5.溶けたわだかまり
渚が去って行った後、1号館から礼拝堂へ至るこの細い道を通りかかったのは、7年生のリーブ・ウィザーストーンと友人のアラン・ベルフォード、そしてジェームズ・マストラントだった。彼らはこのミシェル・ウェールズの最上級生の中でも特に伝統ある名門の家の末裔で学園の中でも目立つ存在だった。
友達と楽しそうに語り合いつつ歩いていたリーブは、前からやって来る2人の男子生徒と1人の女生徒を見てムッとして立ち止まった。つい先週転入してきたクラスメイトのハリス、レヴィン、ルイーズだ。セカンドネームはまだ覚えていなかった。いや、覚えたくもなかった。彼等は今までずっと接してきたミシェル・ウェールズの他の生徒とは明らかに違っていたからだ。
伝統を重んじる気風もないし、紳士、淑女としてのたしなみにも掛けている。ブランド品を身につけていれば上流階級だと思っていて、本当の気高さとは持ち物ではなく、内面から現れるものだという事が分かっていないのだ。
だからそんな奴等とは口も聞きたくなかった。向こうもこちらのそういう態度を分かっているようだが、あの自信過剰な奴等は気にも止めていないようだ。いつも3人一緒に固まって、僕達の悪口を言っているようなのが本当に鼻につく。とにかく気にくわない奴らだ。
ハリス達3人はリーブとその仲間に気付くと、別の道を行くでもなく、まっすぐに向かって来た。そして彼等の前で立ち止まると、真ん中に居たハリスが腰に手を当ててリーブ達を見下すようにニヤリと笑い、その横からレヴィンもクスクス笑いながら声を上げた。
「おーや、貴族様のお通りだよ。ハリス。道を空けてあげなくてもいいのかい?」
それに答えてハリスが言った。
「そうだなぁ。なにせ貴族様は人に道を譲る事をご存じないもんな。ふんぞり返っていれば偉いと勘違いしているんだ」
リーブはムッとしてハリスを睨んだ。
「僕がいつそんな態度を取ったんだ。お前達は男爵家の僕を侮辱するのか?」
「出ました、男爵家!」
ハリスはからかうように両手を振り上げた。
「この21世紀にそんなカビ臭い身分が何の役に立つんだい?それしかない人間は可哀想だね。笑っちゃうよ」
完全に頭にきたリーブはハリスの胸ぐらを掴んだ。だがハリスは全く動じることなくニヤリと笑ってすぐ目の前にあるリーブの顔を見つめた。
「どうするんだい?殴るの?君にそんな度胸はある?こっちには11人の腕の立つ弁護士が付いているんだ。それにパパは大手新聞社の大株主だよ。明日の新聞が楽しみだね。男爵家のご子息様、級友を殴って怪我をさせるってさ」
ギリギリと歯を噛みしめているリーブの肩をアランとジェームズは両側から掴むと「行こう」と言って急いでその場を離れた。
「逃げるのかい?お貴族様は意外と腰抜けなんだなぁ!」
再び戻ろうとするリーブの両腕を掴んで急ぎ足で歩きながら、アランとジェームズも歯を噛みしめた。遠くからルイーズの甲高い笑い声が響いていた。
家に戻った渚はピョンの「お帰り」という声に応える事も出来ず、部屋へ走り込みドアを閉めた。そしてそのままドアの前に座り込んで両肩を握りしめながら泣き出した。
ー どうしてだろう。涙が止まらない・・・ ー
信頼していたシスター・ボールドウィンが消息を絶ったからだろうか。それともマリアンヌが出て行ったら学園で孤立するから・・・?
