8.別れの予感
それからアルティメデスは驚異的な快復力を見せ、ゼルダとゴードが止めるのも聞かず、再び剣の練習をやっている。だが皆完全にアルティメデスの身体が治っているとは思っていないので、どんなにアルティメデスが命令しても剣の練習相手は辞退されていた。
ある日エルサが円形場を通りかかるとアルティメデスの大声が響いてきた。
「一体いつまで一人で稽古させるんだ。ゼルダ、ゴード。いい加減剣の練習に付き合え!」
「申し訳ありません、皇子。わたくし、朝から腹を下して居りまして・・・。うっ、又トイレに行きたくなってきた」
ゼルダは腹を押さえ首を振った。
「拙者も昨日から頭痛が・・・はあぁっ」
ゴードもわざとらしく頭を抱えている。アルティメデスは嘘をつけと言わんばかりに鼻を膨らませた。
「じゃあプロディヌスを呼んでこい。あいつと再試合だ」
「プロディヌスはまだお側に仕える事は出来ません。まずは下級兵から。それが決まりです」
思い切り不満そうな顔をしているアルティメデスを見て、エルサはくすくす笑うとその場を離れた。しばらく廊下を歩いて行くと、向こうからたくさんの洗濯物を抱えた少年がやって来るのが見えた。
「プロディヌス!」
声を掛けると彼は大げさに驚き、洗濯物を放り投げ地面にへばりつくようにひざまずいた。
「これは・・・奥方様!」
「へ?奥方様?」
びっくりしてエルサは頭を床にこすりつけるようにしているプロディヌスの側に駆け寄った。
「ちょっと、頭を上げて、プロディヌス。私はアルティメデス様とは何の関係もないわよ。ましてや奥方なんて」
「え、でも・・・」
プロディヌスは自分の前に立ち塞がった時のエルサを思い出した。美しいドレスを着ていなかったとしても、その堂々とした態度にプロディヌスは一瞬圧倒されたのだ。エルサはにっこり微笑むと、プロディヌスの両手を持って立たせた。
「プロディヌス。あなたはもう奴隷ではないのだから、そんな風に平伏しなくていいのよ。私はただの学者の娘なんだから。それより・・・」
エルサはプロディヌスの身体に新しいアザがいくつか出来ているのに気が付いた。こんな殴られたようなアザはサタドールの時にはなかったはずだ。
「もしかして元奴隷だからってみんなにいじめられているの?この洗濯物だって・・・」
「殴られるのには慣れてますから。それに洗濯は新入りの仕事ですし。あっ、でもゼルダ様とゴード様が今度俺を殴ったらアルティメデス様に言いつけるって言って下さって、それからは大分ましになりました」
傷だらけの顔でにっこり笑うプロディヌスをエルサは同情深く見つめた。
「そう、頑張ってね。あなたは自分の運命を己の力で変えたんだもの。これからだってきっと変えていけるわ。アルティメデス様もあなたと練習できる日を楽しみにしているのよ」
「皇太子殿下にはどんなに感謝してもしきれません。あの方は本当にご自分の手であの薄汚れた足かせを外して下さったんです。いや、足かせだけじゃない。俺の人生そのものを解き放ってくれた。俺はあの時決めたんです。俺の命はこの方の物。命がけでアルティメデス様を守っていくんだって・・・」
本当にどうしようもないわがまま皇子様だけど、こうやって命をかけても守りたいと思う人も居る。やはりアルティメデスは生まれながらの皇子なのだ。今はあんな風でも、いつか全ての人々が彼を求める日が来るだろう。皇帝として・・・・。
そう考えるとアルティメデスがとても遠い人に思えて、ふとエルサは寂しくなった。
「エルサ!」
遠くから響いてきた声に顔を上げると一人の女が走ってやって来る。いつも洗濯場で話をする下女の一人だった。
「こんな所に居たの。お父様が探しておられたわよ。何だか急ぎの用があるって」
