1-3
壮麗な丘を進んでいくと、やがてそこに辿り着いた。
町というよりかは村という方が近いだろう。敷地を囲むような塀はなく、吹き曝しとなっている。大通りを中心に左右に広がるようにして家屋が立ち並んでいる。やけに大きな煉瓦造りの建物が一つだけ目立つものの、それ以外はどれも木造建築で、屋根が低く、二階以上はなさそうだ。
が、規模に対して人が多く、活気に溢れている印象を受ける。軒を連ねる店はどれも盛んな様子で、小さい町ながらも経済を回しているようだ。
歩を進めていくと早速、町人から声を掛けられる。
「おお! エトちゃん久しぶり!」
顔馴染みなのか、気さくな様子だ。しかし対する彼女は小さくうつむきがちに会釈を返すだけ。顔を隠すように外套のフードを被ると、そそくさと気まずそうに歩き去ろうとする。
自分とのあまりの対応の違いに、古谷は困惑しながらも後を追う。その傍らで尋ねた。
「いいのか?」
すると口早に。
「ええ、まぁ」
とだけ言った。それっきり続けようとする気配もない。
古谷は、口の濁しぶりから先ほど聞いた「一人で森の湖畔に住んでいる理由」を尋ねた時のことを思い出した。その延長線上にあることなのかもしれない。
町に住みづらいから外れに居を構える。だが足早に歩く彼女の姿を見かけて声を掛けてくるものは後を絶たず、しかもそのどれもが悪意や敵意は感じない。村八分にされている、というわけでもなさそうだ。
「あっちが役所で、その隣に宿屋があります。もう少し行ったところにいくつか飲食店があって、中には遅くまでやっているところもあるので食べ物には困らないかと」
ある程度、町の中ほどまでやってきたところで彼女は一息に言い切った。
「私は用事が済んだらすぐ帰りますので」
「用事?」
「ええ」
そう言って外套の隙間から手を出す。そこにはいくつかの小瓶が握られていた。
「薬を売ってこようかと」
「金が要りようなのか」
「当然ですよ。いろいろ入用なものはありますし」
考えてみれば、昨夜から今朝にかけて食べた中にパンやらチーズやらがあった。いくら森の中に住んでいるからと言ったって、全てが自給自足で賄えているわけではない。
「いつもそうやって稼いでいるのか?」
「それくらいしかできることないですし」
町の外れに住んでいるのだからそれは当然だろう。
「俺も着いていっていいか?」
古谷は何気なく尋ねると、エトは一瞬「え?」と言って固まった。その硬直が解けると、忙しなく視線を彷徨わせるもやがて渋々と頷く。
「構いません」
「別に嫌なら無理にとは言わないが」
「いえ」首を振る。「いいんです」
諦めたように言った。
*
来た道を引き返し、少し行くと如何にも薬屋という店に辿り着いた。牛乳瓶のようなものが描かれた看板が軒下にぶら下がっている。エトは丁寧にも、「ここです」と言ってから一つ深呼吸。意を決したように扉を押し開けた。
最寄りの町で、しかも馴染みの店に入っていくとは到底思えない気迫だった。
入店のベルの音が鳴り、カウンターの向こうで店主と思しき髭面の男が出迎えてくれる。
「ああ、エトちゃん。いらっしゃい」
「はい」
手短に返事をすると、そそくさと近寄っていきカウンターの上に小瓶を乗せる。
「これを、お願いします」
「毎度どうも。エトちゃんの作った薬は人気だよ、よく効くって町でも評判だ」
「……ありがとうございます」
極力目を合わせないためにか、終始うつむきがちに返答している。礼儀をまるでわきまえていない態度であるが、店主は気にしないどころか、一層愛想のいい態度で話しかけた。
「そういえば、この前――」
と、世間話を語り出す。やれどこそこの家でこんなことあっただの、そういう他愛もない類のものだ。
エトは聞いているのかいないのか、「ええ」とか「はぁ」とか曖昧な相打ちを打つばかり。店主はそんな彼女の様子に気づかわし気な視線を送ったかと思うと、徐々に話の熱量は損なわれて行き、尻すぼみに終わる。
