第1話:闇に染まる晩餐
夜の城塞都市ローゼリアは、その名に似合わず血の香りを孕んでいた。
石造りの壁を取り巻くように闇が沈殿し、遠くで風が嗤うように吹き抜ける。街の広場は厳粛な静けさに満ちている――が、その奥、貴族たちが集う区画ではまるで異質な空気が漂っていた。
最高級の建築様式で飾られた館。その大広間は、華美な燭台が幾つも灯され、天井近くまで赤々と揺れる光が続いている。壁にはあでやかな刺繍や名画が並び、人々は酒と食事に興じていた。
しかし、そのどこか甘ったるい香りの裏には、濃密な“毒”が潜んでいる。見つめ合う男女の目には欲が滲み、貴族と呼ばれる者同士の笑顔には薄ら寒い打算が見え隠れする。
「ねぇ、もっと飲んだら……? 今夜は退屈しのぎを探しているのよ」
鮮やかな紅のドレスを纏った女性が、シャンパンの入ったグラスを片手に微笑む。豊満な胸元が大胆に開き、そこに視線を吸い寄せられる男は少なくない。口許には上品な微笑みを浮かべているが、その瞳には底知れぬ黒さがあった。
「あなたも――ご一緒にどうかしら? 噂によれば、あのアルバーグ家が失脚したそうじゃない? もはや私たちを怖がる必要はないわ」
そう囁かれた青年貴族は、まるで獲物を狙う猫のような眼差しを返す。
「ふん、確かにアルバーグはもう終わったな。反逆の疑いがかけられ、家も焼き払われたとか……。となれば、お前も手空きになった頃合いか?」
妖艶に笑う女。二人が交わす視線の隅には、火刑台にも似た惨い運命を想像しているかのような冷淡な光がある。
――これがローゼリア王国の上流階級の一端だった。
権力と金を握る者は、退屈を紛らわせるために他人の不幸を嗤う。家が一夜にして滅亡し、無垢な人間が血を流したとしても、その場にいない限りは“晩餐の肴”にすぎないのだ。
だが、その惨劇の場にいた者もここにいる。
壮年の男――名をゲイル・ロスフォードという。とりわけ派手な衣装こそ着ていないが、仕立ての良い黒の上着に金の装飾を付け、どこか冷徹な印象をまとっていた。
「ゲイル様、今宵はまた一段とご機嫌ですね」
傍らで、浅黒い肌を持つ若い女が妖艶な笑みを浮かべた。彼女はシルクの薄衣を纏い、その下に何もつけていないのではないかと思われるほど肌を露わにしている。腰のあたりまである黒髪は緩く巻かれ、男を誘うかのように揺れる。
ゲイルは酒の入ったグラスを揺らしながら、薄く笑う。
「今夜は祝賀会だからな。――アルバーグ家が滅びた。王国転覆を企てる下らぬ貴族どもには、良い見せしめになろう」
「ですわね……。クスッ、あの屋敷、かなり派手に燃えたそうですわ。きっとお見事な“花火”だったのでしょうね」
女はわざとらしく唇を舐める。ゲイルに寄り添うように身体を密着させ、その胸元を彼の腕に押し付けた。
ゲイルはその仕草に満足げに目を細めると、グラスの酒を一気にあおる。
「そうだ、折角の宴だ。退屈は嫌いだ。――お前、少し踊ってみせろ。周りにも見せつけるがいい」
「まあ、ゲイル様ったら……」
女性は艶やかに微笑みながら、足首に付けられた小さな鈴を鳴らし、床の中心へと滑らかに歩き出した。周囲の貴族たちが興味半分、いやらしさ半分の視線を注ぐ中で、彼女は腰をくねらせた妖艶な踊りを披露し始める。布が揺れるたび、肌の奥に秘められた熱がチラリと覗く。
そこには明確なエロティシズムがあったが、同時にどこか歪んだ空気が漂っている。――女の瞳には怯えが潜んでいた。まるでこれが“主人”の命令であることを従順に演じているようにも見える。
