。君の横を通り過ぎた人。監獄に入っている死刑囚の周りにもいるよ。僕たちは常にいる。こうして会話をする事だって、往々にして普通さ。でも、みんな何故か忘れちゃうんだ。きっとその方が、今を生きていく上では都合が良いせいだろうね。だから出来れば、ユエルくんは今日こそ忘れないでいてよ。寂しがり屋の僕のためにもさ。あとね、忘れないでいてくれると、ユエルくんにも良いことが起こるよ。望もうと、望まないとね、忘れないでいてくれた人たちの笑顔は、すごく魅力的なものに変わっていく』笑顔が、すごく魅力的なものに変わる? 僕は笑顔が、すごく魅力的なものに変わっていく過程が上手く想像できない。『あ、そうだ。この言葉だけは、残しておかないといけない。今の君になら、意味が分かるかもしれない。君の思った通りだよ。弥生さんは、死ぬべき人間では無かった。そして、この世には死ぬべき人間というものは確かに存在している』ひらりひらりと八咫烏の黒い羽根は捲れていき、古びた羊皮紙に変わる。蛇の脱皮を見ているようだ。僕は羊皮紙で創られた巻物を開き、墨で描かれた文字を読む。
『神は、人間に直観を授けた。カオスなこの世界を調和する、唯一の秤を担える存在として。直感はただそれだけで機能する、はずだった。だが、この世界に暮らす人間は余りに弱く、余りに群れた。だから、神はXXXXXXXXXXXXXXXXXX』
神は人間に直観を授けた・・・?
翌朝、目を覚ますと、灯りが消えた畦道を歩いていた。
月は雲に隠れ、遠くの民家の灯も背中に消えた今、風が稲を揺らす音だけが耳に残っている。
足元はかすかに濡れていて、夜露を含んだ土の匂いが立ちのぼる。どこかへ向かっているはずなのに、理由も行き先も思い出せない。
ただ、引き返すという選択肢だけが妙に遠い。
「また明日」
弥生美沙の最後の聲が、耳の中から聞こえる。
柔らかい桃色の笑みを湛えて、弥生美沙が教室を出ていく映像が、目の前にいきなり映し出される。画面が切り替わり、弥生美沙の眼にカメラが埋められているような、一人称視点からの映像に切り替わる。
全てが滑らかに、突然だ。
畦道の感触は明後日に消え、今や、ユエルは、あの日の弥生美沙を追体験している。がががががががががっっっっっ。やはり映像は、あの瞬間ーーー弥生美沙の生命が失われるところで、静止する。
酷いノイズだ。
ジャミングを受けながら、放送を続けるラジオのようだ。
「久しぶり」
映像が消えたと思えば、今度は、弥生美沙が、ありありとした触感と肉体を持って、僕の目先に浮かんでいる。
「今から、月に行きます。でもその前に、話せる人を一人選んで、話すことが出来る権利を得たから、ユエルの前に現れました。元気にしている?」
常識が、床下から静かに崩れていく音がする。夢とはとても言えない、昨夜の八咫烏とのストーリーを整理する時間は与えられないまま、非常識な出来事が常識の堤防が崩れたように連続的に押し寄せる。
「ああ、元気にしている。色々なことが分からないけど、あと何分、僕らは話せる?」
「時間じゃない。言葉の数が決まっている。今ので、あと二言ね」
あと二言。
ユエルは、何を話せばいいか分からない。何を聞けばいいか分からない。死者との対話に対する手持ちがまるで無いのだ。
「ねぇユエル。月が、綺麗だよ」
それって。僕の返事は、宙に置き去りになった。弥生は、光の大砲のような太い円柱に打ち上げられるように、空を光の速度で昇った。ユエルは、部屋の中から天井を突き抜けて空を透視できた。
ユエルの意識は、電球のように、ぷつんと切れた。ユエルが眠っている間に、赤く黒い革の靴は、踊るのを止めて、ユエルの海馬に強い電撃を喰らわせた。
そのため。
ユエルが目を覚ました時には、ユエルから見れば、世界は何も変わっていない。
雲があり、空があり、革の靴が踊っている。ただ、弥生と話したい想いと、それが二度と叶うことはない現実が、桜餅のように喉の下あたりで膨らんでいる。異変だ。でも、雨は降らない。
弥生美沙。
同じクラスで授業を受けたうちの一人。僕らの語学授業のクラスは、四人だけだった。
弥生美沙。
三浦紗枝。
春秋依真。
そして、ユエル。
僕らはきっと、知らないうちに踏み絵を踏むことを断ったのだ。
つむじ曲がり僕ら四人組。一人が、死んだ。
死とは、まるっきりぽっかり穴が空くことを意味する。心臓が止まることや、悲しみの涙?笑 副次的事象に過ぎない。
生活に穴が空く。永続的に。死とは、それ以上でもそれ以下でもない。
弥生美沙は、たまたま階段から滑り落ちて後頭部を打った。当たりどころが悪かった。自発呼吸を担う脳幹を強打した。それから数時間後に、弥生の生命は失われた。
ユエルは思った。
たまたま・・・?
