4-1
エルフ里では一泊しかせず、古谷はラムーベの町に戻っていた。散々引き留められもしたのだが、あまり長居する気にはなれず、半ば逃げるようにして引き返してきたのだった。
それから数日。本格的に旅に出ようかと準備に取り掛かろうとしたのだが、いざとなると何を用意したらいいのかまるでわからない。こういう時、頼れるのはエトだけなのだが、今はちょっと会いたくない。
何より、彼女には旅人ということで通しているので今更聞くのは憚られた。既に看破されている可能性は無きにしも非ずだが。
ともあれ、そんなこんなで結局、彼は何をするでもなくうだうだと過ごしていたのだった。
連日のように同じ店で同じメニューを頼んでいると、女将に顔を覚えられてしまったようで声を掛けられた。
「いつも同じもん食べて」と、説教染みた第一声。「少しは栄養バランスを考えなさいな」
古谷は、余計なお世話だよ、と思いながらも「はい、気を付けます」と調子のいいことを言う。それが彼なりの処世術なのだが、かといって世渡り上手だったかというとそうでもない。往々にして姑息な心が透けて見えていたからだ。
にも拘わらず、呆れる程度で見捨てはしない女将はいい人なのかもしれない。
「そんなんじゃ、いつまでも辛気臭い面のままだよ」
が、古谷からしたらやはりいい迷惑だった。
「これは生まれつきで」
「嘘言いなさい。あたしがなんも知らないとでも思っているのかい? あんた、エトちゃんとよく一緒にいる男だろ?」
「ええ、まぁ」
エトはこの町ではある意味有名人だ。そんな彼女と行動を共にしているとなれば、注目を浴びるのも仕方がなかった。
「エトちゃんのこと、泣かしたら承知しないからね」女将は言う。
「いや、俺と彼女はそういう関係じゃあ……」
「どんな関係だって構いやしないさ。あたしはただ、泣かしたら許さないって言ってるの」
「はぁ、気を付けます」
なんで怒られているのかわからなかった。どういう流れでそうなったのかも、もう思い出せない。
思いのほか、素直な返事をしたので女将もばつが悪そうで、「これ、食べな」と器を一つ置いて去っていく。中は野草のサラダで、細かく砕かれたナッツと香草が混ぜ込まれている。オーガニックなその見た目から、エルフの里で食べた料理を思い出した。
「はぁ」溜め息を吐く古谷。
何も、おせっかいを疎ましく思ったわけではない。エルフの里での一件が、彼にここ数日の寝不足を引き起こしていたからだ。
(俺は、あの遺跡のゴーレムを)古谷は何度も繰り返したことを、もう一度思う。(殺した)
何とも皮肉な結果だろう。生きていくために他種族を滅ぼすべきではない。そう主張した遺跡のゴーレムにまだ説得の余地があると見た彼だったのだが、土壇場で倒してしまう。そして言葉の呪いは連綿と引き継がれ、今や彼の罪業となった。
(エルフを助けるためとはいえ、俺は殺したんだ)
例えそれが大儀のためであったとしても、殺しが是認されるわけではない。そのことを深く思い悩んでいた。旅に出ようと考えていたのも、要するに罪の意識から逃げ出したかっただけに過ぎない。
その夜も結局、眠ることができなかった。宿屋のベッドでもぞもぞと数時間。彼は正体不明の不安に苛まれて、ひたすら寝返りを打ち続けていた。
しかし彼は勘違いしていた。寝不足は心理的側面の顕在化などではなく、もっと実際的な危機に対する警告だった。彼はそれを内に宿るゴーレムの超感覚で感じ取っていたわけだが、状況が状況だけにそう判断することができなかったのだった。
そして、ついに運命の夜明けが訪れる。
*
まだ日が昇り始めたばかりのエルフの里で、その日最も早くに目を覚ましたのは新生児だった。
生まれてからひと月も経っていないのだが、みるみるうちに成長していき、「玉のような」などという時期は疾風のごとくに過ぎ去って、すっかり少年という体になっていた。
初めは我が子の著しい成長ぶりを喜ぶ両親であったが、その速さに比例して不安が募っていった。朝にはまだよちよち歩きをしていたと思ったら、夕方には立ち上がり、あろうことか喋り出した時には気味の悪ささえ感じた。