ゲイルは高慢な笑みを浮かべつつ、その様子を賞味するように眺めている。周囲の貴族たちも酒を舐めながら、その淫靡な舞と、アルバーグ家の惨劇談を同時に楽しんでいるのだ。
「ほう……。やはりゲイル様の“踊り子”は一味違うね。淫らな躍動がなんとも……」
「何でもアルバーグ家から奪った者の中には、まだ良い女が隠れているとか……くく、ひどい話だねぇ。どこに売り飛ばすんだろう」
扇情的な話と、暗い噂話。ここはまさに狂気の宴。
だが、その地下では、ひとりの青年が血反吐を吐きながら囚われている――それを知る者は少ない。
***
場所は同じ館の地下。上階が醜悪な歓声と蠱惑的な音に包まれているのを証明するかのように、かすかな振動が床を伝ってくる。だが、その楽しげな熱とは無縁の寒さが、この地下には広がっていた。
石造りの壁に囲まれた狭い回廊。松明はあるが、火は弱々しく湿っぽい空気に煙だけがくすぶっている。
「ここは……どこ……だ……」
半ば意識を失いかけた青年――ルシエル・アルバーグが、冷たい地面に横たわる。手足は拘束具で縛られ、頬や腕はすでに痣や切り傷で覆われていた。焦げ付いた布切れがまとわりついており、その下には火傷の痕がある。
彼は、ほんの数日前まで貴族・アルバーグ家の一員として平穏な日常を過ごしていた。しかし“王国転覆”の濡れ衣を着せられ、一夜にして屋敷を焼かれ、家族を殺されたのだ。
今や自分すら、拷問の道具とされつつある。
「……ひどい有様だね、ボロ雑巾もいいところだ」
耳元で誰かが呟き、乾いた笑いを漏らす。
小柄な男が、ルシエルを足先で転がしながら観察していた。ぼさぼさの髪と薄汚れた外套を着たその男は、ゲイル配下の下衆な手下――名をコルヴァといった。
「おい、起きろよ。まだ死ぬには早いだろう? お前の主人だったアルバーグ家が、どれだけ余計なことを企んでいたか……吐いてもらわなくちゃ」
「……っ……知らない……何も……」
かすれ声しか出ないルシエルに、コルヴァは舌打ちする。
「つまらんな。……そうだ、姉妹か母親か、見つければ少しくらい楽しめたかもしれんのにな。ああ、残念ながら炎の海でみんな焼けちゃったか……くくっ」
嗜虐的な笑いを含んだ言葉が耳を刺す。母や家族を穏やかな日々の中で失った惨状が頭をよぎり、ルシエルは悔しさと怒りをこみ上げさせる。だが、今は身体をろくに動かすことさえままならない。
「くそ、貴様ら……!」
「ほらほら、気力があるじゃないか。いいね、拷問官が喜ぶぜ? もっと泣き叫んでくれれば、上の連中も賑わうだろうさ」
コルヴァはゲスな笑みを浮かべる。背後には、ふわりと甘い花の香りが混ざっていた。地上階の官能的な香が、空気穴を通じてここまで降りてきたのだろう。地獄の下にも享楽の香り。それがこの館の腐敗の象徴だった。
***
そこへ、細い足音が近づいてきた。闇に溶け込むように現れたのは、一人の女性――衣の破れから覗く白い肌が目に痛々しい。彼女の顔には酷い怯えが貼り付き、唇は震えていた。
「…………」
女性は、コルヴァの足元で転がるルシエルの姿を見て、声も出せない様子で青ざめている。
「おいおい、勝手に下に降りてきて何をしている? お前は上で踊らされていろって言われたろうに」
そう言われると、女性は悲しげに目を伏せる。
「ゲイル様の客に、わたし……呼ばれたの。だけど……あまりにも辛くて、少しだけ……逃げてきた……」
震える声を聞いたコルヴァは、皮肉気に肩をすくめる。
「逃げた? お前、奴隷のくせに。こんなところに来ても、こいつみたいな囚人がいるだけだぞ」
