2.新校長ダグレイ・バーキンス
『校長先生!』
小さくため息をついたシスター・ボールドウィンはダグレイが去るのを見計らうように入ってきた渚とマリアンヌの声に顔を上げた。2人とも真っ青な顔をして心配そうに自分を見つめている。それだけで彼女達がさっきのダグレイとのやりとりを聞いていた事が分かった。
「立ち聞きなどレディのする事ではありませんよ。ナギサ、マリアンヌ」
校長に諭されマリアンヌは思わずうつむいたが、渚は校長の机に詰め寄った。
「今のは本当なんですか?後1週間でここを出て行ってしまわれるのですか?」
「全く、あなたという子は・・・」
シスター・ボールドウィンは自分の注意も耳に入っていない渚にあきれてため息をついた。
「理事会でそう決定したのですから、それに従うまでです」
「でも・・・でも、そんな急に、あんまりです。校長先生はここを出てどうされるのですか?どこか行く所でもあるのですか?」
「そんな事はあなた方が気にする事ではありません。ナギサ、あなたの授業はもうとっくに終わっているはずですよ。すぐに家にお帰りなさい。シスター・マリアンヌ。聖歌隊の練習はどうしたのです?先ほどから声が途絶えたままですよ」
マリアンヌは聖歌隊の指揮をしている。さっきはほんの少し休憩にしようと言って教会を出ただけだったのだ。きっと生徒達も待ちくたびれているだろう。
「も、申し訳ありません、校長先生」
「さあ、2人共お行きなさい。あなた達にはあなた達のやるべき事があるはずですよ」
「で、でも・・・」
まだ反論しようとしている渚の手を引っ張って、マリアンヌは校長室を出て行った。無言で自分を引っ張って行くマリアンヌの背に渚は声を掛けた。
「待ってよ、マリアンヌ。このままでいいの?校長先生が・・・」
「ナギサ」
マリアンヌは渚の手を放して振り返り、両腕を掴むと顔を近づけた。
「校長先生はどんな事情があっても、私達にそれを聞かせるような事はなさらないわ。だから知りたいのなら自分達で調べなきゃならないの。あのダグレイ・バーキンスの事も。でも私はこのミシェル・ウェールズから出る事はほとんど出来ない。だから・・・」
じっと自分を見つめるマリアンヌの目を見つめ返して渚は頷いた。
「分かった。とりあえずダグレイ・バーキンスの事を調べてみる。あと一週間で理事会の決定が覆せなきゃ、校長先生は出て行ってしまうんだもの」
渚が家の玄関扉を開ける音に、ピョンは急いで食べていたおやつをソファーのクッションの下に隠した。夕食前におやつを食べると、太ると言っていつも怒られるのだ。だがどんなにうまく隠しても大抵渚には見つかってしまう。おやつの匂いは意外と部屋に残るのだ。カエルのピョンには良く分からなかったが、人間の、特に鼻の鋭い渚にはすぐに分かってしまうのだった。
それでもピョンはソファーの上で寝転がりながら「よー、お帰り、渚」と白々しく言った。そこで渚の目がキラリと光って「ピョンちゃん。又おやつ食べたでしょ」「食ってへんて」「隠しても無駄よ!」といつものやり取りが始まるのだが、今日の渚はなぜか青い顔をしてリビングの入り口に立っている。
「渚、どないしたんや。何かあったんか?」
「あのね、ピョンちゃん。あの・・・」
先ほどの出来事が喉元まで出かかったが、渚は言葉を止めた。いつも何か起こる度にこうやってピョンに頼ってしまう自分に気が付いたのだ。もしかしたらピョンはそんな渚が煩わしくなって、エルサという人の元へ行ってしまうのかも知れない。
渚の頭の中ではピョンはエルサと付き合っていて、いつか2人でどこかに住む計画を進めているという妄想が確実なビジョンと化して渦巻いていた。
「な、何でもないわ。着替えてお夕飯の準備するね」
そそくさと自室に去って行く渚を見つつ、ピョンは小さくため息をついた。
それから渚は何とかダグレイ・バーキンスの事を調べたが、渚に出来る事と言えば、インターネットでダグレイやハンプストン協会の事を調べるのが関の山だった。ピョンに頼めば渚など考えもつかない機動力でありとあらゆるデータを集めてくれるだろうが、どうしても渚にはピョンに頼る事が出来なかった。これ以上ピョンの負担になれば、彼があきれて出て行ってしまうかも知れないと思うと怖かったのだ。
そうしている内に、あっという間に一週間が過ぎた。結局シスター達の噂話から、ダグレイが4年前シスター・ボールドウィンとミシェル・ウェールズの校長の座を巡って対立し、選ばれたのは前任のチャールストン理事長の信頼の厚かったシスター・ボールドウィンだったという情報を得た位で、理事会の決定を覆せるような材料は何も見つからなかった。
8日目の朝、今日から新しい校長がやって来るという噂はすでにミシェル・ウェールズ中に広がっていて、皆は礼拝堂で朝礼でもあり、旧校長から新校長へ引き継ぎの挨拶があるだろうと思っていた。シスター・ボールドウィンが去ってしまうのを悲しむシスター達は、門まで校長を見送ろうとシスタールームで話し合っている。そこへマリアンヌが「ナギサ、大変よ!」と叫んで入ってきた。
「今、校長先生のお部屋に行ったら、もう何も、何もなくて・・・校長先生もいらっしゃらないの!」
