9.エンジェル・スノーを見る度に
プラトスとエルサが国へ帰るのをアルティメデスが知ったのは、その次の日だった。そして彼らはその3日後には旅立つ事になっていた。エルサがこの国を出て行ってしまうと知ったアルティメデスは無性に腹が立った。なぜ昨日2人きりで話した時、その話を自分にしなかったのかと思うと無性に悔しい気持ちになる。それでエルサを呼び出して問い詰めてやろうかとも思ったが、向こうが何も言ってこないのに、自分の方からその理由を話せというのも何だか癪だった。たった一人の女の為にこんなに苛立っているなんて、人に知られるのは彼のプライドが許さなかったのだ。
一方旅立ちの準備に追われているエルサもその事を考えないわけではなかった。だがどうしても言えなかったのだ。泣かずに言える自信がなかった。そして彼の前では涙を見せたくなかった。
やっぱり何も告げないで行こう。どうせ彼は私の名などすぐに忘れてしまうのだから・・・。
そしてあっという間にその日はやって来た。旅立ちの朝、プラトスとエルサは初めてここへ来た日と同じように謁見の間で皇帝に頭を下げた。今日はその左隣に皇后カターニャも座っていたが、反対側の皇子の席は空席のままだった。
その誰も座っていない席を見てエルサは思った。やっぱり怒っているんだわ。当然よね。友達になると言ったのに、そして彼は私を親友の様に扱ってくれたのに、黙って去って行くなんて、ひどい女だと思われても仕方の無い事だわ。
プラトスが今までの礼を述べると、サンティアヌスは初めて会った時よりずっと優しげに微笑んで言った。
「プラトスよ。余はそなたを友だと思うておる。何かあった時には必ず知らせよ。よいな」
「身に余るお言葉です。陛下と過ごしたこの一ヶ月は私にとって最高の時間でした。どうかお体に気を付けてお過ごし下さいませ」
震える声で答えると、プラトスは深く深く頭を下げた。
「あなたも長旅お気を付けて。エルサ、お父様を大切にね」
カターニャの言葉に見送られ、親子は宮殿を出た。巨大な正門は下位の者は通れないので、東側にある下男達が出入りする門に向かった。ここを出ればもう二度と戻る事はないだろう。そう思いながら父の後を付いてその門を出ようとした時、何か白い物がふわふわと頭の上から落ちてきた。ふと広げた手の平に乗っていたのは、一枚の真っ白い羽だった。その時エルサの目の前にこの一ヶ月間のアルティメデスとの思い出が一気にあふれ出してきた。
憎たらしい顔も少年の様にわがままを言う顔も、寂しそうな横顔も必死に戦う姿も、そして何より彼の笑顔が、いつの間にか一番大切なものになってしまった。
「どうかしたのか?エルサ」
急に立ち止まった娘をプラトスが振り返った。
「先に行ってて、お父様。すぐ追いつくから!」
叫びながら宮殿へ戻っていく娘を少し寂しそうに微笑んで見ると、プラトスはそのまま門を出て行った。
宮殿に戻るとエルサはアルティメデスがいそうな場所を探し回った。だがいつも剣の練習をしている円形場にも4日前話をした宮殿の高台にも彼は居なかった。
あちこち探し回ってエルサはハッと気が付いた。
ー もしかしたら・・・。だって、あの人はそういう性格だもの ー
エルサはもう一度さっき皇帝と謁見した長い階段のある広間を目指した。広間の入り口に立っていたゼルダとゴードがエルサが戻って来たのを見て少し安心したような顔をした後、中に入るよう手を差し出した。大きな柱の間を通り抜けると、広間の奥の高い階段上にある、さっきまで空席だった皇子の席にアルティメデスは座っていた。エルサがゆっくり歩いて近づいて来るのをアルティメデスはまるで皇帝のように座ったままじっと見ていた。階段の下まで来ると、エルサはドレスの裾を持ち上げて軽く会釈をし、アルティメデスを見上げた。
「アルティメデス様。長のお暇を申し上げに参りました。私は国へ帰ります」
アルティメデスは「そうか・・・」と言ったきり黙り込んだ。
「アルティメデス様と過ごしたこの一ヶ月は、私にとってきっと忘れられない思い出になります。本当に楽しかった。ありがとうございました」