女性はやつれた頬をさらに青ざめさせながら、床に倒れるルシエルを見つめた。炎で黒ずんだ手、割れた唇。その目にはまだ光が宿っているように見えた。――だからか、彼女の表情には同情が混じっている。
(人間を、こんなにも傷つけて……。何が宴だというの……)
口には出せない思いを抱え、彼女はそっとルシエルのそばにかがむ。コルヴァは軽蔑の眼差しを向けるが、そのまま見ているだけだ。どうせすぐに引き離してやる、というつもりなのだろう。
女性は震える指先で、ルシエルの頬についた汚れをぬぐおうとする。
「……大丈夫……?」
囁く声は掠れていたが、その温かみにルシエルの瞼がかすかに動く。
「ああ……」
かすれ声で応えたその瞬間、女性の腕をコルヴァが乱暴に掴んだ。
「さて、お情けはもう十分だ。お前は上に戻れ。そうでないと、次に痛い目を見るのはお前かもしれないぞ? 何しろ“客”が飽きると、どんな悪趣味な遊びを思いつくかわからんからな」
その言葉に女性はわずかに身を震わせる。苦悶の表情が浮かんだが、反論できないらしい。おそらく、彼女自身が貴族の手駒――体を自由にされる“玩具”のような存在なのだろう。
吐きそうなほどの嫌悪感が喉にこみ上げるが、ここは貴族たちの支配下。逆らえば、ルシエルと同じように拷問されるのは目に見えている。
「……ごめんなさい……」
女性はか細い声で言うと、逃げるように立ち去っていった。その背中には、化粧の下でも隠しきれない傷跡がいくつもあった。
***
地下には冷たい沈黙が戻る。コルヴァは興醒めとばかりに吐き捨てるように言った。
「さ、俺は主人に報告してくる。せいぜいそのまま動けないでいろよ。痛めつけられて死ねるんなら、まだ楽な方だぜ?」
荒んだ足音が遠ざかり、暗く湿った回廊は静寂に包まれる。
ただ、ルシエルは息をつくのもやっとの状態で、微かに天井を仰ぎ見た。上階から聞こえる、淫らに狂った演奏や笑い声は、彼の耳にとっては悪夢の残響のようなものだ。
――この世界は、腐りきっている。強者たちは弱者を蹂躙し、力のない者を嘲笑する。自分も家族も、それに踏み潰されたにすぎないのか。
だが、そこでふと心の底から何かが沸き起こる。恨み……怒り……それとも、もっと黒い感情か。息の合間に、苦しげな声がこぼれる。
「……憎い……全てが……憎い……」
舌の上には血の味。――その血さえ、復讐を願っているように思えた。
すると、またあの感じが微かに頭をよぎる。拷問を受けていた時にも一瞬だけ感じた“闇の囁き”。
「ならば、お前の願いを聞き届けよう。もっと憎悪を募らせるがいい」
それが誰の声なのか、どこから聞こえるのか、ルシエルにはわからない。だが、奇妙な安堵感が渦を巻き、鼓動がじんわりと熱を帯びていくのを感じた。
(――それでいい。俺は……復讐してやる……)
床に散った血が、まるで魔法陣のように見えた。頭から足まで痺れる痛みに耐えながら、ルシエルは内に潜む衝動を抱きしめるかのように目を閉じる。
上階の狂宴は、今も続いている。その喧騒の中で、恐らく名もなき女がまた裸足で踊らされ、薄汚い男たちが酒を喉に通して嘲笑っているだろう。
闇を照らすことは、誰にもできないかもしれない。
――ならば、自分が闇へと潜り込めばいい。
焼け焦げた記憶の奥底で灯る“復讐”の火。憎悪と欲望が混ざり合うこの世界で、ルシエルは血塗れの道を進むことを誓う。そうしなければ、父も母も、そしてまだ見ぬ犠牲者も救われない。
ここから先は、誰も見たことのない物語。腐った王国に巣食う闇が、新たな魔王を産み落とそうとしている。――しかし、それはまだ始まりにすぎない。