※数時間あれば、人は死ねて。数日あれば、人は裏切りに遭う。
ユエルは、手元のマグカップに興っている白い竜巻のようなホイップクリームを見ている。三浦紗枝は、ガラス窓から向かいのゲーム・センターを見ている。二人は手の平二個分の間隔を空けて、隣同士に座っている。スツールの上には、肘をついた二人の四つの肘が並んでいる。遠くの方からぼんやり見ると、算数の規則性の問題みたいだ。
二人が見ているものは、北と南くらい離れ、二人の心象風景は象と兎くらい縁がない。それでも二人は、手の平二個分の距離感に微かな緊張を覚えている。物理的距離は精神的距離に影響を及ぼし、精神的距離は物理的距離に比例するとは限らない。
「弥生が死んだのは、残念だったね」
「うん。まさかあんなことになるとは」
添えられた小さい銀色のスプーンで、ホイップクリームをココアの中に溶かしながら、ユエルは答える。
「ユエルが後ろから押して、どーんと突き飛ばした」
「意味が分からない。僕が押した?」
「そう。ユエルが押して、殺した。人はいつだって他人を殺したい生き物だから」
三浦紗枝は、窓の向かいからユエルの右頬に視線を移している。ユエルがいつもより長い時間をかけて抽象的な感情を人に伝わる言葉に置き換えていると、ストップウォッチってあるでしょう? と三浦紗枝は言った。
「嗚呼、ある」と、ユエルは答えた。
「ストップウォッチ止めって流行ったじゃない? 目を瞑って、十秒ちょうどで誰が正確に止められるか。私、あれが、林檎の皮剥きよりずっと得意なの。高校生の頃に、そういう大会が開催されるそういう高校だったから」
そういう大会が開催されるそういう高校? とユエルは思う。
とてもじゃない。全校生徒一人ずつにストップウォッチを配布し、数百人が同時に目を瞑り、体育館だか校庭の上で、全神経を親指の先だけに集中させる。
とてもじゃない。
「一年生の頃はボロ負けだった。七秒辺りで止めちゃって。それじゃあいけないわって母に頬をぶたれて。ぶたれてぶたれて。いっそう、意識が飛んでしまえば楽なのに。今度こそはって、必死に練習した。親指に出来る豆が潰れて、また出来て潰れる。ストップウォッチを押して離して、止める。また押す。ぶたれる。押す。止める。潰れる。ぶたれる。押す。止める。ぶたれる。おかげで、二年生と三年生で連覇を果たせた」
ユエルは、何も言えなかった。正確に言えば、何も言うことが無かった。三浦の話は、閉じられた村のように、完結していたから。
「素敵な話でしょう? 薔薇が赤いくらい当たり前に素敵なこと。ロシアのフィギュア・スケーターがトリプル・ループを決めるくらい、華麗なこと」何かを言わないといけない間が対話に存在するとするなら、今だとユエルは思った。何かを言わなければならない。何かを言わなければ、何かが崩壊する。
「努力して、自分の苦手を克服することは、大変なことで誰にでも出来ることじゃない」
「そして、誰も「私」のことを知らなくなる。やがて、「私」の周りには誰もいなくなる。私自身さえも、ね。ぶたれる。押して止める。潰れる。ぶたれる。押して止める。潰れる。優勝する。押して止める。潰れる。押して止める。潰れる。二連覇」
三浦は一泊を置いて、読点を点けるように言う。
「私は、誰?」
「三浦紗枝だよ」
「正直、少し特殊な環境で起こった出来事には思う。それでも、事実、今、三浦は僕の目の前に座っている。そして、イングリッシュ・ブレック・ファーストを飲んでいる」
