5.サタドール《1》
一週間後、サタドールがカルタナの中心街にある円形闘技場で開催された。階段状になった石造りの観客席は全て人で埋め尽くされ、屋根がないというのに異常なほどの熱気が場内を埋め尽くしている。皇帝の観覧席まで臣下に案内されてきたエルサは、中央の大きな背もたれのついた椅子に座るサンティアヌスに会釈をした後、その隣の席に誰も居ない事に気が付いた。
「あの、陛下。アルティメデス様はどうなさったのですか?」
息子皇子の事を尋ねられ、サンティアヌスは憮然として答えた。
「あのバカ息子は朝から姿が見えぬらしい。全く何を考えておるのやら。その内参るであろう。さあプラトス。わしの横に座るがよい。今日は共に楽しもうぞ」
「は、はい・・・」
研究に人生を費やしてきたプラトスにとっても剣闘大会を見るのは初めての経験だ。おまけに一日中皇帝の隣に座っているのは生真面目なプラトスにとってとても緊張するものだった。プラトスは自分の為に用意された服(こちらは1着だけだった)を汚さないよう気を遣いながらサンティアヌスの隣に座った。
サタドールは貴族、市民、奴隷の順で行われる。参加者が一番多いのは一般市民だが、一番盛り上がるのは奴隷の試合だ。日頃から貴族や豪商にひどい扱いを受けている彼等にとって、この戦いに勝って得られる自由は命と同じほど重いものだ。だから皆命がけで戦いに望む。それ故観客達の興奮も最高潮になるのだ。
貴族の試合が始まると皇帝の給仕達が大きな皿に盛られた食事やフルーツそしてワインを運んできた。今日はこうして一日中酒や食事を楽しみながらの観覧になるようだ。もちろんそんな待遇は皇帝と招待されているプラトス親子だけだったが。
出場する貴族達は皆皇帝の居る観覧席に向かって一礼をしてから試合を始める。最初は興味のなかったエルサも、剣と剣がぶつかり合った時に響き渡る金属音にドキドキしたり、試合が進むにつれ誰が優勝するのかハラハラしたりと、だんだん面白くなってきた。プラトスもサンティアヌスとワインを飲みながら試合について熱く語り合っている。
やがて貴族の優勝者が決まり、次に市民の試合が始まった。貴族と違って市民の出場者は力自慢の者が多く、皆体格が良かった。観客も市民がほとんどなので、とても盛り上がっている。特に自分の知り合いが出場した時は皆立ち上がってその選手の名を呼びながら応援した。
市民の優勝者が決まると、エルサは少し疲れたようにため息をついた。他の観客のように立ち上がったりする事も出来ず、じっと座ったままで居るのは疲れるものだ。オレンジの果実を搾ったジュースを飲みながら、エルサは皇帝の向こうにある空席をちらっと見た。人を呼びつけておいて自分はドタキャンするなんて、ホントにあまのじゃくな皇子様なんだから。少ししかめっ面をした後、競技場に目を戻すと、丁度奴隷の試合が始まる所だった。
奴隷の出場者はわずか10名ほどしかいない。もし優勝したら優秀な奴隷を手放さなければならない為、主が出場を許可しない場合が多いからだ。反対にもし負ければその家の恥にも成りかねないので、奴隷同士の試合は常に命がけになる。負けて瀕死の重傷を負っても誰も奴隷を引き取って面倒を見る者など居ないので、その奴隷の主人が助けを出さなければ、そのまま野垂れ死んでしまう事も度々あった。
奴隷は皆両足首に鉄の足かせを付けられていて、それは試合中も外される事はない。足かせには重りを付ける為の鎖がある。もちろん買われた段階で重りは外されるが、主人によっては逃亡を防ぐため鎖をそのまま残している事もあり、歩く度に鎖を引きずる重い音がするのだ。
