7.マリアンヌの父への想い
ミシェル・ウェールズを出ると、ティアナはスティーブにメリッサを彼女の家へ送り届けさせ、自分も自宅へ戻った。そして車を降りると急いで客間に向かった。今日は久しぶりに渚とピョンが来ていて自分の帰りを待っているのだ。
広い客間の開口部から「ナギサ先生!」と叫ぶと、ティアナはソファーから立ち上がった渚に走り寄り抱きついた。
「ああ、ティアナ。大変だったでしょう?ごめんなさいね。嫌な事を頼んでしまって」
「大丈夫よ。だってナギサ先生の為だもの」
渚が申し訳なさそうにティアナを見つめているので、彼女の肩の上に乗ったピョンが口を出した。
「気にする事ないで、ナギサ。ティアナはめっちゃ楽しんでやっとった。なあ、アンドルー。ティアナはアカデミー賞もんの演技力やったな」
「ええ。ピョンがこれだけは言うように、と言っていたシスター・ボールドウィンとミシェル・ウェールズの悪口も絶妙でしたしね」
「変な事を褒めないで」
ティアナが少し頬を赤くしながらアンドルーを睨んだ。そこへメリッサを送り届けてきたスティーブが戻って来て彼等の会話に入ってきた。
「それにメリッサ嬢もなかなかでしたね。あの“だーいっ嫌い”って台詞。熱がこもってました」
「あの子は元々ああいう子なの。伝統ある城を見ても“こんなカビ臭い所に住みたいのはネズミとゲジゲジくらいじゃない?”って言うし。私はお城とか大好きなんだけど・・・」
ティアナのお姫様になりたい願望はまだ健在のようだ。彼女は話しながら胸に付けていたブローチをはずして、裏側に付いている小さなボタン型のマイクをはがし取った。これでミシェル・ウェールズの校長室での会話を渚とピョンは聞く事が出来たのだ。
「本当にピョンちゃんはMI6に入れるんじゃない?」
ティアナからマイクを受け取りつつ、ピョンはニヤリと笑った。
「ジェームズ・ボンドみたいにせわしないのは性に合わん。ワイは自由にゆるーく生きるのが好きなんや」
次の日、授業が終わった後、渚は急いで教科書をまとめ教室を出た。朝マリアンヌに話があると言うと、授業が終わったら教会の前のエレーヌの庭で待っていると言われたからだ。
本館からレンガの敷かれた小道を抜け庭の中へ入っていくと、美しく刈り込まれたトピアリーの向こうから「もう来ないで!」という叫び声が聞こえ、渚は驚いたように立ち止まった。そっと木の陰からのぞき見ると、マリアンヌの父が彼女に会いに来ていたようだ。だがマリアンヌは何とか彼女に話をしようとする父をにらみつけて掴もうとする手を振り払った所だった。
「今更、私に何の用があるというの!あなたはもう再婚しているんでしょう?だったらその家族と楽しく暮らせばいいじゃない!」
マリアンヌの言葉にレイは一瞬息を詰まらせた後、うつむきながら答えた。
「妻は2年前、他に男を作って出て行ってしまったんだ。君のお母さんともうまくいかなくて・・・。本当に情けなくて、ごめん・・・」
マリアンヌは困ったように父を横目で見た後、顔を伏せた。
「それで?あの小さな女の子の世話を私に押しつけようってわけ?一度捨てた娘の利用価値なんて、そんなものよね」
マリアンヌの言葉にレイはショックを隠せないようだった。それは渚も同じだった。こんなひどい言葉を実の父に言うなんて、今までの優しい穏やかなマリアンヌからは想像も付かなかった。
「メアリー。僕はただもう一度君と家族になれたらと・・・。ミスター・バーキンスの使いの人が来た時、本当は君に会わせる顔なんて無いと一度は断ったんだ。でも君が天涯孤独で寂しい毎日を送っていると聞いて、君にもちゃんと家族が居る事を知って欲しかった。だから・・・」
レイの言葉にマリアンヌは信じられないような瞳をした。
「バーキンス。あの校長があなたに頼んだの?あなたを使って、私をここから追い出すために・・・?」
マリアンヌはギリッと歯を噛みしめると、冷たい目でレイを見上げた。