三浦紗枝は慌てるようにユエルの両眼を見て、驚いたようににったり笑った。「私が、ユエルの目の前に座って、イングリッシュ・ブレック・ファーストを飲んでいる?」
「ああ」
三浦はユエルの黒目を二秒じっと見てから。ワニのように大きく口を開けて、音なく腹を抱えながら、眼だけはユエルから逸らさないままで、笑い出した。見たことがない、人間の所作だった。人は無音でここまで笑えるのかと、ユエルは驚いた。次に、コードの切れたラジコンのように、三浦紗枝はとつぜん静止した。ユエルを見つめていた三浦の眼は、すっと窓の外にやられ、今度は、窓の外より遥か遠いところを見つめた。
「フェンタニルの売人が嫌いなところは、偉そうなところ。骨が浮かび上がるくらいに乾涸びた人間を見て、『こいつらの格好を見ろよ』と上から見下ろすところ。・・・だから、私は実験をしてみました!!」
三浦は珊瑚色の生ぬるい舌を出しながら、ぱんぱんぱんぱんぱんと五回拍手した。三浦の視線は、虚ろなビイドロに等しくも、ドラゴンのような熱も帯びている。
三浦と、ユエルは思う。
段落のないフェンタニルの話が始まろうとしている。だが同時に、止めらない。段落も文脈も超越したところに、人の本音はある。こうなると人は止められないものだと、ユエルは知っている。
「売人の彼らにもフェンタニルを吸わせたり、嗅がせたりしたの。そしたら、どうなったと思う? 彼らは私に見下ろされていることに気がつかないくらい、脳の芯まで乾涸びたの。それで、あれをくれそれをくれってせがむの」
「ああ」とユエルは頷く。
「見下していた人が、次には、見上げている。これが、この世の中なの」
「ああ。それが、資本主義だ」
三浦の話は、的を得なかった。目を瞑ってダーツに投げているような。ダーツという遊びはしているが、ダーツではないダーツを見つめているような。
「三浦は、それが嫌ということ? 見下していた人が、次には、見上げているこの世の中が?」
「嫌じゃない。ただ、寂しいだけ」
三浦紗枝の頬は、穏やかでフェミニンなものに変わっている。
「ユエルには、恋人はいる? 大切な人」
「・・いないよ。大切だった人は、いるけど」
「・・・そっか。じゃあ今日は、これくらいにしておこうかな。今日の夜、中学からの友達に会う予定なの」
「うん、とても楽しかった。友達とは、何処で会うの?」
ユエルは、窓際のハイ・スツールから立ち上がって、黒のダウン・ジャケットを羽織る。
「このまま新宿で会おうと思ってる。まだ決まってないけど、ちょっと本屋さんで立ち読みしながら待とうかなって」
三浦紗枝は、白い匿名のウール・コートを羽織り、MICHAEL KORSのショルダーバッグを肩からかける。
三浦の胸と胸の間に挟まった紺色のベルトは、三浦紗枝の左右のおっぱいの大小を定義している。右の方がやや大きい。重力の影響か、発達の帰結か。
「そしたら、僕は先に帰るから、もう少しここでのんびりしたら? 本屋の立ち読みは、頭より足が先に疲れるって聞くから」
ユエルはトレーを下げてくると断って、紙とプラスチックを分別してからゴミを捨てる。いつものことだ。ゴミを捨てるという行為が、ユエルは好きではない。好きではない理由は、大抵の場合、好きである理由より簡単に伝えられるが、ゴミを捨てる行為が好きではない理由は、上手く伝えられない。
なんというか。ひどく、自分が残忍に感じられる。ユエルは、空になった両手を必要以上に空だと感じながら、三浦の元に戻る。
「ねぇ・・・。友達じゃなくて、このまま貴方といたいって言ったら、どうする?」