その後の両親の態度は二つに分かれた。母親は腹を痛めて産んだ子だけに一層母性本能を強くさせて過保護な態度を取り、父親は母子ともに異常とみなし見て見ぬふりをするような態度であった。
だがただ一つ、子供を決して家の外には出さないという点においてだけは意見の一致を見た。母親は子供の身の安全のため、父親は世間体ひいては保身のためであるのだが。
なので、その早朝も新生児が外に出ようとする気配を敏感に感じ取って両親は目を覚ました。既に扉は開け放たれている。誰かに見られたら事だと思い、二人は慌てて後に続いた。
新生児は地平線から顔を出す太陽に向かって立っていた。両親からは真っ黒いシルエットにしか見えず、ただ長い影だけが足元まで伸びている。
太陽は徐々に上り行く。影が短くなっていくのが自然だが、新生児の影は縮まないどころか、増々伸びていった。
それもそのはずだった。新生児自身が肥大化していっていたからだ。膨れあがるようにして巨大化したかと思うと、やがて口から何を吐き出し始める。ずるずると連なるようにして出てきた後には、少年の体の方はくしゃくしゃの抜け殻のようになって地面にぺしゃんこになった。
それはさながら脱皮のようだった。事実、口より現れ出てきたものは白い大蛇だった。まだ唾液に濡れて、ぬらぬらと光る鱗。手足のないすらりとした体躯に、三角の頭。爬虫類特有の睨むような目つき。瞳の色は赤色で、俗に言うアルビノだった。
「イ、ファエエラ、グオオダ」
何やら言語のようなものを喋ると、ちろりと細長い舌を出す。
かくして覚醒した純血種が最初にしたことは、我が子のあまりの変貌ぶりに唖然とする両親を二人揃って丸のみにすることだった。
「アラワアシィス、テオグエテハエル」
皮肉めいた様子でそう呟いて、純血種は身を捩らせるようにして進みだす。目標はこの里の住人を根絶やしにすることだ。
混血種は一人たりとも残さない。それが遺伝子に植え付けられた本能とも呼べる使命だった。
*
里のエルフたちは、寝込みを襲われる形となった。屋根を破壊され、まるで家を器とするように首を突っ込んで住人を丸のみにしていく。辛うじて目が覚めたとしても、その時には既に遅く、ぱっくりと大きく開かれた口が目の前にある。次の瞬間には胃の中で、生きたまま胃酸に溶かされていった。
しかしその副産物として生まれた破壊と悲鳴は、他の住民の安眠を妨げるのに十分だった。
異常事態に気づいた住民は慌てて避難行動に移った。まだゴーレムに襲われてから日が浅く、まるで歯が立たなかったことは記憶に新しい。同程度かそれ以上の大きさを誇る純血種を、目的はどうあれ太刀打ち不可能ということだけを、一目で察するには十分だった。
取るものとりあえず逃げていくエルフたち。それを認めたアルビノの大蛇は、口から粘り気のある液体を吐いた。それを浴びたものは焼けるような痛みに悶えながら瞬く間に骨となり、やがてそれさえも残らなくなる。
跳ね返りで微かな飛沫だけを浴びただけのものも痛みに足を止めてしまい、後追いで放たれた第二弾の餌食となる。そして、同じ結末を辿った。
それは強烈な酸だった。エルフの里は瞬く間に阿鼻叫喚の渦に飲み込まれた。
そんな悲鳴をただ一人、家の中でじっと聞き届けているものがいる。眠るように目を閉じていたが、ノックもなしに扉が開け放たれると、ゆっくりと目を開けた。
「長老」入室者は失礼を承知で言った。「何をしているんです。早く逃げましょう」
「アイフか」老エルフは悠然と言う。
「何をのんびりしているんですか。まさか外で起こっていることを知らないわけじゃないんでしょう?」
「知っておる。何もかも」
「何もかも?」言い方に疑念を募らせるも、それどころではないと振り払う。長老の腕を取った。「さ、早く」
しかし動こうとしない。「お主だけで逃げろ」
「何を馬鹿な。どうする気です」
「どうもせん。ただ運命の成すがままに」
「こんなもの、運命でも何でもありませんよ。従う義理なんてない」
「アイフよ、あるいはお主の言う通りかもしれん」老エルフは言う。「しかし、もう抗った。その結果がこれなのだよ」