ペタペタと小さくドアを叩く音に、渚はハッとして顔を上げた。ドアの外からピョンが心配そうに声を掛けているのが聞こえる。
「渚、どないしたんや。何で泣いてるんや?ドアを開けてくれ。ワイに理由を教えてくれ、渚」
渚は震える手で口を覆い、嗚咽を押し殺した。
「渚。ワイは渚の友達ちがうんか?友達やったらどんな事でも話してくれ。ワイは渚の為やったら何でもしたる。どんな時でも渚の味方や。絶対裏切ったりせえへん」
やっとドアの向こうから小さな声で渚の返事があった。
「何でもって、どんな事?」
「そやから何でもや。人殺しせえゆうんやったら、迷わずするで」
「な!」
びっくりして渚がドアを開けると、小さな緑色のカエルはニヤリと笑って彼女を見上げた。
「やっと開けたな。1人で抱えとかんと話してみ」
「う・・・でも人殺しはしないよね」
「そりゃ渚がお願いせんかったらせえへんで。ワイはなぁ、渚が泣いてんのが一番辛いねん。そやから渚が笑う為やったら何でもしたる。ワイ等は友達やろ?」
「ピョンちゃん・・・」
渚は今はっきりと分かった。本当の孤独は学園で孤立する事なんかじゃない。ピョンがここから居なくなってしまう事。それが自分にとって本当に一人ぼっちになってしまう事だった。そうなった時を考えると、怖くて辛くて涙があふれ出るのを止められないのだ。
「でも・・・友達より恋人の方が大事でしょ?」
ピョンは渚が何を言っているのか分からずきょとんとした。
「何の事や?ワイはカエルの女なんかいらんで」
「そうじゃなくて、人間の恋人。エルサは人間の女の人でしょ?」
ピョンは目を丸くして内心“嘘やろ?”と叫んだ。ただの寝言だけでどうしたらここまで飛躍した考えになるのだろう。
「え・・・と、渚?確かにエルサは人間の女やけど、もうとっくの昔に婆ちゃんになって亡くなったで」
「な、亡くなったの?」
そりゃまあ2,500年も前やからなぁ・・・。心の中でそう思ったが、当然それは言えないので、ただ頷いた。
「それじゃあ何処にも行かない?ずっとここに居てくれる?」
「当たり前やろ。約束したやないか。渚が婆ちゃんになっても側におるって」
渚はやっと安心したように微笑むとピョンを両手ですくい上げそっと抱きしめた。カエルのひやりとした背中が頬に当たると、全てのわだかまりが溶けていき、心が安らいでいった。
ー そうだ。私、ずっとこうしたかったんだ ー
渚はそのままリビングへ行くとピョンをテーブルの上に置き、自分はその前のソファーに座って今までの全ての事情を話した。
ピョンは渚の話を聞いた後「ふーむ」と言ってしばらく考えて居た。多分頭の中を整理しているのだろう。渚は次にピョンが口を開くまでじっと黙って待っていた。
「それで渚はどうしたいんや?ダグレイをミシェル・ウェールズから追い出したいんか?」
静かな口調のピョンに今度は渚が少し考えてから答えた。
「最初、シスター・ボールドウィンを追い出した時はそう思ってた。だけどダグレイがミシェル・ウェールズにやって来た理由を聞いて、少し戸惑ったわ。確かに彼の事は好きになれないけど、やろうとしている事は正しい事の様に思ったから。でも・・・」
渚は少し言葉を止めてうつむいた後、再びピョンを見た。
「これは私のただの主観かも知れないけど、ダグレイには何か違うものを感じるの。彼の言っている言葉だけが彼の真実じゃないような気がする。ダグレイが初めて校長室を訪れた時、シスター・ボールドウィンが言っていたの。“とうとうあなたの夢が叶ったわけね”って。4年前、シスター・ボールドウィンと校長の座を争って負けた。それ以来ずっとミシェル・ウェールズの校長の座を狙っていたのだとしたら、その執念はただミシェル・ウェールズの伝統を壊したいだけだとはとても思えない。他にも何か理由があるんじゃないかって・・・」
渚の意見にピョンも2、3度軽く頷いた。
「ワイもそう思うな。渚の話を聞いていると、ダグレイ・バーキンスちゅう男は冷静そうに見えて、妬みや憎しみの感情をなかなか忘れられへん奴みたいやな。マリアンヌの父親が突然現れたんも何かありそうや。そうやな。とにかく一番気になるんは新しく増えた転入生や。マリアンヌの言う通り数が多すぎる。ちょっと調べてみるから渚はその子等の名前と住所を調べてくれへんか?それくらいやったら簡単やろ?」
「うん。大丈夫。すぐに調べるわ」
渚の返事を聞いてピョンは右の拳で左の手の平を軽く叩いた。
「さあて。何が出てくるか、楽しみやなぁ」




