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第2話:地の底に息づくもの

コツン……コツン……と、水滴が石床に落ちる音だけが暗闇に響く。

 ここは館の地下牢のさらに奥、拷問室や保管室を抜けた先にある、湿った通路だ。かすかな明かりすら届かず、苔生した壁に手をつけばぬめりとした冷たさが指先を濡らす。

 歩みを進めるのは、先刻ルシエルを嘲笑っていた男――コルヴァ。彼は手に持ったランタンの小さな光を頼りに、鼻歌交じりで前へ進む。ときおり、金属の鎖を引きずるような不快な音が通路にこだまする。

 「……まったく、気が乗らねぇな。こんな地下深くに閉じ込めてどうしろってんだ」

 コルヴァが鎖の先をぐいと引くと、後ろをついて歩く少女が呻くような声をあげた。

 「うっ……や、やめて……」

 少女はまだ十代半ばほどだろうか。貧しい服を身に纏ってはいるが、布はところどころ破れ、泥や血の跡が付着している。瞳は怯えきっており、肌は栄養不足で青白い。

 「おいおい、泣いたって無駄だぜ。お前が“道具”にされるのは運命みたいなもんだ。せいぜいこの奥で大人しくしてな」

 コルヴァの言葉には人を人とも思わない冷たさが滲む。

 少女は涙を浮かべ、声を震わせた。

 「ど、どうして……私はただ……道端で物乞いをしていただけなのに……」

 「貴族さまに目ェ付けられたんだろ。ほら、『綺麗な顔をしてるから何かの役に立つ』とかいうねじ曲がった理由ってやつだ。ま、その結末が地下牢ってんだから笑える話だ」

 嘲るような声を出すコルヴァを横目に、少女はつんざくような恐怖を抱え込む。しかし抗う術はない。鎖は手首に巻き付けられ、逃げ場など存在しない。

 少女の瞳がふと潤みながら、上階の方角へ向けて視線をやった。そこでは、今も華やかな宴が続いているのだろうか。自分の叫びも苦しみも、きっと耳には届かない。

 (どうして……こんなに世界は残酷なの……?)


 ***


 一方、その通路から少し離れた牢獄の一室。

 「……ぅ……あ……」

 ルシエル・アルバーグは床に横たわりながら、夢うつつの中にいた。熱と痛みが入り交じり、腕や脚を動かすたびに心臓が毒蛇に噛まれたような痺れを起こす。

 目を閉じれば、かつての屋敷の光景が浮かぶ――凛とした母の笑顔、優しかった父の言葉。だが次の瞬間には炎の壁がすべてを飲み込み、赤黒い悲鳴が世界を埋め尽くす。

 (……やめろ……もう、思い出したくない……)

 拷問で刻まれた苦しみと、家族を失った絶望。その板挟みの中で、闇の声だけが時折ささやく。

 「憎め……もっと憎しみに身を焦がせ。さすれば、その力を得るだろう……」

 ルシエルは唇を噛み締め、額を冷え切った床に押し当てる。――こんな自分が、何かを変えられるのか? 今はわからない。だが“生きなければならない”という感情だけが、微かな希望の灯となって胸の奥を燃やしていた。


