14-1
「オセ」母の手が頬を撫でてくる。「後のことはお願い」
「お母さん?」言っていることの意味が分からず、彼はただ自らの頬を撫でる手を取った。
その手は既に冷たくなりかけている。
赤ん坊を出産して間もなくだった。唐突に産気づいた彼女は、近くにあった洞穴の中で緊急出産を試みた。設備も何もあったもんじゃない。吹き曝しの中、唯一の人手らしい人手と言えばオセのみ。
まだ恋の意味すらも知らない子供だけが、新たな命の誕生に立ち会っていた。
しかしそれは同時に一つの命が亡くなる瞬間でもあった。世界はまるで帳尻を合わせるかのように、母体の生命を奪おうとしている。
数か月に及ぶ逃避行は親子の体力を確かに奪っていて、出産に耐えられる分が残されていなかった。にも拘わらず敢行したのは、ひとえに母親としてのエゴだった。
「この子のことを」母は生まれたばかりの赤ん坊を息子に託す。
「お母さんは?」
そう問いかけると、母は悲しそうに微笑んだ。「ごめんね」
「どうして、謝るの?」
しかし彼女はその質問に取り合わない。
「頼れそうな大人がいたら頼って。あなたたちを助けてくれる人は必ずいるから」
「お母さんはどうするのさ」
自らの余命が幾ばくもないのは誰よりも自分自身でわかっていたからだ。
「何があっても離れちゃ駄目。あなたたちは唯一の家族なんだから」喋れるうちに、言いたいことを言い切らなくちゃならない。「何があっても守ってあげてね。あなたはお兄ちゃんなんだから、ね?」
視線を交わす親子。母はまだまだ話足りないとばかりだったが、もうそうするだけの体力は残されていない。次第に口の動きは緩慢になり、加えて浅く繰り返される呼吸がそれを邪魔した。気持ちだけが急いていく。
苦しさか、悔しさか。笑顔が歪む。
最後の気力を振り絞るかのように、母は胸元に着けている花のブローチを外す。それを生まれたばかりの赤ん坊に巻いている、おくるみ代わりのボロ切れに取り付けた。
母は再び、ふっと笑う。「男の子だったら、可愛すぎるね」
その言葉を最後に、目を閉じた。まるで眠りにつくのを拒むかのように、ゆっくりと瞼が閉じられていった。
オセの手の内に収まっていた彼女の手は、その重力に従って滑り落ちる。それ以降、身動ぎ一つしなくなった。
「……お母さん?」
どれだけ呼びかけても揺すってみても、起きてくることはなかった。
ただ、赤ん坊の泣き声が洞窟内に反響し続けている。
*
「お母さん!」そう叫び、腕を伸ばす。
薄汚い天井が広がっていた。
まだ夢と現実の区別がつかず困惑している彼の視界の片隅に、そっと入り込む影がある。白い肌に、金糸のような髪。尖った耳を持つ美青年が淡い微笑みを持って彼の起床を出迎えた。
「おはよう」
「……フォレット」
「うなされてたね」
頬に痒みを覚えて爪で掻くと、指先に水分が付着した。どうも濡れていたらしく、その発生源は目元にあるらしい。
そう気づくとオセは、急いで目を擦った。前腕でゴシゴシと何度も。
やがて擦り過ぎて腫れ気味の目が、エルフの青年を見上げる。「……おはよう」
「うん、おはよう。朝は何食べる?」
問われても、すぐには答えられなかった。視線を傍らで眠る弟へと向ける。母の形見である花のブローチが付いたおくるみの中で、すやすやと心地よさそうに寝息を立てていた。
「その子にはさっきミルクを与えたよ」フォレットは言う。「……名前も決めてあげないとね」
オセはこくりと頷いた。それから言う。「ねぇ、フォレット」
「ん? どうした?」
しばらくもじもじとする。やがて聞こえるか聞こえないまの声量で告げた。「……ありがと」
フォレットは微笑みで答えた。「どういたしまして」
*
モラゴの町で一晩を明かした翌日。古谷たちは寝ぼけ眼のまま、もそもそと朝飯を食べているとジュンが元気いっぱいに現れた。
「おはよう!」どうやら今日は彼女が体を使う日らしい。
「ああ、うん」挨拶ともつかない曖昧な返事をする古谷。
宿屋にある、一階部分の飲食スペースでの一幕。他の客から注目されるに至った。
「えっと、何か用ですか?」エトは声を潜めながら尋ねる。
「用件なら既に昨日伝えたかと思うけど」