土をこするジャラジャラという音を響かせながら、西と東にある入り口から試合をする二人の奴隷が現れた。どちらも薄汚れた身体と服だったが、特に西側に居る男は頭から灰をかぶったように髪も顔も真っ黒だった。背は高いがとてもこんな戦いに出るような体格ではなく、細い腕に似合わない大きな剣を握っていた。
反対に東側の男は西側の男の2倍以上の巨漢で、見比べるとまるで西側の選手が子供のように見える。誰もがこれは最初から勝負あったなと思っている内に、真ん中に立ったレフリーの男が両選手を紹介し始めた。
「東の奴隷はマリノバ家の奴隷、エクドーバ!去年の大会では2人の奴隷を殺した強者だ。西の奴隷は初出場の奴隷アルタス!」
そこまで聞いたエルサは“え?”と心の中で叫びながら闘技場に立つ少年を見つめた。アルタスというのはいつも街で遊ぶ時、アルティメデスが使う仮の名だ。目をこらしてよく見ると、まさにそれが彼なのだとエルサには分かった。灰の間から垣間見える黄金の髪。目立つピアスは外していたが、その整った顔立ちもそのままだ。何より自分より2倍もある恐ろしい大男を前にしても胸をそらして不適に薄ら笑いを浮かべるそれは、アルティメデスそのものだった。
エルサはどうしたら良いか分からず、父の向こう側に居るサンティアヌスを見た。だが皇帝はまさか自分の息子が奴隷の姿をしてそこに立っているとは思いも寄らないのだろう。ワインを飲みながらにこやかにプラトスと話をしている。
どうしよう。このままではアルティメデスが殺されてしまうかもしれない。だがもし皇帝に言って試合を中断したら、アルティメデスはきっと一生私を許さないだろう。
ー どうしたらいいの? ー
エルサが迷っている間に試合が始まってしまった。エクドーバが猛然とアルティメデスに襲いかかる。アルティメデスは最初の一撃を軽く交わすと、身を踊らせ両手で握りしめた剣を思い切り振り下ろした。勝負はその一瞬で決まった。
エクドーバの肩から血が噴き出し、彼の大きな身体はゆっくりと前へ倒れた。観客が皆総立ちになって歓声を送る中、担架を持ってマリノバ家の下男が2人、倒れたエクドーバを運んでいった。
良かった・・・。エルサは大きくため息をついた。だがまだ試合は終わったわけではないのだ。後4組試合が終わった後、もう一度一人を残して4人が2組に分かれて競う。そして最後3人になった段階でその3人が同時に戦い合うのだ。
エルサはハラハラしながら考えた。もし不戦勝の一人にアルティメデスが選ばれたら、後一回戦うだけで済む。だが最後は強い者ばかりが残っているので、殺される確率も高くなる。だったら2回戦で負けた方が良いのでは・・・。でもどちらにせよ相手は命を奪うつもりでかかって来るのだから負ける=死かも知れない。殺されない為には勝つしかないのだ。
エルサは歯を噛みしめ頭を抱えた。もう、どうしてあの人は・・・。せめて奴隷じゃなく、貴族の試合に出ていれば、殺される事はなかったのに・・・。自分の本当の力を確かめたい。そんな事の為にどうして命をかけなきゃならないの。
エルサが顔を上げると丁度ゼファールとウラドスという奴隷の試合が終わった所だった。ウラドスに敗れたゼファールは胸を一突きにされ、もはや虫の息だった。
ー ああっ・・・! ー
エルサは見ていられなくなって両手で顔を覆った。そんな娘の様子を心配したのか、プラトスが小声で声を駆けた。
「大丈夫かい?エルサ。もし辛いのなら皇帝に申し上げて退席させて貰うが・・・」
「いいえ」
エルサはぎゅっと手を握りしめて闘技場へ目を戻した。
「私は見ていなきゃならないの。そういう約束だから」
プラトスは娘の返答に訳が分からないような顔をしたが、気分が悪くなったら言うようにと告げ、再び皇帝の方を向いた。