「まぁ、元気そうで何よりだよ」
ありきたりな言葉で話を終えた。
それからいよいよ勘定となったところで、店主はずっと背後霊のように立ち尽くしていた古谷の存在に気づく。何かに思い至ったのか、差し出しかけていた貨幣の握られている腕を引っ込めてこう言った。
「噂は本当だったんだな」エトへと視線を向ける。「男連れで来たって」
「なっ!」
受け取ろうとしてお預けを食らったので中途半端に前かがみだった彼女は、そのままつんのめりそうになる。次いで慌てて古谷の方へと振り返ったかと思うと、店主へと顔を向け直し、振り返っては向け直し、それを都合三回繰り返すと慌てて否定して見せた。
「ち、ち、違います! 彼はそんなんじゃないんです!」
「へぇ? そうなのかい?」
まるで信じていないようなにやけ面で店主が言う。
エトは増々ムキになって言った。
「その、たまたまと言いますか、行きがかり上一緒にいるだけで!」
「まぁまぁいいじゃないか。エトちゃんのそろそろ結婚を考える年だろうし」
「け、結婚!」一際大きな声で繰り返す。「彼とは本当にそんなんじゃありません!」
「だけど、さっきから彼彼とやけに親しげに呼ぶじゃないか」
「別に他意はありませんから!」それからこう言う。「彼とはここでお別れですし!」
(え? そうなの?)古谷は思う。
売り言葉に買い言葉。彼女はしまったと言わんばかりの顔で、こちらに振り返ってきた。勢いで言ってしまったことは明らかだ。
しかしもう引けないと見たのか、彼女は逃げるように店を出て行った。
「お別れなんですー!」
という言葉を後に残して。
店内に取り残された男二人は、あまりにも当然の出来事に開け放たれたドアが閉まるまで呆然としていると、ベルの音で意識を取り戻す。お互いにそっと視線を交わすと、店主の方は気まずそうに顔を歪めていた。
「……ちょっと言い過ぎちまったみたいだ」
(まぁデリカシーないのは確かだろうな)
古谷はそう思いながらも口ではこう言う。
「そういう日もあります」
「勘違いしないでくれ、悪気があったわけじゃないんだ」店主は言い訳を始める。「その、エトちゃんとは長い付き合いなんだが、どうも距離が縮まらなくてな」
それでどうして結婚話を持ち掛けるのかはさておいて、古谷は頷いて見せた。
「俺にはその気がないように見えます」
「どっちの意味で?」
「どっちもです」古谷は言う。「仲良くなろうという気概も見えませんし、結婚を考えているようにも見えません。というか、まだそんな年にすら見せません」
「見かけ上はな。だけど、もう今年で二十五歳になる。遅いくらいだよ」
古谷のいた世界ではまだ些か早いくらいかもしれないが、この世界の基準に照らし合わせればということだろう。
が、そんなことよりも実年齢の方が気にかかった。
(俺より年上じゃねぇか)
*
薬屋を出て辺りを見渡すと、すぐにエトの姿は見つかった。どうも古谷を置いてきたことを気に病んでいたらしく、向かいの路地の影に佇んでいるようだった。
目が合うと、外敵を警戒する獣のようにのっそりと日の下に姿を晒した。
「あの、えっと」しどろもどろに言葉を紡ぐ。「さっきのは本心じゃなかったと言いますか、あんなこと言うつもりは全然なくて」
「わかってるよ」古谷は言い、手を差し出した。「ほら」
エトが両手で受け皿を作ると、そこに貨幣を落とす。
「店主が謝罪の気持ちで少し上乗せしたって」
「別にそんなことしなくていいのに……」と、不服そうにぼやく。
「まぁ、貰えるもんは貰っておけ」
「はい……」
「店主も悪気はなかったって言ってたよ。まぁ、許すかどうかは好きに決めたらいい」
「わかってるんです、悪い人じゃないってのは」エトは言う。「この町の皆さんも含めて」
「なら、どうしてすげない態度を取るんだ?」
「それは……」と、口ごもる。