何だろうと思いつつ、プロディヌスとその下女に手を振って別れた後、急いで別棟に戻った。ドアの向こうでは父が難しい顔をして手紙を読んでいた。
エルサが戻って来た事に気付いたプラトスは、手紙が故郷のギルネア国に居る父の学者仲間、ケンプドールから届いた事を告げた。手紙にはエルサ達がギルネアを立った後ギルネアの中心部に地震が起き、多くの人が犠牲になった事が書かれていた。
地震から一ヶ月ほど経ったが、今でも復興の目処が立たず、生き残った人々も多くが家を失い途方に暮れているという。手紙にはあえてプラトスに帰ってきて欲しいとは書かれていなかったが、ケンプドールがどんな思いでこの手紙を従者に託したのか、プラトスには痛いほど分かる気がした。
手紙の内容を話した後、じっと黙り込んでしまった父の気持ちがエルサにはもう分かっていた。故郷の人々が苦難をしのいでいるのを知って、自分だけのうのうとここで満ち足りた生活をしていられる人ではない。エルサはそれをどう娘に言うべきか迷っている父の肩に手を置いた。
「お父様、帰りましょう。ギルネアは私たちの故郷ですもの。きっと皇帝陛下もお許しになって下さるわ」
「しかし・・・向こうはまともに食料が調達できるかどうかも分からないし、お前だけでもここに・・・」
「お父様が居ないのに、私だけお世話になるなんて出来ないわ。それにお父様だって私が居ないと困るでしょ?私たちはいつも一緒よ。そうでしょう?」
プラトスは娘の気持ちに感謝しつつ、彼女の手の上に自分の手を重ねた。
「ありがとう、エルサ・・・」
次の日、プラトスは皇帝に謁見を申し出、暇を願い出た。サンティアヌスは非常に残念がったが、プラトスの故郷の苦難を見過ごしてはおけないという気持ちが分かり、旅立ちを許した。
「復興には多大な時間がかかるであろうが、いつか又ここへ戻って来て欲しいと余は願う。身体に気を付けて行くが良い、プラトス」
皇帝の優しい言葉にプラトスは涙ながらに頭を下げた。
皇宮の廊下をエルサはとぼとぼと歩いていた。今頃父は皇帝と帰郷の話をしているだろう。サンティアヌスは器の大きな人だ。きっと父の気持ちを汲んで、国へ帰る事を許してくれるだろう。
ギルネアがどんな状況にあろうと、自分たち親子が少しでも役に立てるのなら帰る事に異存はなかった。ただ一つの心残りを除いては・・・・。
小さくため息をついた時「エルサ!」と明るく呼ぶ声がした。ドキッとして振り向く間もなく、後ろから走ってきたアルティメデスは彼女の手を掴んで走り出した。
「あ、アルティメデス様?どちらへ?」
「いいから黙って付いて来い!」
まるでこの温かい国に優しく吹き抜ける南風の様に駆け抜けていくアルティメデスの背中を追いながら、エルサは彼の手の温かさに胸を締め付けられた。
初めて握った手は氷のように冷たかった。そして今は懐かしいほど温かく感じられる。
石畳の廊下を走り抜け、長い階段を上り切ると、以前アルティメデスと2人で話をした宮殿で一番の高台にやって来ていた。
「よし。ここまで来ればゼルダとゴードも分からんだろう。あいつらと来たら、やれまだ走るなだの、剣の練習をする位ならもっと勉強しろと、最近やたらとうるさいんだ」
息を切らしているエルサの顔をのぞき込むと、アルティメデスは笑いながら言った。
「それは、お父上との約束を破ってサタドールに出たからではないのですか?」
やっと一息ついたようにエルサが言った。
「まあ・・・な。あの後大変だったんだ。父上には大目玉を食らうし、母上には泣かれるしで・・・。まあ、そんな事はいい。で、どうだった?」
「は?」
「俺の試合だ。しっかり観覧席から見ていたんだろ?どうだ。少しは見直したか」
「・・・え・・・」