 ***


 やがて、コルヴァが少女を連れて通路の奥から戻ってきた。鎖を壁の金具に繋ぎ止め、雑に少女の身体を突き飛ばす。

 「ここで大人しく待ってろ。大した水も食い物もねぇが、死ぬまでには時間があるさ。運が良けりゃ上の誰かが興味を持つかもな」

 少女は膝から崩れ落ち、擦りむいた肌にうっすら血が滲む。それでも必死に泣き声を抑え込み、コルヴァが立ち去る足音が消えるまで何も言わなかった。

 扉の閉まる金属音が廊下を満たし、静寂が戻る。だがその後ろには、確かな“人の気配”があった。

 「……大丈夫……?」

 少女が肩を震わせて振り向くと、そこにかろうじて起き上がったルシエルがいた。傷だらけの身で壁に寄りかかり、青ざめた顔をしている。

 「あなたは……」

 「俺は……アルバーグ……家の……」

 そこまで言いかけ、ルシエルの声は痛みに潰される。今の自分に“貴族の名”を名乗る資格があるのだろうか。まるで荒野に投げ捨てられた抜け殻ではないか。

 少女は涙を拭い、恐る恐るルシエルに近づいた。空腹と恐怖で震える手を伸ばし、彼が流す血と汗の汚れを拭こうとする。

 「どこか……痛いの?」

 「……全身だ。でも……大丈夫……」

 彼女にとって、ルシエルはまだ顔色があるだけマシに見えた。なぜなら、別の牢には人の形を保てないほど拷問された囚人もいると噂で聞いていたからだ。

 とにかく、こうして誰かと声を交わすことで、少女の恐怖も少し和らいだように感じる。息の合間に語り合う二人は、わずかな温もりを分け合っていた。

 「私……名前はフィナっていいます。街外れで物乞いしていたら、急に兵士に捕まって……」

 「フィナ……か。俺は……ルシエル」

 息も絶え絶えに返す声を聞き、フィナは小さく微笑む。それは闇の底で見えるかすかな光のように、儚いが確かな“人間らしさ”が宿った仕草だった。

 「ここ、怖いところだけど……一緒に……生きましょう……ね」

 震える言葉に、ルシエルは心臓を軋ませながらも頷く。――そうだ、自分はもう絶望だけを抱えているわけにはいかない。他にもこんな被害に遭っている人がいるのだ。彼らを見捨てることは、父と母が望むことではないだろう。

 そのとき、再び脳裏で“闇の声”が揺らめいた。

 「守りたいか? ならば憎しみを抱け。愛と憎悪は紙一重……その覚悟がなければ、何も変わらぬぞ」


 ***


 館の上階では、なおも淫らな音楽と笑い声が重なり合い、夜を蝕んでいる。杯を傾け、薄衣の踊り子を眺めながら、“ビジネス”と称した陰謀が交わされるのだ。

 その一角に、ソファに腰掛けたゲイル・ロスフォードの姿があった。相変わらず傍らには妖艶な女が控え、酒と快楽に浸っている。

 「……コルヴァは下で仕事か? まあ奴なら抜かりはないだろう」

 唇を軽く舐めるゲイル。その目が捉えているのは、部下が捕らえた若い娘たちの行方、あるいはアルバーグ家の最後の残党の始末――。

 「ルシエルだったか? あれはどこか不気味な雰囲気を纏っていたが……ふん、そんなもの、上流階級の欲望に踏み潰されて終わりだ。ぬかるみに沈む虫ケラに過ぎん」

 女は微笑を崩さぬまま、ゲイルの胸元に顔を寄せる。香水の甘い香りが周囲に立ち込め、露わな肌が一瞬だけ燭台の光を艶めかしく反射した。

 「ゲイル様……お好きなようになさって。私たちはただ、それを見守るだけ……」

 「当たり前だ。貴族に歯向かう者は皆、地の底で腐るがいい……。ハハッ」

 絡み合う二人の影が壁に映り、周囲の貴族たちは楽しげに杯を合わせる。ここには何の罪悪感もない。欲に溺れた者たちがそれを当たり前の夜景として享受するのみ。

 まるで王国の闇と瘴気を凝縮したかのような晩餐会。その毒が、いつか自分たちの首を絞めるとも知らずに――。


 ***


 「絶対に、許さない……」

 地下牢の闇でルシエルは短く呟いた。それは今は弱々しい響きに過ぎない。だが、フィナの手を借りながら起き上がった彼の瞳には、かすかながら確固たる決意が宿り始めている。

 この腐った館から、いつの日にか抜け出してやる。既に手遅れかもしれないが、それでも何人でも救ってやりたい。そのためには――

 (闇に沈もうが、邪道に堕ちようが構わない。俺は、あいつらを踏み躙る力が欲しいんだ……)

 血の涙が床に零れ、それがじわりと広がって小さな斑模様を作る。暗黒の中、ルシエルは胸の奥で一つの火を育てていた。その炎が燃え広がったとき、王国の闇に一筋の亀裂が走ることになる。

 少女の震える呼吸と、遠くから聞こえる狂気の宴の調べ。その二つが奇妙に混ざり合う地下牢は、まだ救いの光など知らない。けれど、そこに潜む復讐の芽は、着実に育ちつつあった。

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