第9話:血と闇を纏う目覚め
館の夜会はまだ終わりを見せず、貴族たちの嘲笑と妖艶な音楽が、かすかな振動となって地下へ沁み込んでいた。しかし、そのきらびやかな祝宴には“死の香り”が混ざっていると感じる者もいる。先日の暗殺事件を受けて、ゲイルの手下たちはより入念に地下を巡回していたが、囚人たちの悲鳴や絶望には興味を示さず、ただ主人の命令を実行するだけ。そんな冷たい空気が満ちる地下で、わずかな活路を探る者もいた。
フィナは監視が手薄になりがちな夜の一瞬を狙い、何度も“物置部屋”に足を運んでいた。そこには古い扉があり、複雑な錠前がかけられている。もしこじ開けられれば、外へ続く抜け道が見つかるかもしれない。
彼女は針金を握りしめ、金属板の奥を探ってみたが、
「……だめ……全然動かない……」
と歯噛みするしかなかった。廊下では、下衆な笑いを浮かべるコルヴァがときおり通りかかり、見つかれば酷い目に遭うのは明白だ。それでもフィナは諦めない。時期尚早かもしれないが、あの扉が開けば、ほんの少しだけ未来が変わると信じ、針金を大事に仕舞うと物置部屋を後にする。
一方、ヴァリオは館の別室で短い睡眠を取ろうとしていた。先日の暗殺者の出現で館の空気が殺気立ち、王国軍の指令とゲイルの私的な命令との板挟みで気が休まらない。彼は「アルバーグ家が隠していた書類」を手に入れ、ルシエルを連れ出すことでここを抜け出そうと狙っている。ゲイルが近々“大きな見世物”を開くという噂があり、そのときルシエルが処刑されれば計画は台無しだ。
「見世物が始まる前に、あの小僧を引っ張り出すか……」
ヴァリオはそう決めて唇を噛む。あくまで自分の利益が最優先。聖女や他の囚人を助けるつもりなど、初めからなかった。
地下の牢屋では、「館が殺気立っている」「既に何人も始末された」など、不穏な噂が絶えない。黙って殺されるのは御免だと考える囚人も、声を潜めてわずかに情報交換している。そんな折、ルシエルの近くの牢に閉じ込められた痩せた男が、壁越しに囁いた。
「ルシエル様、行動の機会があれば力を貸します。何もせず死にたくはない……」
ルシエルは“闇の力”をまだ扱いきれず、ヴァリオとの連携も危うい。とはいえ、男の言葉は胸を打つものがあり、壁に寄りかかったまま小さく息を吐いた。
「……いずれ機を見て動く。そのときは手を貸してくれ……」
頼りない言葉かもしれないが、囚人同士にかすかな絆が生まれたのは確かだった。
館のさらに奥深く、拷問室の先にある隠し部屋では、リリスが厳しい拘束を受けている。戒環が破壊され、拷問官たちの計画は乱れたが、彼女の鎖や呪いが解かれるわけでもない。
かつて“聖女”と呼ばれ、教会で奇跡を行いながら人々を救ったリリス。しかし今は蔑まれ、「堕天の聖女」として扱われるばかり。血塗れの唇を震わせ、
「なぜ……まだ祈りを捨てきれないの……」
と小さく呟く。教会にも世間にも見放され、今さら神などいるものか。それでも奇跡の名残が胸を灼き、 拷問官の仕打ちと自らの憎悪を掻き立てていく。やがてそれは、破滅的な衝動へと変貌し始めていた。
その夜、ルシエルの牢では“闇の声”がいっそう強く響いているかのようだった。
「憎め……深く……お前の鎖を断ち切るのは、その怒りだ」
そんな囁きが耳元に染みこむたび、家を焼かれ、家族を殺され、散々に踏みにじられてきた屈辱が蘇る。“闇でもいい、力が欲しい”――そう願うほどに、腕の火傷跡がじわじわ熱を帯び、黒い力が皮膚の下を蠢くかのような感触を覚えた。
「……ぐあっ……!」
痛みとも快感とも言えぬ衝撃に身体を折りかけるが、すぐに看守の足音が近づき、ルシエルは苦しむフリをしてやり過ごさなければならない。衰弱した囚人を装う一方、内心では闇の衝動を受け入れたい欲望が収まらず震えが止まらなかった。
さらに奥まった通路では、覆面の暗殺者が夜陰にまぎれて動き回り、封鎖された水路や古文書の隠し庫を探し当てていたらしい。「この館には古代の儀式や聖女の力、闇の因子が交錯している。煽ればすべてが燃え尽きる」と薄ら笑いを浮かべ、石壁の向こうに脈打つ魔力を感じ取っている。「魔王が生まれるか、聖女がよみがえるか。どちらでも面白いな」とでも言いたげに、闇の囁きを夜の地下に混ぜ込んでいた。
こうしてルシエルとリリス、そしてフィナは、それぞれの苦しみと希望のはざまで小さな行動を起こし始めている。復讐のために闇を求める者、救いを信じてなお祈りを失わない者、誰かを助けようと錠前をこじ開けようとする者――それら三つの願いがやがて大きな渦を生むのかもしれない。死か、それとも希望か。危うい均衡が絡み合う中、この館は吐き出せぬ瘴気を溜め込んだまま、不気味に揺れ続けている。大きな転機が間近に迫っていることを、誰の胸にも薄暗く広がる直感が告げていた。