第8話:揺れる思惑、封鎖の扉
地下の一角で兵士二人が惨殺された事件は、館中に衝撃を与えた。しかし貴族たちの大半は、仮面舞踏会の名目で続く夜会に酔い痴れ、あるいは陰で密談を交わし、表向きは何事もなかったかのように振る舞っている。
だが、そうした中でも脅威を感じた一部の者たちは、着々と保身のための対策を進めていた。
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「コルヴァ、あの戒環が破壊されたと?」
ゲイルの間近に仕える下衆な男コルヴァが報告を終えると、ゲイルは鋭く眉をひそめる。
「まったく、兵士どもがあっけなくやられちまうとは情けない。――だが、あの聖女の力を抑える計画が頓挫するとなると、こちらも対策を練り直さなくてはな」
ゲイルは天井近くに吊るされた燭台を見上げ、憂鬱そうに息を吐く。
「ま、堕ちきった聖女など今さら恐れるに値せんが、ここまでくると面倒だな。何者かが裏で暗躍しているのは確実だ。……コルヴァ、お前は引き続き地下を見回れ。少しでも怪しい動きがあれば潰せ」
「へい、ゲイル様。……ただし、拷問官と兵士だけじゃ手薄かもしれませんぜ。みんな薄給で動いてる連中ですし、怖がって尻込みしちまうかも」
ゲイルは鼻で笑い、指をパチンと鳴らす。
「誰にも弱みはある。金でも暴力でも、使える手は何でも使えばいい。――あのアルバーグの小僧が余計なことを画策していないかも確認しておけ。ヴァリオ? あれはあれで動いているんだろうが……フン、所詮は駒よ」
そう吐き捨てると、ゲイルは杯のワインを無造作に飲み干す。どこか苛立ちと退屈の入り混じった表情が垣間見える。
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一方、ヴァリオもまた、地下への通路を下りながら思案に沈んでいた。
(兵士二名が殺された件は、どうにも不可解だ。この館の者ではない誰かが侵入しているのか、それとも内通者の仕業か……)
それに、ゲイルが言う「堕天の聖女」を拘束する計画が崩れたことも厄介だ。このままでは教会や大司教の怒りに触れ、結果的に王国軍も巻き込まれる可能性がある。
(とはいえ、俺はあくまで自分の利を優先する。……まずはあのルシエルを外に引きずり出し、アルバーグ家が秘匿していた書類を探らねば)
そんな打算を抱えながら、ヴァリオはいつものように下層の見回りを装い、ルシエルが閉じ込められている区画へ足を運んだ。
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「よお、元気か?」
小窓から顔を覗かせ、ヴァリオが低い声で問いかける。ルシエルは傷だらけの身体を起こし、壁にもたれかかったまま薄目を開く。
「……元気に見えるか?」
苦々しい笑みが浮かぶが、ヴァリオはあくまで淡々とした態度を崩さない。
「さっき噂で聞いたが、地下で暗殺事件があったようだ。兵士が二人、殺された。お前が絡んでいないとは思うが、何か情報は?」
「俺の知る限りじゃ、そんな力はまだない。聞いての通りだろう……」
ルシエルは歯を食いしばる。もし闇の力を思い通りに使えれば、こんなところに囚われていないはずだ。
「……そうか。ま、お前には関係ないことかもな。ただ、これで地上の連中も警戒を強めるだろう。俺としては“目的”を達成しづらくなるかもしれん」
ヴァリオの表情には焦りというより、面倒事を嫌う苦味が混じっている。
するとルシエルが少し声を潜め、ぼそりと尋ねた。
「お前……“堕天の聖女”がこの館にいるのを知っているか?」
意外な質問に、ヴァリオは目を細める。
「ゲイルの話は聞いた。リリスとかいう女だろう。聖女だったが、何らかの事件で教会から追放されたそうだが……なぜそんなことを?」
「――もし、あの女が教会で本当に奇跡を使えたなら、この腐った館からの脱出に手を貸せるかもしれない。……俺は“闇”の力を手に入れるよりも、まずはここから逃げ出す手段を掴む方が早いと思い始めたんだ」
言いながら、ルシエルの瞳には微かな期待が宿る。闇の声に囚われる自分がいる一方で、まだ別の救いを探している――そんな葛藤が透けて見えた。
しかし、ヴァリオは冷ややかに首を振る。
「甘い。あの女はすっかり壊されているって話だ。奇跡が使えるとしても、狂気や絶望に侵されていたら何もできまい。――それに俺は、他人を助けるほどお人よしじゃない」
露骨な拒絶の態度に、ルシエルは口をつぐむ。ヴァリオと自分の利害関係はあくまで“王国の腐敗を暴く書類”を探すことが主目的だ。聖女の救出には興味を示さないだろう。
