第7話:歪む祈り、芽吹く黒き火
下層の廊下を進む二人の兵士が、硬い靴音を響かせる。行く先は、拷問室をさらに奥へ抜けた隠し部屋――いま“堕天の聖女”を拘束するための特別な拘束具が保管されている場所だという。
「……なんだってそんな厳重なモンがいるんだ? 聖女って、今はもう力もないって聞いたが」
「ああ、それがまだ“奇跡”とやらを使うらしい。もし暴走すれば、上の連中にも被害が及ぶって話だぜ」
兵士たちは面倒くさそうな顔をしながらも、ゲイルから命じられれば逆らえない。金と地位を得られるなら、どんな酷い仕事でもこなすしかないのが現状だ。
鍵束をガシャリと鳴らし、厚い木扉を開いて部屋に入る。埃と黴のにおいがむっと立ち込め、古い鎖や拷問器具が無造作に積まれていた。
「おい、あれがそうか? 魔力封じの戒環ってやつ……ずいぶん禍々しい見た目だな」
「どこから持ってきたのか知らんが、こんなモノまで揃えているとはね……。ゲイル様も抜かりねえ。ま、適当に運ぶぞ」
ところが、二人が鎖の束を抱えようとしたその刹那、部屋の隅からひゅるりと細い風が流れた。
「……?」
片方の兵士が首を傾げる。その風は通路の通気口が開いたわけでもなく、不自然な冷たさを伴っていた。それに混じるようにして、かすかな、しかし鋭い殺気が漂う。
「おい、なんだ……?」
もう一人が訝しむより早く、ローブを纏った覆面の影が空気を裂くように現れる。手にした短剣から滲む妖しい光が、闇の中で一瞬だけ閃いた。
「あ――」
兵士の悲鳴が出る前に、短剣は正確に彼の喉を掠め、一瞬で息の根を止める。血の飛沫が床を染め、もう一人の兵士は顔面蒼白となり、声も出ずに後ずさった。
「ひ、ひっ……!?」
逃げようとする背中を、覆面の人物は容赦なく追い詰める。舞うような身のこなしと共に短剣を翻し、二人目の兵士もあっけなく床に崩れ落ちた。
「……ゲイルが求める“戒環”か。こんな呪われた道具を使うなど、愚かしい」
覆面は小さく嘆息しながら、兵士たちが抱えかけていた鉄製の戒環を一瞥した。黒金に刻まれた魔術文字が不気味に光っている。
「まるで魔族が使うような術式……。聖女の力を封じ込めるつもりか。だが、そうはさせぬ」
怪しげな呪文を呟くと、覆面の手から闇色の火が湧きあがり、戒環を包み込む。金属が溶けるような嫌な臭いを立て、やがて灰へと崩れていった。
「これでよし……。あの女に“救い”を与える気はないが、ゲイルの思惑通りにはさせん。――まもなく、貴様ら全員がその身を焦がすことになるだろう」
にんまりと笑うような気配を漂わせると、覆面の姿は再び闇へ溶け込む。床に倒れた兵士たちからは血の匂いが広がり、無残な遺体がこの部屋に放置される形となった。
***
ほぼ同じ時刻、ルシエルは瓦礫のように横たわりながら、浅い眠りに苛まれていた。
血の味を感じる夢ばかりを見る。炎の海に沈む自邸と、叫び声。拷問の痛みが何度も甦り、心が押し潰されそうになる。
だが、夢の終わりには必ず、暗黒の中から“闇の声”が響く。
「立ち上がれ。憎しみを忘れるな。お前が望むなら、我が力を与えよう……」
目を開けると、身体中が冷や汗と熱に包まれていた。
(力を……それだけが今の俺を救うのか?)
ふと、遠くの通路で何かが倒れるような音がして、ルシエルは身をこわばらせる。これは看守が来たのか、あるいは他の囚人が暴れたのか、状況は分からないが嫌な緊張が走る。
(フィナは……大丈夫だろうか。ヴァリオは何をしている……? そして、堕天の聖女……)
さまざまな思いが頭を巡るが、今はまだ牢の外へ出る手段がない。早く行動を起こしたいが、それには協力者とタイミングが必要だ。
(闇の声に身を委ねれば、ひょっとしてこの牢を自力でこじ開けられるのか……?)