「ええ、そうね。あなたは私に会わせる顔なんてない。ママの事も新しい家族も、結局誰も幸せに出来なかったんじゃない。私が寂しいですって?冗談はやめて。私はここで何のしがらみもなく毎日楽しく幸せにやっていたわ。あなたが来るまではね。もう帰って。そして二度と来ないで。あなたをパパなんて呼べるはずないじゃない!」
走り去っていくマリアンヌをレイはどうする事も出来ずに見送った。渚もマリアンヌを追おうとしたが、もう一度レイの方を振り返った。彼はショックで動けないようだ。呆然と立っているレイに走り寄ると渚は早口で叫んだ。
「ミスター・ベルナール。マリアンヌは決してあなたを憎んでいるわけじゃない。ただお母さんを亡くした後あまりにも辛い経験をしたから、ここが何処より温かい場所だと思って居るの。だから諦めずに又来て。本当の温かい居場所をあなたが教えてあげて」
それだけ告げると渚はマリアンヌを追った。何とかしなければ。このままマリアンヌと父が離ればなれになるなんて絶対ダメだ。
シスターの寮がある1号館のドアを開けると、渚は2階まで駆け上がった。2階の階段の踊り場で一息つくと再び3階へ。3階の304号室がマリアンヌの部屋だ。ドアをノックしたが返事はなかった。渚はそっとドアを開け中を覗いた。さっき父親の前で見せた態度から一変、泣く事さえ出来ないような悲しい顔でマリアンヌはベッドの端に座っていた。
渚は同情深くマリアンヌの名を呼ぶと、彼女の隣に腰掛けた。ベッドは渚の重みにも反応しないほど硬く、きっと修道女達にとってそれは当たり前の事なのだろう。柔らかなベッドに眠る事が幸福とは限らないが、渚はマリアンヌにも普通の20代の女性が送る、輝くような日常を送って欲しかった。
優しくマリアンヌの手を握ると、渚は彼女の顔をのぞき込んだ。
「マリアンヌ。お父さんが嫌いであんな事を言ったんじゃないんでしょ?」
マリアンヌは急に涙を浮かべると、渚の顔を見ずに答えた。
「嫌いよ。校長なんかに利用されて、私をここから追い出す手伝いをしているようなものだわ」
「例えそうだとしても、お父さんはマリアンヌを幸せにしたいのよ。あの小さな女の子だって。妹が居たなんて素敵じゃない?」
「必要ないわ」
マリアンヌはかたくなに答えた。
「マリアンヌ。外の世界に出るのが怖いのは分かるわ。あなたはずっとここで生きてきた人ですもの。でも考えてみて。パパと呼べば返事を返してくれる人が居るのよ。あなたの名を愛情深く呼んでくれる家族が出来る。それがどれ程幸せな事か・・・」
「違うわ!」
マリアンヌは急に叫んだ。
「あんな人、父親だなんて思えないだけよ。今更現れて何が家族よ。だったら私が空腹で死にそうだった時、どうして手を差し伸べてくれなかったの。どうしてこんなに長い間放っておいたの。何が家族になりたいよ。あんな奴死んでもパパなんて呼んでやらないわ!」
「マリアンヌ!」
渚の厳しい声と共にパチンと頬をはたく音がして、マリアンヌはびっくりして自分の頬を押さえた。
「叩いたりしてごめん。でもあなたのママならきっとこうしたから。マリアンヌ。意地を張るのは止めなさい。あなたの心はこんなにもパパの事を呼んでいるじゃない」
渚はマリアンヌを立ち上がらせると、ベッドの脇にあった鏡の前に連れて行った。そこには止められないほどのあふれる涙を流し続ける自分が映っていた。
そうだ。本当は嬉しくて懐かしくて、すぐにでもパパと叫んでその胸に飛び込みたかった。でもそれはまるで神様を裏切るような深い罪のような気がしてどうしても出来なかった。そんな心のわだかまりを渚の言葉が一瞬で溶かしてくれた。彼女の声がずっと昔に亡くなった母の声に聞こえたのだ。
「ナギサ・・・」
マリアンヌは再び泣きながら渚の首に抱きついた。渚にはもう呼んでも返事を返してくれる家族は居ない。それなのにこんなに自分の幸せを願ってくれるのは、とてもありがたくて申し訳なかった。
「ナギサってホントにカリスマ教師だね」
「じゃあマリアンヌは出来の悪い生徒?」
「うん・・・」
泣いている友を優しく抱きしめながら渚は瞳を閉じた。これでミシェル・ウェールズは私にとって、とても寂しい場所になるだろう。それでもマリアンヌが幸せなら自分もきっと幸せだと渚は思った。