事情は先ほど店主からあらかた聞いていた。
かつて彼女の父はこの町で町長をやっていたらしい。元々は村だったところを町にまで発展させた功績があり、人々からも愛される良き町長であった。だけれど今から十三年前に妻を失った。
以来、人が変わってしまった。どこから聞いたのか、亡き妻を蘇らせられるという魔術を探求するようになり、現在エトの住んでいる小屋に引きこもるようになったらしい。例え実の娘が尋ねても取り合わず、中にすら入れてもらえなかったとのこと。
それから数か月が経った後。ようやく町に顔を出したとも思ったら、突然旅に出ると言い出したそうだ。誰が引き留めても聞く耳を持つことなく強引に旅立ってしまい、今に至るまで一度も帰ってきていない。
事実上、町を見捨てた形となったが、当時のエトは十二歳。とてもじゃないが人の上に立てるような年齢ではない。
結局は別の人間が後釜に着き、彼女は離れの小屋に引きこもるようになった。何も追い立てられたわけではない。どうも彼女自身が負い目を感じているようで、顔向けできないと感じているようだ。声を掛けられてもすげない態度を取る由来はここにある。
「別にエトちゃんが気にすることじゃないのにな」店主はそう言っていた。「みんなそう思ってるよ」
古谷はできることならばエト自身からその話を聞きたかったが、親密度がまだ足りないのか彼女の口は未だ重かった。
(まぁ、でもエトの言う通りか)古谷は思う。
所詮、一緒にいたのは行きがかり上に過ぎない。助けてくれただけでも十分すぎるのに、これ以上の厄介になるわけにもいかないだろう。
「無茶言って悪かった。いろいろありがとう」
なので、別れを告げることにした。
「え? え?」
文脈的にあまりにも唐突な言葉だったからか、エトは困惑を示した。
「別に皮肉のつもりじゃない」古谷は言い訳を始める。「本当にここでお別れの方がいいのかもしれないと思っただけだ」
「そう、ですか……」
残念そうに眉を下げる。
「礼はいつかするから。約束する」
「別に気にしなくてもいいですが……はい。そういうことでしたら」
出会いがあれば別れがある。よくしてもらった手前、彼女の抱えている問題には思うところがないでもないが、あまりにも部外者の出る幕がなさすぎる。
幸いなのはちょっとした気持ちのすれ違いに過ぎず、お互いに悪いようには思っていないこともあるので、これ以上には悪化しそうにないことだ。時間が、多少かかるかもしれないが解決してくれることだろう。
「じゃあ、元気で」
「フルヤさんこそ。もう行き倒れないでください」
「言ってくれるな」
二人は軽口を言って、笑いあった。
古谷は、これからどうするかまるで決めていなかった。だが嘘から出た実で、本当に旅人になってもいいかもしれないと思い始めていた。神様から与えられたとかいう力の正体は依然として不明のままだが、もはやそんなことはどうでもいい。
忙しない現代の日本から解放されて、世界を巡りながら穏やかに生きるのも悪くない。そう考えていた。
が、その時だ。唐突に町の奥の方から悲鳴が聞こえたかと思うと、次第にその騒ぎが近づいてきていることが分かった。悲鳴に続く悲鳴で、中には怒声も混じっている。
聞こえるのは声だけに留まらない。木片が折れるような渇いた音や何かが倒壊するような音。地鳴りのような微かな振動と共に、荒々しく地面を蹴る音が響いた。
やがて逃げ惑う町の人々の姿が目視できるようになると、巻き上げられた大量の土埃を掻きわけるようにして、異形の顔が飛び出した。
爬虫類を思わせる顔つきに、イボイボの体。それらは毒々しい紫色で、縦長の顔のちょうど眉間のあたりに二本の角が連なっている。
一軒家の屋根ほどの位置にあるそれは、大口を開けて威嚇するように一つ咆哮した。
「魔獣……」
種々雑多に入り乱れる数々の音の中で、辛うじて聞こえたエトの呟きだけが意味を成していた。