「地図、ですか?」
「そうそう」
(何も、こんな朝っぱら来なくても……)古谷は思った。
昨夜、しばらくこの町に滞在すると言ったばかりだ。そう焦ることもないだろうに。
ともあれ朝食を終えると早速、三人は上階にあるエトの部屋へと引っ込んだ。ベッドの上に地図を広げる。
腕を乗せ、身を持たれるようにしている三人。そうしていると、朝の静謐さと相まって倦怠的な雰囲気が流れた。
「ここ」と、地図の一点に指を乗せてジュンが不意に言う。「来るまでに通ってきたけど、被害にあったみたいだった」
特に何気ない様子だった。単なる世間話の一種として口にしたみたいだった。
「被害にあった?」しかし、そこに別の意味を見出すエト。
「うん、そう日が経ってないんじゃないかな。何があったかは知らないけど」
彼女が指差す先は、森の中に形成された町。果たしてどの種族の町だったのか。
「もしかして、ワーウルフの?」エトが言う。
「かもねぇ」その念頭にあるのは、もちろんオセの存在だろう。「いられなくなって、逃げ出してきたのかも」
「どんな感じだった?」古谷が問いかけた。
「どんなって……」ジュンは腕を組む。「そう言われてもなぁ、上空を通ってきただけだし」
「そうか……」
「何か知ってるの?」
「おそらくだが」と言いつつも、古谷にはどこか確信めいたものがあった。「ゴーレムの仕業だ」
「へぇえ?」
「私たち、ここに来る前に遺跡に寄ったんです」
「あ、そうだったの」
「はい。ですが、いなくなってて」
「ははぁ、動き出したってわけ」と、ジュン。「その原因が、オセくんの赤ん坊ってことか」
「原因……」エトは、その言葉に引っかかりを覚えながらも肯定する。「まぁ、そうですね」
確かにゴーレムの目的は純血種とそれを生んだ種族の淘汰だ。生まれたことが活動を始めた原因と言えなくもない。だが、それはあまりにも一方的な都合過ぎる気がしたのだった。
「でもそうしたら変なんじゃない?」しかしジュンは特に気にかけることなく告げる。
「変?」と、エト。
「だって、肝心の純血種には逃げられちゃってるんでしょ? 目的を果たしてないままじゃない」
「それは俺も思っていた」古谷が言う。「居場所が感知できないってこともないだろうから」
「追ってきているってこと?」エトがその続きを引き取った。
古谷が首肯する。そこには単に彼女の言葉を肯定する以上の意味が含まれていた。
「あの、ジュンさん」その意を察したエトは告げる。「フォレットさんのことなんですけど」
「どしたの? 改まって」
「実はゴーレムに変身した姿を見まして」
「ええ?」
「なので、オセくんを追ってきたんじゃないかと」
だが、だとすると未だに生かしていることへの説明がつかない。ましてや、わざわざ世話さえ焼いている。
「それはそうかもだけど」しかし、ジュンからしてみればそれとはまた別の問題があるみたいだった。「それだけじゃないっていうか」
と、そんな時だ。
「なんだ?」外から微かな喧騒が聞こえてくる。
三人は窓へと寄り、開け放つ。それにより鮮明に聞こえるようになった騒ぎは、どうやら一大事というほどの事態でもないことが知れる。種別としては、驚きと困惑、それから一匙の好奇心がブレンドされたといったところか。
町の人々が円形を作るようにして集まっている。そしてその中心には小さい影。付かず離れずの距離で、それを眺めているようだった。
小さい影の方は灰色の毛に覆われており、三角形の耳を持っている。それらを惜しげもなく晒し、短い手足をパタパタと動かしていた。
「あれって……」遠目には、ワーウルフの子供に見える。
しかし、あれだけ警戒心旺盛のオセが衆人環視の面前に躍り出るとは考えにくい。
三人はともかく、事態をより正確に見極めるためにも外へ出ることにした。宿屋から通りへと。
そうして野次馬連中に加わる。今やワーウルフの子供は、数人の女性に囲まれて可愛がられていた。頭を撫でられたり、抱きかかえられたり、頬を突いたり。
愛くるしい見た目が母性本能を呼び覚ましたようで、ワーウルフの子供も甘えるような仕草をしたりするものだからそれは余計に高まっていく。時として、黄色い歓声が上がる。