まさか、この人はそんなつまらない理由であんな命がけの剣闘大会に出たのだろうか。いや、この人の事だ。とにかく自分の力を見せつけたい、それが一番の理由だろう。そんな事を思いながらアルティメデスを見上げると、彼はプロディヌスに負けた事などすっかり忘れて自分の武勇伝を騙っている。
「まあ、なんと言っても一番の見所は俺の剣さばきの見事さだな。あの1試合目の・・・なんと言ったかな。そう、エクドーバとの試合など、一瞬で決まっただろ?それから2試合目の・・・」
偉そうに上を向いて自慢するアルティメデスを見つめていると、エルサは次第に胸が締め付けられるように苦しくなってきた。もうすぐ私はこの国から出て行く。もうこの方の笑顔を見る事も今日のようにその手に触れる事も出来なくなる。「エルサ」と優しく呼ぶその声も、もう聞く事はないのだ。そう思うと涙があふれてきた。
最初は大嫌いな人だと思った。偉そうで我が儘でまるっきり少年で・・・。なのにどうしてこんなにも離れるのが辛いんだろう。
「・・・で、俺の剣があの筋肉自慢の奴の腹を・・・エルサ?」
エルサが泣いているのに気付いて、アルティメデスは驚いたように彼女の顔をのぞき込んだ。
「どうしたんだ。どこか痛いのか?」
エルサは涙を拭き取ると、一生懸命笑顔を作った。
「ちょっとゴミが目に入っただけです。ここは風が強いですから」
そう言った後、エルサはアルティメデスの顔を見上げた。きっともうこんな近くでこの方の顔を見つめる事はないだろう。
それでいいのだ。どんなに側に居たって、決して思いを打ち明けられない人なのだから。この方が大人になって、どんどん遠くなっていくのをただ見ているだけなんて辛すぎるから・・・。
「そうですね。サタドールではアルティメデス様をちょっと見直しました。ほんの少し男らしかったと思います」
「お前、“ちょっと”とか“ほんの少し”とか、本当は全然そんなこと思ってないんだろう!」
げんこつを振り上げて怒るアルティメデスにエルサは笑い返した。
「思ってますよ。サタドールでのアルティメデス様は本当に凄かったわ。とっても格好よかったです。きっと国中の女の子がアルティメデス様に憧れたんじゃないかしら」
「フフン。それはそうだろう」
アルティメデスがいつものように自慢げに笑うのを微笑んで見た後、エルサはバルコニーの手摺りに手を掛け、遠くかすむ北の空を見上げた。
「私の国ではもうそろそろ初雪が降る頃です」
「雪?そうか。ギルネアは北の国だからな。俺は一度だけ北方遠征をしたが、その頃は真夏だったので雪を見る事はなかった。結局生まれてから一度も雪を見た事はない」
「そうですか・・・」
そう答えた後、エルサは隣にいて同じようにかすむ空を見上げるアルティメデスを見つめた。
「ギルネアの初雪はとても大きな雪がふわふわと舞い落ちてきて、それは手の上ですうっと溶けてしまうんです。積もらない雪なんですよ。辺りを覆うようにふわふわと、まるで天使の羽の様に舞い落ちてくるので、私達はそれを“エンジェル・スノー”と呼んでいます」
「へえっ、ギルネア人は随分とロマンチストなんだな」
そう言った後、少し間を置いてアルティメデスはエルサに言った。
「よし、決めた。いつか俺はそのエンジェル・スノーを見に行く。その時はお前が案内しろ」
「私が・・・?嫌です」
「何だと?この俺の命令を断る気か?」
エルサはクスクス笑いながら宮殿への入り口へ向かいつつ、アルティメデスを振り返った。
「だって、そんな事をしたらアルセナーダ中の女の子に睨まれちゃいますもの」
そのまま宮殿の中に入って帰って行くエルサの背を見送りながら、アルティメデスは苦笑いをしつつ呟いた。
「フン。食えない女だ」