(けれど……もし本当に奇跡の力が残っているなら、状況を変えられる可能性がある。フィナや他の囚人たちを守るためにも……)
闇の力と、聖女の力。対極にあるような二つが自分の中で混ざり合い、奇妙な結論を導きそうな気がしてならない。
「ま、勝手にすればいい。――とりあえず、もうすぐ行動に移す。お前を地上へ引きずり出す算段を整えてやる。俺もタイミングを見誤ればゲイルに始末されかねんからな」
そう言って、ヴァリオは小窓から視線を外した。
「だが、その前に死なれるなよ。……一応、食い物だけは手配してやる」
無愛想ながら、どこか気遣いめいた言葉を残すと、彼は足早に去っていく。ルシエルは肩を震わせて息をついた。
***
一方、フィナは抜け道を見つけた部屋をもう一度確認すべく、機会をうかがっていた。しかし地下全体の警戒が厳しくなり、看守が頻繁に見回るため、思うように動けない。
(今は焦らずに、あの扉の鍵を開ける方法を考えないと……)
今も針金を握りしめ、頭の中で錠前の構造を思い出そうとする。複数の溝と金属板が嵌まっていたあの錠前――自分だけで解錠できるだろうか。失敗すれば音が鳴り、即座に捕まるに違いない。
(ルシエルさんにも相談したいけど、あの人の牢へ行くのもリスクが大きい。どうすれば……)
思い悩むフィナの隣の牢には、先日別の貴族に弄ばれたらしい若い女性がうずくまっている。その女性は目を伏せたまま、人生を諦めたように沈黙していた。
(私だって、こんなところで死にたくない……。絶対に脱出して、あの人たちを……)
切なる思いが胸に燃え、フィナは奮い立とうとする。しかし頭を振っても、どうにも恐怖が先行して踏み出せないジレンマを抱えている。
***
さらに深い地下――リリスが繋がれている部屋では、戒環が失われたことで拷問官たちが混乱し、予定していた魔術式を延期していた。
しかし、彼女を拘束する鎖そのものは未だ健在で、リリスは痛々しく床に座らされたままである。
拷問官の一人が苛立ちをぶつけるように、リリスの髪を乱暴に引っ張った。
「くそっ、呪文の儀式を先延ばしにされたせいで、こちらの手柄が減る。聖女なんぞ、殺してしまえばいいものを……!」
「ま、待って……私は……」
リリスは弱々しい声を漏らすが、相手はまるで聞く気がない。
「黙れ、堕天の分際が……。こんな役立たず、どうせゲイル様に捧げる見世物にしかならんのに!」
思わず衝動に駆られた拷問官は、足でリリスの脇腹を蹴る。うめき声が響き、彼女の視界が霞む。
(……誰か、こんな地獄から救って……)
心が折れかけた刹那、彼女の胸の奥で小さな光が揺らめいた。――かつて教会で学んだ奇跡の呪文、その名残がわずかに疼き、体内を走る。
(まだ……残っている……? 神様……いや、もう女神は私を見捨てたのかもしれない。それでも……)
かすれた口から細い声が漏れる。拷問官はその奇妙な呟きに顔をしかめたが、さほど強い力ではないと判断したのか、無理やりリリスを台座へ引きずり戻し、鎖を再度固く結び直すだけに留める。
――こうして、リリスの悲痛な祈りは闇の中に消え、滴る血の音だけが部屋に染み付いた。
***
その日の深夜――。
兵士が巡回する通路から少し離れた物置で、覆面の人物がそっと壁に手を当てていた。何かを探るように数歩動き、部屋の隅にある古い陶器や木箱をどかしていく。
「……ここか。地下水路へ続く道が封鎖されているのが、この石壁の裏か」
低く抑えた声が僅かに含み笑いを帯びる。
「もしこの場所の存在を見つけた者がいれば、館を抜け出す鍵を得るだろう。もっとも、この頑丈な石壁を崩すには相応の力が要るが……ふん、我が力なら容易い」
闇色の火が覆面の手元に灯りそうになるが、その瞬間、遠方から兵士の声が近づいたらしい気配を感じ取り、彼は動作を止める。
「今はまだときが早いか。……堕天の聖女、闇に堕ちかけた小僧、そして小娘よ。お前たちがどんな未来を描くのか、見せてみろ」
邪なる囁きを残し、闇の気配は再び薄れていく。遺された部屋には複数の足跡だけが刻まれ、石壁の奥で誰かを待ち受ける通路が静かにその時を待っているかのようだった。
王国の闇を体現する館の地下で、それぞれの運命がじりじりと熱を帯びていく。
ルシエルが生み出そうとする“闇の炎”、リリスが守り抜こうとする“祈りの光”、フィナの必死の行動、そしてヴァリオの冷酷な打算――。
あるいは、すべては同じ結末へ集束しているのかもしれない。
螺旋の迷宮がいよいよ、その正体を露わにしようとしていた。