三浦は、11cmの身長差分以上の上目遣いでユエルを見つめる。
甘ったるいと、ユエルは思う。
まだ確信の持てない心と心をきっかけに、ドーパミン同士が紡ぎ合う、探り合いの甘さだ。探り合いの甘さには、ホルモン以外の何かは含まれているのだろうか? 例えば、愛を運ぶ種子とか。あはっ。涙が出てきそうだ。
そもそも、僕は何を期待して三浦紗枝に会っているのだろうか? 三浦紗枝は狂ったように笑ったり、手を叩いたりしていたが、先刻から普通の女の子にしか見えない。
彼女の言葉を借りるとするなら、今の彼女は、三浦紗枝ではないのかもしれない。あるいは、この桃色の女性こそが、三浦紗枝なのかもしれない。
「嬉しいよ」
「うん・・」
三浦紗枝は予感を店内に残して、外に出た。
開いた自動扉から店内に差し込む冬風は、甘さの後に訪れる悲しみを前もって伝える伝承鳩のようだ。時刻は、15時前だ。
僕は、三浦紗枝の唇に口付けをした。
時刻は、20時を回っている。
※数時間あれば、人は死ねて。数週間あれば、女性は、女に変わる。
ユエルは、三浦紗枝とカラオケで二人きりで歌っている。歌っているのか。性欲の前戯なのか。諸行無常と、back・numberが五月蝿いほどに鳴り響いている部屋の中で、二人は6回のフレンチ・キスと、5秒のディープ・キスを交わした。
ユエルには、恋人がいた。
三浦紗枝には旦那がいた。
二人の間に、恋心は少しだけ芽生えている。でもほとんどは、目を瞑りたい現実からの逃避だ。ふしだらの全てがそうであるように。
例えば、三浦紗枝には夢が無かった。
例えば、ユエルは高校からの恋人が浮気していることを知った。
十九歳。
ほとんどの十九歳に等しく、たいそう蔑まれるべき、下品と下品の交差。
「よかったら付き合わない?」とユエルは言う。言えてしまう。
「うん、付き合いたい」と三浦紗枝は答える。答えられてしまう。
つきあう? つきあ つきいいいい つっつつつつつつつつ きききききぃ ああああああ うううううううぅぅぅうう?
文字の輪郭が、ユエルから崩れていく。『つきあう』が、遠い外国語のように、自分の耳に届く。自分の口が言った言葉。でも、欲望が作った嘘吐き。
改札前に立っている三浦の頬は北風で赤らんでいる。乾いていて痛そうで可哀想だ。でもそれだけだ。心と心の架け橋をかけて、心配することはない。
駅の改札を渡った後、ユエルは三浦の方向を振り返りながら、何度も手を振った。そして、一人になった。いや、独りのままだ。何も変わっていない。
嘘をついた。ユエルには、騎乗位の上手い高校からの彼女がいた。
でも今となっては、もうそれだけ。
だから、倫理や道徳に対する罪の意識は生まれなかった。
騎乗位の上手い恋人が浮気をしたように、僕も浮気をした。自然の成り行きだ。浮気という行為自体が、動物の生存戦略として当然の成り行きのように。
弥生が天に還り、真夜中に八咫烏が現れ、高校から付き合っていた恋人が浮気をして、その三週間後に僕が浮気をする。
単純だ。
よくあることだ。
生きてきた日々から見れば、瞬きにしか過ぎない時間が、積み上げてきた全てを、嘲笑うように壊していく。ちょんと、レンガの底を一段抜かれるように、ばーん。崩れ去る。
ユエルは「人間」を辞めさせられた。
いや、違う。
ユエルは、「人間であり続ける」に敗北したのだ。ほとんどの人類が敗北しているように。
