逃亡
逃げろ逃げろ。とにかく逃げろ。
怪電波は追いかけるのを辞めた。
靴が脱げても。蹴飛ばされても。転んでも。
やじろべえは追いかけるのを辞めた。
財布を落とそうが。アサガオの種をロッカーに置きっぱなしにしようが。しっぽが生えようが。
猫は追いかけるのを辞めた。
決して振り返ってはならない。
手鏡は追いかけるのを辞めた。
なぜ逃げるのかもよく覚えていない。
逃げる前は何をしていたのかも。
ずっとひたすら逃げ続けていたのだろうか。
逃げる以外の術はあったのだろうか。
怪物に追われ、魔物に追われ、七本足の獣に追われ、奈落に追われ、首に追われ、名に追われ、影に追われ、語に追われ、石に追われ、勇気に追われた。
よく考えると追われていたのではない。
あちらは微塵も動いてなかった。
こちらが勝手に逃げて追われていると思い込んでいただけなのだ。
無様で結構。
背後から射掛けられる幻想の矢に当たらないことを天に祈りつつ。
蝶番の外れる音がする。
三十六計逃げるに如かず。
プライドも何もかも凍りついたエビフライとオムライスの皿の前に捨て置こう。
文字通り持ち得るものは全て!
捨て置けるものが私を規定するなど。
滑稽滑稽。
それでも逃げねばならないのだ。
惨めったらしく。
何にも追われてなくとも。
そうでもしないと冬が春に追いついてしまう。
一歩前の足跡までもが降り積もる雪で薄れてゆく。
サクサクサク。厚みのある雪を上から抑えつける。たんぽぽも未だ眠りこけたまま。
足を引きずっていようとパレードの歩みを止めるな!
3歩後ろに万華鏡。
6歩後ろに観覧車。
9歩後ろに回転扉。
春を忘れた熊は一晩中鉄塔の上で小躍りする。
逃げろ逃げろ。
そこに道がある限り。
それでも道は途切れません。
逃げろ逃げろ。
そこに光がある限り。
それでも光は消えません。
逃げろ逃げろ。
そこに秩序がある限り。
それでも秩序は崩れません。
逃げろ逃げろ。
そこに歌がある限り。
それでも歌は止まりません。
歌は形を変えた耳鳴り。
ならば浜辺の少し欠けた貝殻を耳に当てて共振させてしまえ。
耳をすっかり塞いでしまうその前に。