しかしそうして愛でる人がいる一方、不気味がる人もいた。懸念を通り越し、嫌悪感の籠った視線を向けるものちらほらといたのだった。
「ねぇ、フルヤ」今ではもうオセではないことをはっきり理解したエトが尋ねる。「あの子ってもしかして……」
「ああ」彼は答える。「純血種だ」
持ち前の早熟っぷりを発揮したのだろう。その証拠に首に巻かれマントのようになっている布には、留め具として花のブローチが付いていた。記憶が確かなら、赤ん坊のおくるみについていたものと同じだ。
「どうする?」と、尋ねるジュン。
周囲を見ても、オセやフォレットの姿が見えなかった。どうやら目を盗んで抜け出して来たらしい。
「とりあえず、捕まえよう」引き渡すにせよ何にせよ、ともかく放ってはおけないという意味で古谷は言った。
かくして、野次馬を掻き分けていく三人だったが。
野生の勘と言うべきか、純血種は危機を察知したようで女性の腕の中から飛び出した。
「捕まえて!」ジュンが機転を利かせてそう叫ぶ。
だがあまりにも突然の出来事だったからか、大半のものはすぐには動き出せず、辛うじて腕を伸ばした数人もあっさりとすり抜けられてしまった。
「逃がすか!」
古谷はそう言い、捕まえようとした人の丸めた背中に手を置いて、飛び越えるようにして追跡する。
ジュンも同様にして続き純血種を追いかけた。エトだけはそれをできず、パニックと戸惑いが半々くらいの人垣を潜るようにするしかない。
ようやく抜け出せた頃には、すっかり二人の姿は見えなくなってしまっていた。
肩で息をしながら、二人が去っていった方向を眺める。不安げな面持ちを浮かべながら。
*
純血種は真っ当に追いかけっこしても捕まってしまうと考えたのか、すぐに路地裏へと駆けこんでいた。そこは物で大半が塞がれている道だったが、体の小ささと身軽さを生かしてスルスルと通っていく。
一方で古谷はこれには難儀した。積まれた木箱は体を横にして通り抜けなければならないし、樽は飛び越えなくてはならない。その着地先に何かが詰まった麻袋があった時には、足を挫きかけた。
そんな彼の様子を純血種はケタケタと笑っている。
「くそぅ」古谷がまるで子供らしからぬその笑みに腹立ちを覚えていると。
「任せて!」ジュンが躍り出た。
積み重なっている木箱に軽やかに飛び乗ると、踏み出しにし、そこからさらに壁蹴りで跳躍を重ねる。拳を振りかぶって、純血種へと迫っていった。
ジュンのパンチが炸裂するのと、純血種が危機を察して飛びのくはほとんど同時だった。彼女の拳は大地に突き立つと、大量の土砂を飛ばして地面を抉る。
純血種はおよそ人間離れしたその力量に目を丸くした。そして、まだ不完全なその身で受けたらひとたまりもないと思ったのか、からかうのは一旦やめて必死な逃走を図る。
「な、何をした?」驚きを隠せないのは古谷もまた同じだった。
「ゴーレムの力はデメリットばかりじゃないってこと」おざなりに答えるジュン。「さ、いいから追いかけるよ」
「お、おう」
抉られた地面を横目に、古谷は彼女の後に続いた。
そのようにして続いた逃走劇は、行き止まりに来ることで終局を迎える。小高い塀に三方を囲まれてしまった純血種は、唯一の逃げ道に立ち塞がる二人の姿に悔しそうに奥歯を噛みしめる。
「シィオウ、パエルスイステエンテ、バアステアルダス!」どこか毒づいた様子。
もう言葉まで喋れるようになってしまっていた。
「追いかけっこはもうおしまい」ジュンは言う。「で、どうする? 古谷くん」
しばしの瞑目。やがて彼は決断した。「ここでやろう」
覚醒まで秒読みだ。これ以上、先延ばしにすることはできない。
「……そうだね」ジュンは、そんな彼の決意を汲み取り。
二人はほとんど同時に、掌に光を現出させた。かくして、それが握りこまれようというところで。
辺りに突風が巻き起こる。粉塵を飛び交い、二人は反射的に腕で目を覆うようにした。
ほどなくして風が止むと、開いた視界の先にはフォレットが立っていた。両手に魔法陣を展開させて、それぞれ古谷とジュンに向けている。
「何のつもりだい?」威圧するような冷たい声。
視線も同じくらいに冷淡なものだった。




