2.皇子と風速計
サンティアヌスは驚いた顔でアルティメデスを見つめた。
「お前が出れば不戦勝にしかならぬぞ。誰も皇子のお前に剣をあびせる者などおらぬだろう」
「そんな事は関係ありません。試合は試合。皆、死力を尽くして戦い合うのです。そこにあるのは男としての誇りのみ。身分など何の役にも立ちません」
アルティメデスは熱く語ったが、サンティアヌスは話にならないという風に首を振った。
「そう思っているのはお前だけだ。皇位継承者がたかが剣の試合で命を落としたらどうする。母上を泣かせるつもりか?」
アルティメデスはじっと無表情に父を見た後、素直に「分かりました」と頭を下げ背中を向けた。資料で顔を隠していたエルサがほっとしてため息をついた時、立ち去ろうとしていたアルティメデスがふと思い出したように振り返った。
「そうそう。その娘ごもサタドールに出てみたらどうかな?何しろそなたのパンチは必殺だからな」
サンティアヌスとプラトスは訳が分からない顔をしたが、エルサは大声で笑いながら去って行くアルティメデスを見て恥ずかしさで顔中真っ赤だった。やはりアルタスの正体はあの皇子だったのだ。何て事をしてしまったのだろう。皇子の頬をたかが学者の娘がひっぱたくなんて。
サンティアヌスはプラトスの事が気に入ったのか、宮殿に滞在してこれからも天文学を教えて欲しいと言った。これで衣食住の心配がなくなり、娘の負担も軽減するだろうとプラトスは喜んだが、エルサは今すぐにでもこの王宮から消え去りたい気分だった。ここにいれば確実に又アルティメデスと会うだろう。エルサはそれが恐ろしくてたまらなかった。今度会ったらあんな嫌味を言うくらいでは済まないだろう。もしかしたら皇帝に告げ口されて首をはねよ、なんて事になるかも・・・。
「でも・・・」
エルサ達は王宮の中に建つ別棟を与えられ、そこは親子二人で暮らすには十分な広さがあった。建物は二階建てで、1階には小さなキッチンとダイニング、そして父の部屋兼研究室がある。2階はエルサの部屋で小さなバルコニーも付いていた。
そこから星空を見上げ、ふとエルサは思い出した。あの時だって供の者が剣を引き抜こうとしていたのを彼が止めてくれたように思う。あの2人が皇子の従者なら、その場で無礼打ちにされていたっておかしくなかった。女心をもてあそぶ人でなしだと思っていたが、もしかするとそんなに酷い人ではないのかもしれない。でも今日のあの様子では怒っているのは間違いないだろうな。エルサは頭を抱えると大きくため息をついた。
忙しいサンティアヌス皇帝の時間がやっと空いたというので、プラトスは昨日通されたサロンまでやって来た。今日皇帝に見せる資料を広げていると、いつものように衛兵に囲まれてサンティアヌスがやって来た。彼はプラトスを見ると親しげな笑顔を浮かべ、昨日と同じ籐製のソファーに腰掛けた。
「今日は娘ごの姿が見えぬな」
プラトスが一人だったので、サンティアヌスが尋ねた。
「はい。この王宮は高台にございますので、風力を計測したいと言って出かけております」
「ほう、風力?そんなものを測ってどうするのだ」
「風の力を知る事はとても大切です。この国にはあまり竜巻が起こりませんが、大きい物だとこの王宮でさえ、かなりの被害を受けるでしょう。ですから風の強い地域ではそれに対応する建物を建てねばなりません。ですが我々は風が人々の生活に被害を及ぼすだけでなく、人の役に立てる物にもなり得る可能性があると考えています。例えば風の力で物を動かしたり、水をくみ上げたり出来れば、農業の発展にも繋がります。風は大きな国益を生み出す事も出来るはずだと私は思っています」
「ふむ・・・」
プラトスの研究にサンティアヌスは益々興味を覚えた。
「それで、今日は何を教えてもらえるのかな?先生」
先生と呼ばれてプラトスは恥ずかしそうに「その呼び方だけはご勘弁を・・・」と言いつつ、本と資料を皇帝の前に広げ始めた。
風速計を持って皇宮の一番高台に登ってきたエルサは、手摺りの向こう側に広がる風景を想像して心が躍った。きっと蜂蜜色の建物が建ち並ぶ帝都カルタナの美しい風景が広がっているだろう。高台は広いバルコニーになっていて、ここなら風を測り易いはずだ。皇宮のアーチ状の出入り口から外に出てバルコニーの端まで行こうとしたエルサは、ふと少し離れたバルコニーの手摺りに誰かがいるのを見つけて立ち止まった。
