3.改革の始まり
ダグレイが去って行った後、しばらくざわついていたシスター達もそろそろ一限目の授業が始まるため、それぞれの教室へ向かって行った。渚とマリアンヌもシスター・ルームを出たが、思い詰めたようにうつむいて何も話さない渚をちらっと見て、マリアンヌは口を開いた。
「渚はさっきの新しい校長の言葉、その通りだと思ってる?」
「え?」
渚は驚いたようにマリアンヌを見た。
「だって、ミシェル・ウェールズに来た頃、渚も同じような事をよく言ってたでしょう?」
「それは・・・」
どう答えていいか分からず、渚は再びうつむいた。確かにマリアンヌの言う通りかもしれない。あのダグレイがもしシスター・ボールドウィンを追い出した張本人でなければ、私は彼の言葉に拍手を送っていたかもしれない。
だが何だろう。シスター・ボールドウィンの件がなかったとしても、心がざわついていたのではないだろうか。本当にこのままでいいのか分からない不安が心をよぎっていく。だがそれをどうマリアンヌに説明していいかも分からなかった。
「とにかく、少し様子を見ましょう。あの校長が本当にこのミシェル・ウェールズの為にここへ来たのか、確かめる為にも・・・」
そう言って去って行く渚の背中をマリアンヌは不安そうな瞳で見送った。
新校長の言葉通り、それからのミシェル・ウェールズは劇的な変貌を遂げた。まず300に亘って決められていた戒律は全て廃止され、普通の学校と同じようなルールが新たに制定された。
今まではパソコンの授業の時以外は使わなかったコンピューターが全員の机に配備され、全てインターネット通信が可能になった。もちろん携帯電話の使用も許可され、授業中以外はいつでも使っていい事になった。
休憩時間、子供達が友人同士でメールアドレスを交換したり、両親の元へ連絡を取っているのを見て、渚は少しほっとした。これで良かったのだ。これでやっとこの学園も現代の他の学校と同じようになった。
渚がそんな風に自分を納得させながら歩いていると「せんせーい!」とかわいい声がしてサラが手を振りながら走って来た。もう廊下や階段は決して走ってはならない(旧戒律第1条第1項)、校舎の中では大声を出してはいけない(旧戒律第7条第3項)などの規定がなくなったので、みんな元気いっぱいだ。
サラの後ろには彼女と仲良しの、マートン、ウッディ、ビンセントも居る。彼らは渚の周りに集まって来ると、嬉しそうに上着のポケットに入れた携帯を取り出した。
「先生、アドレス交換しよ」
「僕も」
「電話番号も教えて」
早速実家から携帯を送って貰ったらしい。彼らの両親にとってもいつでも子供の様子を知る事の出来る携帯電話の解禁はありがたい変化であった。
「よーし。じゃ、みんなに一斉に送るわよ。送信!」
「わっ、来た来た」
「これで何かあったらすぐ先生に連絡してね」
渚の言葉に元気よく「はーい!」と答えると彼等は再び駆け出して行った。
微笑みながらその姿を見送っていた渚は、ふと2階に至る階段の途中で自分をじっと見ているマリアンヌと目が合った。彼女はなぜか顔を伏せると、その階段を降りてきた。
「マリアンヌ。あなたもアドレス交換しない?」
渚が明るくいったが、マリアンヌはうつむいたまま答えた。
「私、携帯は持たないわ」
「でも・・・便利よ。何かあった時にはすぐに連絡が取れるし、メールだけじゃなくて今は色々な機能が・・・」
「私にはそんなもの必要ないわ!」
鋭く叫んだマリアンヌに渚はびっくりして言葉を失った。そんな友人をハッとしたように見ると、マリアンヌは再びうつむいた。
「私・・・どうしたらいいか分からないの。渚は外から来た人だからなんとも思わないでしょうけど、私は・・・私達はずっと戒律の中で何の変化もなく生きてきたの。昔はそれを煩わしいと思う時もあったけど、いざそれがなくなると、まるで今まで守ってくれていた物が全て消えてしまったようで・・・怖いの。この学園の全てが変わっていくのが怖くてたまらないの」
「マリアンヌ・・・」
渚は彼女の手を両手で握りしめた。
「大丈夫よ。確かに急激に変化しすぎて戸惑う事もあるかも知れないけど、そのうち慣れるわ。ネットや携帯は決して悪意を持って作られたものではないのよ」
マリアンヌはそれでも納得できない様に首を振った。
「私が言っているのは機械的な事だけじゃないの。人間よ」
「どういうこと?」
「子供達は確かに喜んでいるけど、本当に今までのあの子達で居られると思う?外の情報はあの子達に悪影響を及ぼさないと言える?それに・・・他にも・・・」
マリアンヌは少し言葉を止めて周りを見回した。目に見える範囲には誰も居なかったが、彼女は階段の踊り場の陰からじっと2人の様子を見ている人物がいる事には気付いて居なかった。
「私のクラスにこの一週間で2人も転校生があったの。他の学年にも、何人かの生徒が入学している。調べてみたら新しい校長が来てから全部で12人もの転入生がいたのよ。この時期には考えられない事だわ」