アルティメデスはじっとエルサの顔を見た後、目をそらした。本当は行くなと言いたかった。お前となら本当の友達になれそうな気がしていたのに・・・。だがそんな本音を言っても行くなと命じても、お前は行ってしまうだろう。そういう女だ。
「俺も楽しかった。お前のような生意気でいつも本音で物を言ってくるような人間は俺の周りには居なかったからな。達者で暮らすが良い。北は寒いからな」
「はい。アルティメデス様もどうかお元気で」
エルサは小さく頭を下げると、彼に背中を向けた。その時アルティメデスの胸の奥に今まで感じた事のない、虚しいような寂しいような痛みが通り抜けた。それが何なのか、まだ本当の恋もした事のないアルティメデスには理解できなかった。
少し歩いた時、エルサはふと立ち止まって振り返った。
「そうだ。あの時の言葉、取り消します」
アルティメデスには何の事か分からなかった。
「初めて会った時、言ったでしょう?“いつか天罰を受けるがいいわ”って。あれ、取り消します。幸せになって下さい、アルティメデス様。世界で一番の、幸せ者になって下さい」
「当たり前だ。俺は皇帝になるんだぞ。世界で一番の幸せ者だ。ついでに世界で一番イイ男にもなってやる」
少し涙のにじんだ目でアルティメデスに笑顔を向けると、エルサは片手を上に挙げ、握っていた手を開いた。するとそこから真っ白な羽が舞い上がり、それはふわふわと空を舞いながらアルティメデスの方に流れてきた。それは“エンジェル・スノーを見る度に、あなたの事を思い出します”というエルサからのメッセージだったのかも知れない。そしてその羽がアルティメデスの足下に落ちる頃には、すでにエルサの姿は広間から消えていた。
それから2年後、魔女の呪いによって俺がカエルに変えられたという事など、きっとエルサは知りもしなかっただろう。アルセナーダがプロポネス山の噴火と地震によって滅びるまでの10年間も、彼ら親子がアルセナーダに戻って来たという噂は聞かなかったので、きっと無事に故郷のギルネアで暮らしていたのではないだろうか。
いや、そうであって欲しい。せめて俺の知る人々の中で、ただ一人でもあの不幸を逃れられていたら・・・。
急に差し込んできた朝の光にピョンは目を覚ました。どうやら昔の夢を見ていたようだ。ピョンはまだぼうっとした頭で考えた。そう言えばエルサは何となく渚に似ている。父親が学者だし、なんと言ってもあの思い込んだら突っ走る性格はそのものだ。
もしかしたら渚はエルサの生まれ変わりではないか等と考えていたピョンは、目の前に渚の顔があったので、びっくりして急に頭がはっきりした。渚はベッドから出て腰をかがめながらじっと自分をのぞき込んでいる。そう言えば昨日渚と話し込んでいて、そのまま彼女の枕元で寝てしまったのだ。さっき朝日が差し込んできたのは渚がカーテンを開けたからだった。
「や、な、渚。お早う・・・」
何となく渚の顔が怒っているように見えたので、ピョンはドギマギしながら朝の挨拶をした。
「お早う、ピョンちゃん。所で・・・エルサってだあれ?」
「は?」
思わずピョンは渚から目をそらして考えた。
な、なんで渚がエルサの事を知ってんねん。いや、それよりこの辺りに漂うピリピリとした空気はなんや。渚は笑ってるけど、どう見ても目は笑ってへんし・・・。
ピョンが目をそらしたまま黙っているので、渚はやっぱり何かやましい事があるんだわと思った。
「ねえ、ピョンちゃん。エルサって誰なの?」
「な、何の事や?ワイにはさっぱり・・・」
「あら。寝言で散々言ってたのに?“エルサ、行くな。エルサァァッ!”って。ね。一体誰のこと?」
「う・・・」
まさか2,500年も昔の事を夢に見ていたとも言えず、ピョンは言葉に詰まった。それを見た渚は急にムッとした顔をして背中を向けた。
「ピョンちゃん、今日は朝食抜き!」
「へえ?な、なんでや」
「知りません!」
渚は頬を膨らませたまま肩を怒らせながら部屋を出て行ってしまった。
「な・・・なんで?」
ピョンは一人呆然と呟いた。なんで寝言で女の名前言うたくらいで朝食抜きやねん。なんでやねん・・・。
2,500年経っても女心の分からないピョンであった。




