4.謎の転入生とマリアンヌの過去
マリアンヌに言われてから気を付けて見るようにすると、確かに各クラスに新しい転入生が増えているようだ。渚の教えている日本語のクラスにも新しく2人の生徒が加わっていた。
その後もゆっくりではあったが、12人が13人、14人と徐々に転入生の数は増えていった。
ある日授業が終わった後、渚が資料の整理をしていると、マリアンヌが扉を開けて人目をはばかるように入って来た。
「今、構わない?ここなら誰も来ないと思って」
渚の「ええ。もう今日の授業は終了したから」という返事を聞いてマリアンヌはドアを閉めた。生徒の座る椅子に向かい合って腰掛けると、マリアンヌは相変わらず不安そうに言った。
「とうとう18人になったわね、転入生」
「ええ。でもそれより2年の生徒が3人も退学になるって本当?」
「本当らしいわ。シスター・ジーナのクラスですって。彼女泣いていたわ。今までは脱走したってせいぜい謹慎になるくらいだったのに・・・。ナギサ。このミシェル・ウェールズで退学になる事がどういう事か分かる?彼らは社交界で居場所をなくしたも同然だわ。いい笑い者になるんだもの」
「でもテネス・リード家はものすごい名門でしょ?親は何も言って来なかったの?」
「もちろん言ってきたわ。でも校長は頑として受け付けなかったの。私、あの校長が本当に良く分からないわ。戒律をなくしたかと思ったらいきなりこんな厳しい罰を与えるなんて・・・」
渚も校長が何を考えているのかなど、さっぱり分からなかった。だからマリアンヌも不安なのだろう。
「ねえ、ナギサ。私やっぱり新しい転入生の事を調べた方がいいと思うの。どんな家柄の子達なのか。生徒を調べるのは良くないかも知れないけど、でもやっぱり・・・」
マリアンヌが話している途中、突然ドアが開き、2人はびっくりして入り口を見た。何度かこの学園で見た事のある校長の秘書という女性が立っていた。
「こんな所にいらしたの?シスター・マリアンヌ。あなたにお客様よ。すぐに校長室に行かれるといいわ」
「私に?」
マリアンヌは驚いたように声を上げた。このミシェル・ウェールズに来てからマリアンヌに客が来た事は一度もなかった。渚もマリアンヌは天涯孤独で他界した母親以外は他に身内など居ないと聞いていたし、何年もこの中だけで暮らしてきたマリアンヌに外の世界の知り合いがいるはずもないと知っていた。
マリアンヌが不安そうに自分を見るので、渚は頷いて一緒に校長室に向かった。
校長室でマリアンヌを待っていたのは、5、6歳の女の子を連れた中年の男性だった。マリアンヌはその男に見覚えがなかったので、少々不審そうな目で男を見た。男はマリアンヌが校長室に入って来るのを見ると、ハッとしたように立ち上がった。
「メアリー・・・」
男が自分をそう呼ぶのを聞いて、マリアンヌは凍り付いたように立ち止まった。メアリーというのは、彼女が洗礼を受ける前の本当の名前だ。その名を知っているのは幼い頃に死に別れた母ともう一人だけ・・・。
自分と同じ髪と瞳の色をした男が懐かしそうに目を細めて近づいて来るのを見て、マリアンヌは思わず叫んだ。
「来ないで!!」
「メアリー・・・」
男の悲しそうな顔を見ないように、マリアンヌは下を向いて言った。
「今更何だと言うの?娘まで連れて、自分の幸せを見せびらかしに来たわけ?」
渚はマリアンヌがこんなにきつい言い方をするのを初めて聞いた。それだけで彼女がこの男の事をひどく憎んでいるのが分かったが、その雰囲気からして彼は多分マリアンヌの父親だろうとも思った。
マリアンヌの張り詰めたような表情を察して、ダグレイが口を開いた。
「シスター・マリアンヌ。君のお父上・・・レイ・ベルナール氏と君の母が離婚したのは君がまだ幼い頃で父親の顔も覚えていないだろうが、この方が君の父親という事は紛れもない事実だ。ミスター・ベルナールはずっと君の事を探しておられたそうだよ。そしてやっとここに居ると分かって会いに来られたんだ」
ダグレイの言葉にもマリアンヌはじっと唇を噛みしめたまま顔を上げようとはしなかった。
「メアリー。君が怒るのも無理はないと思う。突然父親だと言っても信じて貰えないのは・・・。でも離婚後、僕は何度もウェイン(マリアンヌの母)に君に会わせて欲しいと連絡したが、一度も会わせては貰えなかった。その内君達の居場所も分からなくなって・・・。まさかウェインが死んで君が修道女になっているなんて・・・。苦労したんだね、メアリー。でももう大丈夫だよ。私達と一緒に行こう。普通の暮らしに戻れるんだよ」
父親の優しい言葉に涙があふれそうになるのを、マリアンヌは渾身の力を込めて堪えた。
今頃現れてこの男は何を言ってるんだろう。10歳で母を亡くして食べ物もなく頼る人も居ない。どうしていいか分からなくて、街に出てさまよった。時々気まぐれに与えられる施し受けて生き延びていたけど、それさえなくなっても、私には他の惨めな子供と同じように盗みをしてまで生き延びるほどの強さもなかった。帰る家もなく寒さで行き倒れた時、遠くでジングルベルが聞こえた。生まれて初めて神様を恨んだわ。サンタは両親に囲まれて温かな家で幸せなクリスマスを過ごしている子供の所にしか現れないんだと・・・。
寒さで凍え死にしそうになっていた私を助けてくれたのがある修道院のシスターだった。その人の紹介でこのミシェル・ウェールズに教師として配属されたのだ。ここはやっと得られた私の温かな居場所。それを今更やって来て何もかも捨てろと言うの?