ルシエルは試しに胸の奥に意識を向ける。怒りや憎しみを思い出し、心を黒い炎で満たすイメージを抱いてみる。
すると、右腕の火傷跡がじわりと熱を帯びてきた。そこには奇妙な紋様が浮かんでいるような気がする。
(これは……? 痛みというより、ひどく甘い焼ける感覚……)
一瞬だけ、視界が揺れた。まるで黒い火花が散るように、牢の扉が焦げ付いて見えたが、それもすぐに消える幻だった。
(くそ……どうすれば意のままに操れる……? 闇の力なんて、使いこなせるわけが……)
頭を抱えるルシエルの歯噛みの音が、薄闇に微かにこだまする。
***
一方で、フィナは自分が囚われている牢の周辺を慎重に探ろうとしていた。以前、拾った鍵束は大事に隠し持っているが、それだけでこの広大な地下を脱出できるわけではない。
(もしかすると、ほかの囚人も同じように何かチャンスを探しているのかもしれない……)
そう思った矢先、牢の向かい側にもう一つ扉があるのに気づく。その扉はいつも固く閉ざされ、看守が滅多に出入りしない部屋だ。
“何があるのか分からないが、もしかすると抜け道に繋がるかもしれない――”
フィナの胸にかすかな希望が芽生える。これまでなら怖くて近づけなかったが、今は鍵束がある。運が良ければ扉を開けられるかもしれない。
(でも、音を立てたら……看守に見つかるかも)
不安で足が震える。ここで失敗すれば、また容赦のない鞭や“客”の玩具にされるかもしれない。
けれど、フィナの中には“誰かを助けたい”という願いも大きくなっていた。ルシエルとの約束、そして同じように囚われている人々――あまりにも惨い現実を放置するのは耐え難い。
(やらなければ何も変わらない……。勇気を出して、試してみよう)
音を立てぬよう慎重に鍵束を取り出し、静かに扉の前へ向かう。鍵の種類は数本あるが、どれが合うか分からない。ひとつずつ、そっと鍵穴にあてがっては回してみる。
――カチリ。
一番大きな鍵がカチリと手応えを返した。フィナは息を止め、扉をわずかに押してみる。すると、軋むような音を立ててわずかに隙間が開いた。
(開いた……!)
高鳴る鼓動を抑え込むように、フィナは室内を覗き込む。そこには雑多なものが積まれ、物置のようにも見えた。松明の灯りが届かないせいで内部は暗く、形がはっきりしない。
だが、その先にさらに小さな扉があることを見つけ、フィナは息を呑む。どうやらその扉はかなり古い造りで、壁に溶け込むようにしていた。
(もしかして……これが“抜け道”になるかもしれない)
あの紙切れには「抜け道」という文字が読めた。ここがその通路に繋がっている可能性は十分ある。
震える手で鍵束をしまい、こっそり中へ足を踏み入れる。物を踏んで音を立てぬよう細心の注意を払いつつ、さらに奥へ――そこには扉が確かにあったが、頑丈そうな錠前が掛かっている。
「う……」
鍵穴はあるものの、先ほど使った鍵とは形状がまるで違う。複数の金属板が組み合わさったような複雑な錠前に見える。
試しに手持ちの鍵をあてがってみるが、やはり合いそうにない。ひとまず無理やり回せるような代物でもなく、ため息が漏れそうになる。
(ダメか……。なんとかこじ開ける方法を探さなきゃ)
ふと、自分の裾に隠してある細い金属片――針金のようなものが頭をよぎる。あれはこのために渡されたものかもしれない。だが、錠前を器用にピッキングできる技術など自分にあるのか……。
(でも、挑戦するしかない……。ここまで来たんだから)
フィナは意を決して針金を取り出し、錠前に差し込もうとする。その瞬間、ドアの外から看守の声が近づき、心臓が凍り付いた。
「おい、そっちは誰もいないだろ。見回りはもういいんじゃねえか」
「いや、さっき妙な音がした気がしたんだ。念のため見てくる」
慌ててフィナは針金を隠し、物陰に身を潜める。もし見つかれば、一巻の終わり……。
扉の外で何度か足音がし、やがて離れていく気配がした。どうやら、即座に入ってくることはなかったらしい。フィナは冷や汗を拭いながら、後ずさるように部屋を出る。
(もう少し……時を待とう。今ここで無理にこじ開けるのは危険すぎる……)
慎重に扉を閉め、鍵を掛け直す。鼓動の音が自分の耳に強く響き、胸が痛いほどだ。この試みは失敗に終わったものの、抜け道らしき扉を発見できたという進展はある。
(いつかきっと……ルシエルさんを助けて、ほかの人たちも……)
震える手をぎゅっと握り締め、フィナは自分に言い聞かせる。今は情報を集め、チャンスを待つしかない。
***
そして、監禁されたリリスの元には、予定されていた“戒環”が届かずに混乱が生じていた。
「貴様ら、兵士たちはどうした? なぜ戒環を持ってこない……!」
拷問官の一人が苛立ちをあらわに叫ぶ。しかし、誰からも返事はない。下僕が探しに行くと、物置で兵士たちの惨い遺体が発見され、戒環は影も形もなく灰になっていたという。
「な……何があった……!?」
この騒ぎにより、リリスを搾取する予定だった儀式は一時的にストップ。鎖に繋がれているとはいえ、余計な拷問を受けずに済む時間が少しだけ伸びた形だ。
(いったい……何が起きているの……)
リリスは半意識のまま鎖に凭れながら、虚ろな瞳で天井の刻印を見つめる。自分の身に何が起きているのかも、もうはっきり分からない。ただ切り裂かれる痛みだけが現実だ。
けれど、その胸の奥底には、かすかに灯る「祈り」がまだ消えていなかった。
(もし、この世界にまだ救いがあるなら……どうか……)
唇を噛み、熱に浮かされた意識を必死に繋ぎ止める。彼女が望むのは、本当に救いなのか、それとも同じように復讐の炎を求めるのか。自分でもわからない。ただ、祈らねば心が砕けそうなのだ。
混乱に包まれる館の地下――
覆面の暗殺者が戒環を破壊し、フィナが抜け道を探り、ルシエルは闇の力に触れようと模索し始める。
そして、リリスは“堕天”と呼ばれながらも、まだ僅かな光を諦めてはいない。
この暗黒の迷宮で、彼らの思いが交差するとき、どんな運命の扉が開かれるのか……。