好きな人が合法的にオレの生命を狙ってくる件について
「映画って、好きですか?」
昼下がりの一幕。
社用車に、二人の男女。
帰社する方向。
その女子社員からの、間を持たすための世間話。
それはきっと、ありふれた日常の光景だ。
だが、オレの精神――いや、生命力は今。おろし金に当てられた大根の如く、ゴリゴリと削られている。
彼女の発した台詞自体は、いたって普通だ。
問題は音にある。
それは少し細目で、甘味があり……それでいて、嫌味がない。
柔らかさを含みつつ高さを備え……それは実に女の子らしい――いや、まさに天上界の美声、天使の声とでもいうべき代物なのだ。
いつまでも余韻が残るような、煌びやかで艶やかな色彩感を奏でている。
さすが、彩音というだけはある。
名前通りに成長した人のようだ。
ただの空気の振動であるはずのそれが、恐ろしいまでの威力……いや、圧縮空気砲すら及びもつかない破壊力だ。
街一つくらいは余裕でいける。
いつまでも聴いていたい、そんな世界の名曲にも勝る音色。
脳がバグりそうだ。
「映画? まぁ、一時期よく観てたよ。内容覚えてないのばっかだけど」
鼓膜から伝わる情報は、脊髄に雷を落としたかのようで、オレは掻き回された脳味噌をフル回転し、社用車のハンドルを握り締めながら、揺れ動く感情を必死で処理しつつ答える。
……大丈夫。
オレはまだまだ平静だ。うん。1+1=2だ。
「昔、週末になるとゲオ行ってさー」
ちらりと助手席に目線を向ける。
視界には、ウェーブがかった檜皮色のロングヘアから覗く、日本人には珍しい、愛らしい黄褐色の大きな瞳が強く映る。
それは、いつか見た沖縄の海よりも深く澄んでいて、真夏の陽射しにも勝る輝きを放っていた。目が痛い。
「その少し前とかに話題になってたヤツとかで、観た事ない作品とかさ、気になったタイトルのとかさ、テキトーに何本か借りてさー」
あまり自分語りに走ると、飽きられないかな? と少し心配しつつも、すっかり気持ちは舞い上がっている。
だが、それは仕方ない。
隣に居るのは陽光に包まれた――いや、神々しいまでの光を自ら放っているかのような、紛れも無い天使なのだ。
うん。
既にオレの心臓は時速140kmを超えている。
高速走行だ。
「トランスポーターとか、指輪物語とか、色々観たよー」
その深い瞳に吸い込まれるように、薄れた記憶の引き出しを開け放つ。
前方は赤信号。
信号待ちでは止まれたが、どうやら心のブレーキは壊れたようだ。
ノンストップ。160kmで突っ走る。
「邦画は観ないんですか?」
再び発せられる天使の声に、最早うっすらあったはずの記憶すらも奪われてしまったらしい。
「なんか観たような気はするけど、全然覚えてないや」
とても知能指数の低そうな返答をする始末。
フェンスを突き破り大破炎上、盛大なクラッシュ。
だが、ある意味結果オーライだったのかも知れない。
彼女の事を少し知れたのだから。
そして再び、少し薄めだが形のよい艶やかな唇が動いた。
「私、お気に入りの映画があるんです。」
笑顔の花が咲く、という表現がある。
だが、彼女のそれは、そんな表現では足りなかった。
恐らく、至近距離で太陽光を浴びた感覚だろう。
それはそれは凄まじいエネルギーだ。
眩しくて直視出来ないどころか、一瞬で骨まで溶けた。
「へー。どんなの?」
超高出力エネルギーの余波に拠り発生してしまった、グツグツ煮え滾るマグマのような、抱き締めたくなる衝動。
徹夜明けの睡魔よりも抗いがたい。
だがっ!