渚とマリアンヌ、そしてそこに居たシスター達は皆急いでシスター・ルームを駆け出して行った。後に残ったシスター・エネスもいつものように「廊下を走るなんてはしたない!」と声を荒げる事さえ出来ずに副主任のシスター・モーリスと共にじっとその場に立ち尽くしていた。
校長室に入った渚の目には思わず涙があふれていた。さっきマリアンヌが言ったように、そこにはいつもあった本や書きかけの書類、シスター・ボールドウィンの愛用のペンも何一つ残っていなかった。彼女は誰一人別れを告げる事もなく行ってしまったのだ。自分の思い出も何も残さずに・・・。
「校長先生。お見送りもさせて頂けなかった・・・」
そう言ってシスター・リリーが泣き始めると、他のシスター達も床に膝をついてすすり泣き始めた。渚はぎゅっと手を握りしめ、埃一つ残っていない校長の机を見つめていた。
初めて会った時は冷たくて、怖い人だと思った。でもだんだんその厳しさの中に私たちへの愛情がある事に気が付いた。その凜とした背中を見る度に、こんな人が自分のお婆さまだったらどれだけ誇れるだろうと思った。
こんな形であの人をこの学園から追い出すなんて納得できない。渚はぎゅっと唇を噛みしめた。
それから一時間もしないうちに新校長としてダグレイ・バーキンスがミシェル・ウェールズにやって来た。彼も礼拝堂に生徒を集める事はせず、シスター・ルームに全てのシスターと渚の様な講師を集めて挨拶を始めた。
「初めましてミシェル・ウェールズの皆さん。本日よりこの学園の校長に就任したダグレイ・バーキンスです」
通例の挨拶を述べた後、彼は以前シスター・ボールドウィンの前で見せたのと同じ勝ち誇ったような瞳で自分を見つめるシスターや講師達を見た。
「私がハンプストン協会の理事長のみならず、この学園の校長まで兼任するのは異例の事ではありますが、私はこのミシェル・ウェールズの立て直しをする為に参ったのです」
ー え? ー
うつむいていた渚は驚いたように顔を上げた。立て直しをしなければならないほど、この学園は傾いていたのだろうか。
「ミシェル・ウェールズは確かに伝統と格式を重んじる素晴らしい学園です。ですが・・・」
そこまで言った後、ダグレイの顔から急に笑顔が消えた。
「子供の自由な発想を妨げる中世さながらの戒律。このグローバルな時代にインターネットさえない環境。これからこの国の未来を背負っていくべき子供達にとってここはあまりにも古典的すぎる。私はこのミシェル・ウェールズを変える。下らない階級意識に縛られ、古びた伝統を誇示するこの学園を英国でもトップクラスの進化した学園へと変貌させる。それがこの学園の校長に私が就任した意味であると思っている」
新しい校長の言葉を聞きながら、渚は胸の動悸が収まらなかった。彼の言っている事は正に自分がこの学園に来た頃、ずっと思っていた事だったからだ。
このミシェル・ウェールズの古い体質を変える為に彼が協会から派遣されて来たのだとしたら、それは正しい事なのかも知れない。それでも突然居場所を追われたシスター・ボールドウィンの事を考えると、素直に新しい校長の事も認められず、心が葛藤していた。
そしてそれはダグレイが古典的と称した古い体制の中でずっと生きてきたシスター・エネスやシスター・モーリスにとっては更に耐えられない変革だった。新校長の言葉のあと、いつもはおとなしいシスター・モーリスがたまらず叫んだ。
「あなたはミシェル・ウェールズの伝統を侮辱し、この塵埃(汚れたこの世、俗世間)と同じように醜く歪めるおつもりですか!そんな事を本当に協会が認めたのですか?こんな事、神様がお許しになるはずありません!」
「あなた方は神の名を騙って、子供達を戒律という牢獄の中に閉じ込めているに他ならない!!」
ダグレイの太く厳しい声がシスター・ルーム中に響き渡った。それだけで何人かの若いシスター達が泣き出した。それほどダグレイの声は全てを威圧するような重々しさがあった。
「もちろんこれはハンプストン協会の意志です。何しろこの私が協会の理事長なのですからね」
それだけ言うと、ダグレイはシスター・ルームを後にした。最後の言葉は自分に逆らう者はここには必要ないという意味だろうと誰もが悟った。シスター・ルームが騒然となる中、プードリー・オルバインだけはニヤリとほくそ笑むと、後ろのドアからそっと出てダグレイの後を追った。そして廊下を歩く彼に追いつくと、まるで媚びるように話しかけた。
「いやいや、校長の深遠なお考え。このプードリー・オルバイン、感服いたしました。実は私も以前からこの学園の古びた体質には辟易しておりましてな。是非私に校長のお仕事を手伝わせて頂きたい。なあに、古株のシスターはほんの2、3人。何を言ってきても取り合わなければいいだけですよ」
ダグレイはチラリとオルバインを見ると、立ち止まった。
「あなたのような方がこのミシェル・ウェールズにおられると、実に心強いですよ」
そう言って立ち去っていくダグレイの背中を見ながら、オルバインはこの素晴らしいチャンスに胸が躍った。シスター・ボールドウィンは渚がお気に入りだったので、いくら彼女の行動が怪しいと訴えても相手にしてもらえなかったが、新しい校長を味方に付ければあの魔女を簡単に追い出せそうだ。見ているがいい。必ずあの音楽室での屈辱を晴らしてやる。
「そうだ。絶対に追い出してやるぞ。あの魔女め・・・!」