「私は神に仕える身、父も母もおりません。どうかお帰り下さい。メアリーはもう死にました」
冷たく言い放って顔を上げたマリアンヌは、父の足下にいる小さな女の子と目が合った。父は再婚してこの娘が生まれたのだ。なのに今更私に何の用があるというの?
小さな女の子は父親の足にしがみつきながらマリアンヌをじっと見つめた。
「お姉ちゃん?」
その愛らしい声に胸をえぐられたように感じたマリアンヌは突然校長室を走り出た。
「マリアンヌ!」
渚は急いで後を追った。マリアンヌは渚の声も耳に入らないように階段を駆け下りた。必死に追いかけた渚がやっとマリアンヌの腕を捕まえたのは一階まで降りてからだった。マリアンヌは急に渚の方を振り返って大声で泣きながらその胸に飛び込んだ。ただ声を上げて泣き続けるマリアンヌの心中を分からないなりに察しながら、渚はじっと彼女を抱きしめていた。
マリアンヌを彼女の寮の部屋まで送った渚は、ミシェル・ウェールズの門へと向かってとぼとぼと歩き始めた。
両親が飛行機事故で亡くなってたった一人ぼっちになった時、しばらくは食事を取る事さえ出来ずにただ呆然と生きていた。辛くて辛くて、自分がこの世で一番不幸なんじゃないかと心のどこかで思っていた。だがそれはただの甘えだった。私には一生ちゃんと暮らしていけるだけの財産と家があった。私の事を心配して世話をしてくれる木下教授のような人も・・・。
でもマリアンヌには何もなかったのだ。お金も住む家も食べ物さえも・・・。寮の部屋でマリアンヌの子供時代の話を聞いた渚は涙を止められなかった。たった10歳の子供が母を失い、全てを失い、行き倒れるまで追い詰められるなんて・・・。
それを聞いた渚はマリアンヌが父親に取った態度を理解できた。それでも彼女の父、レイ・ベルナールは悪い人には見えなかった。今はわだかまりがあってもいつかマリアンヌの心が父親を許す事が出来たら、彼女には家族が出来るのだ。それはマリアンヌにとってとても素晴らしい事に違いない。でもそうなると私は・・・。
うつむきながら歩いていた渚はふと自分の方へ近づいてくる足音に気付いて顔を上げた。いつもは渚の姿を見たら、何か恐ろしいものでも見たような顔をして去って行くプードリー・オルバインがニヤニヤと笑いつつこちらにやって来て目の前で立ち止まった。
「いやいや、シスター・マリアンヌに父親が居たとはねぇ。実にめでたい話じゃないか。しかし、何だねぇ。彼女がここから出て行くとなると、あんたは一人ぼっちになってしまうねぇ。なんと言っても皆君の事を魔女と言って恐れているから、シスター・マリアンヌ以外に友達なんて居ないだろう?まあ、魔女には一人がお似合いだがねぇ」
プードリー・オルバインは皮肉な笑いを吐き出しながら、渚の横を通り過ぎていった。
ー 魔女・・・ ー
確かにマリアンヌ以外の他のシスターはシスター・エネスとあまり仲が良くなかった渚にはなるべく近付かないようにしている様だった。だから多分マリアンヌが出て行けばオルバインの言う通りになるだろう。しかしみんなに魔女とまで思われていたなんて・・・。渚は再び泣き出しそうになるのを堪えながら走り出した。