人間と怪物の階層は、もっと離れている。絵本でも、寓話でも、子供の頃から教えられてきた。二つの間に強固な壁があって、二つの世界は大きく隔たっていると。だが、怪物は人間のわずか一個下の住民に過ぎなかった。僕はもう、人間ではない。怪物だ。そのことが、心の深いところで分かる。汚れた。堕ちた。僕は怪物に成った。どんな言葉を飾ろうと、どんな外見を磨こうと、変わらないこと。
僕は汚物。
大脳は、もはやまともではない。ユエルの足元は、土砂崩れを起こしている。目の前にあったはずの現実がポロポロと崩れていく。バナナの皮に滑るように、やーめた。現実の舞台から降りてしまいそうになる。
すべーて、やーめた。幼稚園児のように、泣いて終わればいい。明日の日の出には、朝ごはんが楽しみになってればいい。
でも、僕ら。
未来を考えてしまう。希望の所在を探してしまう。生きる光がない現状が、未来永劫続いていくと落ち込んでしまう。汚物は汚物のまま、一生這い上がれることなく死んでいくと思い込んでしまう。
死の世界を目先にして、浮かぶのは、孤独の船の上の景色だ。船員は全員下船した青色の船の折れまがった帆。僕は、未だに、僕を捨てきれない。下船して、俗界に喧騒と大爆音で誤魔化しながら生きることと、折れ曲がった帆を一人でに修繕する。どちらが実は辛いのか。僕には測りきれない。不器用なだけだ。意固地なだけだ。分かっている。でも、僕は『僕』を誤魔化せない。ユエルはその結論に達した。だが、それだけでもあった。だからどうすればいいという解決は、ユエルの手の内には無いままだ。
ユエルは、21:00過ぎの山手線の手摺に捕まりながら、揺れながら、電車の急停止で尻もちをついた。受け身も忘れていた。捕まっていた手摺りは最初から存在していなかったように無力だった。
手首を捻って、少しの痛みが走った。物理的な多少の痛み。それだけなのに、苛つく。訳も分からないくらいに、ユエルは苛立つ。
血液に殺意が流れるようだ。全身にナイフが行き渡るようだ。とにかく、苛立つ。立ち上がるのも億劫だ。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないです」と言って、ユエルは起き上がる。
混雑で、僕の言葉は常識に掻き消されたらしく、僕の『大丈夫じゃないです』は、彼らの耳には「大丈夫です」と届いたようだ。
虚しい。俺の声を聞けよ。てか、人はどうして帰らなければいけないの? 家がもう家じゃないのに。面倒くさい。全てが、面倒くさい。壊れてしまえば良いのに。
夜空が裂けて、異界から怪物が現れて、目の前の人間が文明の及ばない力で無惨に殺されて、血飛沫が吹き上がって、自分の頬が鮮血で濡れて、ははぁ、俺の人生、これで終わるんだとか思いながら、目の前に突然ステータス・ウィンドウが開いて、役職:勇者とかが与えられて、光の剣とかの技名で怪物を倒しまくって、うわーーありがとう勇者様とか言われて・・・だから、なんだ?
ただ誰かの胸元で在るがままに喚いて、『大丈夫。大丈夫だから』って温められたい。大丈夫って温めてくれた人を、『大丈夫。大丈夫だから。今度は、僕が守るから』温め返したい。
鶴のような人間に在りたい。
ただ、それだけのこと。
人間として生きていく。
それだけのことが、僕には叶わない。でも周りを見渡すと、一体、誰が出来ていると云える?
怪物と僕ら。何が違う?
角がないこと?
ねぇ、答えてよ。
大脳があること?
ねぇ、教えてよ。
心が、泣くこと?
ねぇ、撫でてよ。
僕ら、あまりに醜い怪物じゃないか。
怪物と僕ら、あまりに黒いじゃないか。あまりに、真っ黒じゃないか。ねぇ。僕ら、血も涙も笑顔までも真っ黒じゃないか?