「諦めるには早いでしょう!」
「もしくは遅すぎたのかもしれんのう」
「さっきから何を言ってるんです」アイフは呆れたように言った。「もういいですから、逃げましょう」
強引に腕を引いていこうと力を込めたが、その手に意味深にしわがれた手が乗せられたので力を抜かざるを得なかった。老エルフはゆっくりと首を振る。
「……どうしてです。何がそうさせるというのですか」
「お主らのことを信じて、真実を話すべきだったのだろう。全てはワシの心の弱さが招いたこと」
「さっきから何を言っているのか全然わかりません」
「今外で暴れているのは純血種族。人間の血の混じらない極めて原種に近い生命だ」
「純血? 人間の血? いったい何の話ですか」
「聞け、アイフよ。我々には人間の血が流れている。純血種族はその血に反応し、残らず淘汰しようとしてくるのだ」
「意味が分かりません。それ、今どうしても話さなくてはならないことですか?」
「もっと早くに言うべきだった」
「そういうことを言っているんじゃないですよ!」アイフは怒鳴った。「生き残って、それから改めて説明すればいい! そうでしょう!」
「所詮は抗いようもないことだった。混血と言えど、同族には違いない。そう思って期待したのだが、神様はどうもお目溢しをくれなかったらしい」長老は無視して言い募る。「あのゴーレムの青年を利用したにも拘わらず、運命は変えられなかった」
アイフは思わず、老エルフの腕を離した。「……どういうことですか」
「確かフルヤと言ったかのう。彼にゴーレムを倒してくれるよう仕向けたのだ」
「それじゃあ、何です」震える声で問いかける。「長老は、フルヤを唆して同族殺しに加担させた。そういうことですか」
「その通り」ゆっくりと頷き返してくる。
銀の魔力を持つ者がいれば連れてくること。アイフは常々そのような厳命を授かっていた。理由は尋ねても教えてはくれない。本当にそんなものがいるのかさえ定かではなかったので、本当に出会った時は驚いた。
しかも、あろうことか人間族と行動を共にしていた。人間族を里に入れることに反発する者は多いだけに連れてくるのも一苦労だった。
そうまでして銀の魔力を持つ者に拘る長老。アイフは次第に、唯々諾々と従うしかないことに理不尽を感じるようになった。そしてその怒りの矛先をフルヤへと向けたのだった。
それが今や、再び矛先を変えて長老へと向けられる。知らなかったとはいえ、思惑に一枚噛まされたことも要因の一つだ。
「どうしてですか」
「全ては生き残るためだった。だが、どうやら無駄だったようだのう」
そう言って、長老は窓へと視線を向ける。外では純血種による容赦のない殺戮が繰り広げられていた。いくつもの命が虫けらの如く失われていく。
「無駄だったの一言で済ませるのですか」アイフは非難するように言った。
「ワシはのう、アイフよ。一向に悪いことをしたとは思っておらんのだ。それどころかむしろ最善を尽くしたとさえ思っておる。生きるためにはやむを得んことだった」
「身勝手です」
「それは皆そうだ。もしそれでも悪を求めるというのなら、生きていることそのものが悪なのかもしれん」
「俺はそうは思いません」
「ワシもだ。だから時々、期待して、生きている意味を探そうとしてしまうのだろうな」長老は悟るように言った。「のう、アイフよ」
「……何でしょうか」
「お主は生きろ。生きて、ワシの代わりに答えを見つけてはくれんか」
「……ご自分ですればいいでしょう」
老エルフは先ほどと同じようにゆっくりと首を振った。「もう十分だ。十分生きて、苦しんだ」
諦念に満ちたその笑顔を見るにつけ、アイフは二の句が継げなくなった。しばし足元に視線を彷徨わせて、やがて心を決めたように一つお辞儀をする。
「失礼します」
複雑な思いだったが彼は辞去することに決めた。最低限の礼を欠かさなかったのは、彼なりの敬意の表明だ。曲がりなりにも里の長として、長年勤めてくれたものに対する礼儀だった。
一向にわからないことだらけだった。それでも一つだけわかることがある。
むざむざと殺される謂れなどどこにもない、ということを。