「12人は確かに多いけど、たまたま重なっただけではないの?」
「ナギサ。このミシェル・ウェールズは貴族とか領主とか呼ばれていた伝統と格式のある人々の子孫しか通えない学園よ。そんな身分の人達がこのイギリスにどれだけいると思う?ほんの一握りだわ。そのほんの一握りはすでにここに入学していた。今更新しく12人も増えるなんて考えられないわ」
「じゃあ、その12人の子供達は一体何なの?」
「分からない。だから不安なの。この学園が何か得体の知れない物に犯されていくようで、怖いのよ」
渚とマリアンヌの様子を窺っている人物はこの学校では見かけない女性だった。濃紺のスーツに少し派手目の白のブラウス。金色の髪を後ろにぎゅっと束ね、スーツと同じ紺色のオーバル型のメガネをしている。彼女は渚達に気付かれないよう、そっと階段を上がって行った。校長室の近くまで来ると、中から少し興奮した女性の声が聞こえて来た。シスター・エネスだ。
そろそろ何か言ってくるかと思ったが、どうやらそれが今日だったらしい。
「だから子供達に携帯電話など与えるべきではなかったのです。こんな事になるのではないかと思って居ましたわ!」
実は昨日2年の生徒が3人、夜中に寮を抜け出して実家に帰ってしまったというのだ。まだ7、8歳の子供が、ずっと親元を離れて暮らすのは辛いものだ。彼らは2年近くそうした生活を送っていたので、そろそろ寂しくなってくる頃だった。だが今までは厳しい戒律を恐れて、禁を犯す者はほとんど居なかった。しかし携帯で親と連絡が取れるようになって里心が付いたのだろう。3人とも今日になっても戻って来なかったのだ。
「このまま生徒達が戻って来なければ、どうなさるおつもりです。校長の責任問題ですよ!」
シスター・エネスは厳しい言葉で責め立てた。彼女にとっても近頃のミシェル・ウェールズの変化は耐えがたいものだったのだ。ダグレイは椅子を横に向けたままシスター・エネスの顔も見ずに答えた。
「帰って来ないのなら、退学にすれば良いでしょう」
「何ですって!?」
シスター・エネスは驚いて声を上げた。
「3人の内の一人は名門テネス・リード家のご子息なんですよ」
「家に帰って来ても、こちらに送り返すのが親の務めというもの。それをしないという事は退学になってもいいと親も思っているのです。であれば、例え相手が誰であろうと、それ相応の処分を取るべきではありませんか?」
ダグレイの冷たい瞳を見てシスター・エネスは思わず黙り込んだ。この男はミシェル・ウェールズをどうするつもりなのだろう。ゾッとするような空気に、さすがのシスター・エネスも声が震えた。
「でも・・・ミシェル・ウェールズを退学になったなんて知れれば、彼らの将来に傷が・・・」
「そんな事はこちらの知った事ではありません。名門だの家柄だのを出汁にして全てが許されると思ったら大きな間違いだ。そうですね、シスター・エネス。あなたも主任シスターだからといって何を言ってもいいと思って居るのなら、あなたもその愚かな3人の生徒と同じです。私の方針に従えないのなら、いつでもここを出て行って貰って結構。この学園には必要ない」
吐き捨てるような言葉に、シスター・エネスは口びるをぎゅっと噛みしめた後、黙って校長室を出て行った。
シスター・エネスと入れ替わるように校長室に入ってきたのは、先ほど渚達の様子を見ていた濃紺のスーツの女性だった。彼女は両手で軽く拍手をしつつ、「さすがですわね、理事長。いえ、今は校長先生とお呼びした方がいいかしら」と言ってダグレイに笑いかけた。
「何処にも行く当てのない人間は哀れなものだな、ミス・リゴレイ」
「アマンダで結構ですわよ。所で・・・」
彼女はシスター・ボールドウィンが良く腰掛けていた、大きな革張りのチェスターフィールドのソファーに座ると足を組んだ。
「シスター・エネスは今のでもう何も言って来なくなるでしょうが、先ほど下で気になる子達を見つけましたわ。シスター・マリアンヌと期間講師のミス・ナギサ・コーンウェル。期間講師などは契約を切ればそれまでですけど、シスターとなると協会を無視する訳にはいけませんし、、若い子はお年を召した方より色々面倒かも知れませんわねぇ。勘のいい子は特に・・・」
アマンダは左手の赤い爪を右手の指でゆっくりなでながら、渚とマリアンヌの顔を思い出すように言った。
「さすが前理事長の秘書だけはある。もうここのシスターと講師の名前や経歴などは頭に入っているようだな」
上司の褒め言葉にアマンダはニヤリと笑った。
「それが仕事ですから。それに私は前理事長の秘書ではなく、今はあなたの秘書ですのよ」
「そうだったな。ではアマンダ。シスター・マリアンヌの件は君が善処してくれたまえ。ああ、そうそう。プードリー・オルバインという小賢しい男が私に何でも協力すると言っていたが、良ければ使ってやるといい。あまり役に立つとは思えないが」
「かしこまりました」
アマンダはその爪と同じ赤い唇を歪めニヤリと笑うと、部屋を出て行った。