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その二文字が、目先に立ち上がる。心を占領する。心臓は、真っ黒に・・・
「人を諦めて独りぼっちになる事と、人を信じて一人ぼっちになってしまう事の間には、大きな隔たりがあるよ」弥生の声だった。どこからだ。無垢な怒りの声が聞こえる。体の奥が震え出す。心が燃えるように熱くなる。弥生と、ぼくは思う。弥生、と。そこにいるのか、と思う。弥生は、火のようだった。
『ずっと独りか、いつか二人きり。希望の差分だよ。信じて→浮気されて、信じて→騙されて、信じて→陰口を叩かれて、信じて→別れを告げられて、信じて→信じた人に殺されて。それでも、信じ続けた人達だけが行ける楽園が、この世界にはあるんでしょう?』
そうだ。どうしてだろう。必ず、この現実には、そのような場所が存在していると。僕らつむじ曲がり四人組。確信していた。
『ユエル。貴方が、見つけるんでしょう?』
・・・・・・ユエルは、頷く。そうだ。僕らは、命よりも重い約束をした。理想郷の存在じゃない。現実の果てを。僕らは水を掻くように、探すことを。そして、見つけ出すことを。ノアの方舟じゃない。現実の果てに、僕らが人々を運ぶのだ。約束だ。
電車が渋谷に停まる。
すると、世界の様相は変わっている。
見つめる景色は、白く淡い。吐き出す自分の息からは、『人間』が香る。身体は柔らかく、関節はどこまでもしなやかだ。心の内側で微塵まで砕けた核の粉は、金粉のように輝いている。
ふふっ。
弥生美沙のふふっという希望に似た微笑みを、ユエルは聴いたが、すぐに忘れた。それが、死者との対話の条件であることを、ユエルは知らない。弥生は知っている。
それが、涙の差分を育み、時雨を導く。
渋谷駅はその日、観測史上最大の通り雨に逢った。
自宅に帰って、今から別れを告げる恋人との日々を反芻する。
部屋の中は、彼女がくれた三年間の全てで溢れている。
青いスノーボールが机の角で埃を被り、赤い健康成就のお守りがカレンダーの上にぶら下がり、小熊が縁取られた三枚の手紙は木箱の中に立てかけられ、二人でお金を出し合って買った、高校生には高すぎた望遠鏡は、クローゼットの中で日の目を浴びる日を今か今かと待っている。
君がくれた最後のプレゼント。
『ノルウェイの森』まだ、読めていなかった。
ユエルはページを捲りながら、彼女がこの小説を贈ってくれた時の文句を思い出す。『嬉しくないかもしれないけど、私は読んで欲しいって思ったから』。
この小説を贈ること。
それが、最初で最後の彼女の我儘だったのかもしれない。
彼女への想い出と感謝が、『ノルウェイの森』に塩の雨を恵む。ふぅーと気を吐いて、風呂場にお湯を溜めに行く。蛇口を捻って、水温を確かめる。緩い。が、温度メーターを弄る指の力は、今の僕には残っていない。ごぽっごぽっとお湯は流れる。脚は鉛のように重い。浴槽の端に座る。ふぅーといくら気を吐いても、堰き止めきれない何かを、人は愛と呼ぶのかもしれない。
泣いた。脳で吐くように泣いた。泣いた。泣いた。泣けば泣くほど、泣いた。
『高校生の頃、君は美しいくらいに大人で、僕は未来の手取り足取りを君だけに任せていたって、今になって、初めて気づいた。君はそのことについて何も言わなかった。言ってくれなかった。だって、そうだ。母親は子供に対して自分の悩みを相談したりしない。母親は、世界の真実を子供に告げ口したりしない。それが、母親だから。そして、子供は今ある世界が永遠であることに一つの疑いも持たない。分かっている。僕が全部間違っていたなんてことを、今さら言うつもりはない。君は浮気をしたんだから。全ての選択肢の中で、最も深く人を傷つけ、最も自分にとって怠惰な選択をしたんだから。君が母親で、僕が子供。その関係性が、君に一定の居心地の良さを与えていたことも、もちろん分かっている。でも、ありがとうと、今の僕は心から思う。もしかしたら僕らなら今からでもやり直せるかもって、今の僕はもう思わない。泣いたよね。ごめんって。本当にごめんって。私が間違っていたって。もう絶対に会わないからって。それより数十倍、僕が心で泣くことを知っていながら、交わしたキスの味はどうだった? 嫌味じゃないよ。いや、嫌味なのかもね。でも、その数百倍のありがとうを、付き合っている間に君に伝えるべきだった。