全集中力を以て、ハンドルに添えている右手に集約し、首から上は平常運転を装い続ける。
オレは意外と器用だったのかも知れない。
ハンドルから、雑巾を固く絞ったような音がする。
「今夜、世界からこの恋が消えてもっていう映画で、略してセカコイっていうんですけど、知ってます?」
前方、信号が青く灯った。
再びゆっくりとアクセルを踏む。
だが、頭の中では、彼女から発せられる心地よい音に混じり、アラートが鳴り響いている。
心のアクセルは外的要因により、止める事は不可能。
オーバーヒートは不可避。最早目前というところ。
「え、知らんなぁ。恋愛系?どんなやつ?」
このままでは駄目だ。
危険過ぎる。
オレは殺られてしまうかも知れない。
彼女の魅力という名の暴力に、抗える程の防御力が、圧倒的に足りていない。
それなりに長く生きてきて、それなりの経験値を得ているはずだが、まるで太刀打ち出来る気がしない。
例えるなら、四回戦ボクサー対統一世界王者とか、草野球対メジャーリーグというところか。
勝負が成立するレベルではない。
行われているのは、アメリカの空爆。
一方的な殺戮のようなものだ。
「なんていうか、恋愛系といえばそうなんですけど……心が綺麗になるんです」
綺麗なのはあなたですよね!? と叫びたかったが、すんでのところで変更が効いた。
オレの自制心は鋼の強度くらいはありそうだ。
鍛えていて良かった。
このギリギリ感、ブザーが鳴っている電車に飛び乗りが成功した気分……いや、空中ブランコ一回転宙返り片手掴みくらいかも知れない。
「心が綺麗……って、なに? どゆこと?」
下界は毒素が渦巻いている。
天使でも、デトックスが必要なのだろうか。
やはりこの地上、いや、この会社は、腐海とでもいうべき環境だったらしい。
これは浄化作戦を決行しなくては。汚物は消毒だ。
「登場人物達が、全員ピュアというか、良い人ばっかりで……」
良い人代表であるはずの助手席の天使は、何故か言い淀む様子で言葉を区切る。
そして、予想だにしない提案をした。
「んー……。せっかくなんで、今度貸しますね。先入観無しで観て欲しいんです」
想定外な展開に不意を突かれ、素っ頓狂な声が出た。
「え?! 貸してくれるの?」
間抜けな醜態もいい所ではあるが、勢い余って心臓が口から出なくて良かった。
どうやら生命は助かったようだ。
だが、恐らくオレの細い目も、勢い良く巨大化を遂げ、タイヤかハンドルか、はたまた皿のようにでもなっていたことだろう。
「なんていうか、心が綺麗そうというか、優しそうというか、解ってくれそうな人に観てみて欲しいんですよね」
これは強烈だった。
幼い頃、時速80kmの車に轢かれて20m飛ばされた時よりも、地上30mのバンジージャンプを飛んだ時よりも、バイク事故で50m路上を滑って骨折した時よりも、比較にならない程の衝撃力。
オレの生命力は削り切られ、既に秋刀魚か何かに載せられて、レモン汁と醤油で美味しくいただかれる寸前というもの。
「えー、ありがとー。期待しとくー」
と、何とか空返事を肺の奥底辺りから搾り出した所で、腐海へと辿り着いた。
もとい、帰社である。
その腐海の入口、砂利すらケチられ凸凹だらけの、土埃が舞う駐車場すら、銀世界に踊るダイアモンドダストのように、キラキラと煌めいてしまっている。
世界はこんなに美しいものに溢れているんだね……。
……じゃあないんだよ。
もう、どうしようもないな。完全にバグったらしい。
荷物を運ぶからという理由で、天使には先に魑魅魍魎の跋扈する社屋へと向かってもらった。
心苦しくはあるが……これは、仕方のない判断なのだ。
社用車のハッチバックを開けながら、少し遠目でその後姿を見送る。
傾きかけた陽の中を、魔窟へと向かい歩いていく天使の背には、白く美しい羽根が生えている。
頭には、輝く天使の輪。名画より絵になる。
うん。
今、二人仲良く並んで歩くなど、逆立ちして日本全国を歩きで制覇するよりも、泳いで太平洋を渡るよりも、裸でエベレストを登頂するよりも偉業に思える。
……仲が良いかはさて置いて。
荷物を抱え、薄汚れた暗い階段を独り上りながら、先程までの出来事を反芻する。
あれは、序曲だ。
このままでは合法的に抹殺されてしまうという恐怖と、地上に天使が住んでいたという驚嘆と、抱いてしまった気持ちに戸惑い続ける日々の、序曲なのだ。
狙っているのか、天然か。
それは分からないが、とにかく今生最大となる生命の危機、未曾有の事態である。
この先……生き延びるには、どうしたらいいのか。
逡巡したとて、答えは出ない。
既に脳はショートし、心臓はオーバーヒートしている。
荷物を置き、デスクに戻る。
デスクトップの画面はまだ暗い。
立ち上がりを少し待つ間に映る姿。
頭の中には、すっかり天使が住み着いていた。