まさかとは思ったが、あの光り輝く見事な金色の髪は自分が今一番会いたくない男に違いなかった。どうしてこんな所に居るのよ。彼に会いたくないから父と供にサロンには向かわず、わざわざ風を測りに来たのに・・・。
どうやらアルティメデスは外の風景に気を取られて居るようなので、こちらには気付いてないようだ。このままそっと逃げよう。そう思って後ろを向いた時、シャラララ・・・ンという金属のふれ合うかすかな音が聞こえてエルサはもう一度振り返った。
皇子の左耳に下がった黄金のピアスの下に付いている飾りが、風に揺れる度に小さなメロディを奏でている。その上の扇を逆さにした形のピアスには彼の瞳と同じ色のラピスラズリが日の光に更に青さを増すように輝いて見えた。
そう言えばラピスラズリはこの国では皇帝の権威を表わすもので、皇帝と帝位を継ぐ者にしか許されない宝石だった。あの初めて会った日もこのピアスを付けていたのに、どうして彼が皇子だと気付かなかったのだろう。そんな事を考えながらアルティメデスの横顔を見ていると、ふとそれがとても寂しそうに見えた。そんな事有るはずない。この方は生まれながらに全てを手にしているはずだ。地位も名誉もお金も、そしてどんな女をも魅了してしまうような容姿でさえ・・・。
その寂しそうな横顔に何となく自分が見とれているように思ったエルサは思わず目をそらした。そっとその場を離れようとしたが、後ろから「逃げるのか?」と声がして立ち止まった。彼はきっと私が居るのに気付いていたのだ。エルサはムッとしながら振り返った。だったら逃げるわけにはいかない。どちらにせよ、いつかは会うのだから例え罰を受ける事になっても堂々としていよう。
「何の事でしょう。私はここに風を測りに来ただけですわ」
エルサはバラして持ってきた風速計を、中央にあった石のテーブルの上で組み立て始めた。台座に支柱を立て6枚の羽が付いたプロペラを付ける。それだけでは風が強いと倒れてしまうので、プロペラの前後左右から台座に向けて四本の支柱を立てると完成だ。風速計を組み立てるのに夢中になっていたエルサがふと顔を上げると、アルティメデスが側まで来ていて難しい顔をしながら組み立てた風速計をじっと見ていた。
普通の人は皆、風の強さを測ってどうするのだとか、そんな研究が何の役に立つのだとか色々聞いてきたり嫌味を言ったりするのだが、彼は何も言わずに風速計がカラカラと音を立てながら回るのをしばらく見ていた。
「そうか。分かったぞ」
アルティメデスは右手の拳を左の手の平に当てると、自慢げに胸をそらした。いや、いつも彼は自信満々に胸を張っているのだが・・・。
「その6枚の羽の下に付いている金属の棒が、羽が一回転する度にその棒の下についているもう一つの金属の棒を弾く。それによってその下の針が動いて目盛りを記録するのだな。それで風の強さが分かるわけだ」
エルサは驚いたようにアルティメデスを見上げた。この人もしかして頭がいいのかしら。いや、将来この国を継ぐんだから馬鹿じゃ困るけど・・・。
アルティメデスが意外に鋭い事に気付いて、エルサは説明を始めた。
「そうです。ここは風が少々きついので今針は3を示しています。これが台風とかになると10を超えますので、とてもこの小さな風速計では測れません。その場合はもっと大きな風速計を使います」
「ふうん・・・」
そう言った後も、アルティメデスはじっと風速計を見ていた。
「風の強さが測れるのなら、どの地域にどれだけの雨が降ったのかも計算できるわけだな?それが分かれば何処にため池を作ったらいいかが分かる。雨の少ないこの国では水は貴重だからな」
「はい」
皇子が興味を持ってくれた事が嬉しくて、エルサの口調はさっきよりずっと軽くなった。
「その場合は雨量計を使います。あちこちに設置して一年くらい観測を続ければ、より正確な数値を出せますから雨の多い地域を割り出せますわ」
「一年。それは長いな」
皇子は急に冷めた顔をすると、にやりと笑った。
「まっ、そんな根気のいる仕事は父上に任せておけばいい。国の事を考えるのは皇帝の仕事だからな」
そう言い捨てると、あっけにとられているエルサを残してアルティメデスはさっさと行ってしまった。
ー 何て奴なの! ー
エルサは頭にきて思わず両手で石のテーブルを叩いた。学者魂を揺さぶっておいて、本当は最初から興味なんてなかったんじゃない!エルサはアルティメデスの意地の悪さに心の底から腹が立った。あんな奴、もう二度と相手にしないわ!震える手を握りしめてエルサは心に誓った。