それだけでも、何かが変わっていたかもしれないと思うけど、多分きっと何も変わっていなかったとも思う。僕らのステージは、余りに違っていたから。真理。今、幸せですか? 君のおかげで、今の僕は、こんなにも大人びた文章を書けるようになった。でも、今の僕らに未来は無い。それなら、離れないといけない。別れないといけない。君がいつも言っていたことが、今になって分かる。未来の為に、今の私たちは付き合っているって。美しい未来が想像出来てはじめて、私たちは今を幸せに生きられるって。まさに、だね。だから、真理。別れよう。 最後に。これからの君の幸せを願っています。心の底から、願っています。何回の人生をやり直しても、最初に付き合う人は、今でも君を選ぶと思う。それくらい、少なくとも僕にとっては、真里は素敵な女性だった。またいつかどこかで、出会えることを願って。P.s『ノルウェイの森』読んだよ。いい本だった。贈ってくれて、ありがとう』
彼女への全てを書き終わって、手紙でも無いのにp.sは可笑しいなとか、僕らは本当に別れるんだなとか、別れるのは嫌だなとか、ずっとずっと一緒にいたかったなとか、そういう感情の全ての余波を、僕は一枚、一枚と服を脱ぎ捨てながら、捨てた。
最後のパンツを脱ぐ頃には、先に身体を洗ってからお風呂に入ろうと考えを巡らせることが出来ていた。
そして、送信した。既読は全然つかなかった。またどこかで知らない誰かと浮気をしているのかも知れないと、独りで想像して、ちょっと笑った。
ブラジルよりも遠い場所に、彼女との全てを置くのは、まだまだ先の話かもしれない。
それでも今日、僕は『人間』に戻れた。
それだけでいい。今は、ただ『人間』だけで。
『ごめんね。私もずっとずっと好きだった。今も好きだよ。けど、何度も読み返した。だから、やり直そうとはもう言わない。でもこれが私たちの最後の会話になるって思うと、本当に寂しいね。私のせいだから、そんなことを言う資格もないけど。ユエルは私にありがとうって言うけど、私からしたら、ユエルが私に伝えてくれる数万倍のありがとうがあるよ。いつも、夢を語ってくれたこと。いつも、本当に優しかったこと。いつも、私とだけの未来を見てくれたこと。いつも、全力だったこと。いつも、不平等なこの世界に怒りを抱いていたこと。ユエルが持っているものは、私にないものばかりだった。ユエルの言う通りだよ。私は浮気をした。どうしてだろうね。人は終わってから初めて分かることばかりだね。どうでもいいと思うけど、私の為に言わせて。その人とは、連絡を絶った。ユエルとやり直そうとしているからじゃないよ。ううん。もしかしたら、そうなのかも笑。私のため。私がこれ以上、私のことを嫌いにならないようにね。ユエルには私なんかじゃあ遥かに及ばない素敵な人が待っていると思います。でも、いっぱいいっぱい苦しむと思います。あなたは、この世界の中で余りに純粋で真っ直ぐだから。でも、こんな私だから、そんなユエルが嘘ばっかりの世界を貫いていく姿を見たいです。本当は、ずっと一番側で見たかったけど、私は弱かった。あなたについていけなかった。大切なあなたの心を傷つけて、本当にごめんなさい。長くなっちゃったね。ユエル、幸せになってね。私も心から願っています。いつかどこかで、ね。P.s 嘘つき。読んでないくせに笑』
全てが曖昧な朝だ。世界の輪郭はぼやけ、意識は考えることをやめている。
酸素だ。
この部屋には、酸素が圧倒的に足りていない。
ユエルは枕元から起き上がり、窓を開ける。
待ちきれない好物を食べるように息を吸い込む。肺にニコチンが行き渡ったように、息を吐き出していく。一回目より、二回目。二回目より三回目。サイクルは緩慢になっていく。心臓に酸素が渡って、意識が覚めていく。
振り返ることは幾らでもあるのだ、とユエルは思う。隠れたい穴も、蹲っていい言い訳も。それでも、だ。それでも、確かなことがある。僕はこれから、未来に向かってきちんと生きて行かなければならない。責任だ。日本という安全な土地に生まれ、きちんとした初等教育を受けられて、泣き笑い出来る人々との出会いを経ている全ての人が果たすべき、道義的責任だ。
これ以上の追慕は、過去を汚す。
顔を洗って、水を飲んで、髭を剃る。こんなことを思う。髪も切ってしまおう。
ユエルは、冬の地元を歩いて、床屋に向かった。吐く息は、「人間」の分だけ白く、寒空を澄ました。




