プロローグ【勇者降臨】
風を纏い勇者が駆ける。薄暗い闇の中を縫うように刃の煌きが突き進む。振り上げられた長大な剣。両の手に力が込められる。その瞳に映るのは――異形の魔物。
「オオオオオォォォッ!」
軌跡が三日月を描く。大気を震わせ、空間ごと切り裂くような一閃。時が止まる。僅かな静寂が訪れる。ゆっくりと静かに、音もなく、二分された身体が滑り落ちていく。ふいを突かれた魔物は断末魔の叫びすら上げることはない。裂け目から体液が噴水のように噴き出し、止め処もなく流れてゆく。魔物の体は物体と化し、鈍重な音を立てて地面に転がった。
間髪いれず、勇者が左手を腰へと回す。
「はっ!」
気合とともに水平へ薙ぎ払うかのように真横へ振る。闇に浮かび上がる刹那の淡い光条。その先にはぎらりと鈍い光を放つ短剣。それは魔物の胸元へと吸い込まれていった。短い絶叫、魔物は手足を振り子のように振り乱し、けたたましい激突音とともに壁へ打ち付けられた。突き刺さった短剣から魔物の体液が染み出ていく。ニ度、三度、口だけで呼吸をする魔物。やがて据え置かれた人形のように首が垂れ下がり、絶命した。
勇者は次々に魔物を屠る。肉を食む醜い魔物たちを滅するため、連れ去られた者たちを救うため。そして――魔物たちからこの世界を取り戻すため。
選ばれし勇者が舞う。
振り向いた勇者の視界に、外で揺らめき立つ魔物の長い影が伸びる。勇者は右手を大きくひらいた。手の平に燃え立つ赤の光が収束していく。見る間に大きさを増していく赤の光球。暗闇の中、勇者の姿が浮かび上がった。魔物の足がぴたりと止まる。つんざくような悲鳴を上げて逃げ出した。そして赤が三つに分かれていく。
「喰らえっ!」
赤の光が炎と化して解き放たれた。それらは絡まり合い、うねりながら魔物を追いかけていく。轟々と空気を燃やす灼熱。狂ったように息を荒げる魔物の背を、燃え盛る火炎が襲う。魔物を掠めた二つの火球は爆裂音を上げて地面に着弾。大地が爆ぜる。空に長い土飛沫が上がった。瞬間、四散する魔物の肉体。魔物だったモノが、炎を纏って弾け飛んだ。辺りにくすんだ炎が燃え広がっていった。
突如、建物の入り口から魔物の咆哮が上がる。
「ちぃっ……!」
眩い閃光が炸裂。勇者の左手に鈍痛が駆け抜ける。大剣が砕け、鉄塊となって崩れ落ちた。
「オオオオォォ!」
しかし、勇者は弾かれたように跳び出した。怯むどころか、より勇猛に入り口へ向かって走り出す。魔物はうろたえながらも勇者に狙いを定める。そして、轟音が響き渡った。
「ふん!」
火花が飛び散る。勇者の眼前には鈍く黒光りする鋼鉄。背から引き抜かれた黒く巨大な戦斧だ。黒斧の刃から勇者の鋭い眼光が覗く。それは射抜くかのように魔物へと突き刺さった。途端、魔物の目が見開かれ、壊れたおもちゃのように音を立てて震え始める。勇者の圧倒的な威圧感。魔物は地面に座り込んで動けない。魔物の中にあるものは、ただ恐怖のみ。
「はあああぁ!」
魔物の視界を巨大な黒がよぎった。眼前の勇者の姿が揺らいでいく。景色が回る。天地が反転する。世界が朱で染まっていく。逆さまになった魔物の瞳には、赤く染まり始めた空が映っていた。
周辺の魔物をすべて倒した勇者が帰還する。帰りを待っていた者たちは一斉に駆け寄った。応えるように右手を高く掲げる勇者。それに呼応するかのように、あちこちから声が上がっていく。
だが、彼らは知らない。魔物は68億体以上いて、一日に22万体増え続けているということを。
「モオオオオオォォゥ!」
「ウモォォォォォ……」
牛たちの、勇者を称える声が絶えることはない。その目は皆一様に、赤く光を放っている。凱旋した、牛の頭を持つ勇者・ミノタウロスは両手を高々と挙げ、歓声に応えていた。
ふいに数頭の牛が身を隠すような光に全身を包まれる。軋むような不気味な音を立て、その影がみるみる形を変えていく。しだいに弱まっていく光の中から、黒い斧が覗いた。そして、少しずつ牛の頭の半獣人が姿を現わす。新たなミノタウロスが咆哮のような産声を上げた。
赤黒い鎧を纏う、豚の頭をした勇者が市街地で魔物に襲い掛かる。
巨大化し、刃と化した爪や牙をぞろりと覗かせる怪鳥が空を舞う。
緑の鱗に覆われた長大な首が、湖から水飛沫を上げて現れる。
意思を持ち、大樹が地を這っていく。
川の水が集まり、美しい女となって動き出す。
風がうねりを上げ、辺りを埋め尽くすような龍の姿を形どっていく。
世界各地に続々と舞い降りていく、様々な勇者たち。
魔物――人間との戦いが幕を開けた。