12.戻らない月日
話を聞いていた渚はその時のシスター・エネスの気持ちが痛いほど伝わってきて胸が苦しくなり涙があふれてきた。小さく鼻をすすっている渚を見て、シスター・エネスは本当に変わった娘だと思った。今まで散々仲が悪かった人間の為に涙を流すなんて・・・。
「私は父が許せなかった。彼はカーターが何かをやる事を知っていただろうから。それなのに自分は誇り有る英国紳士である為にカーターを責め立てたのよ。でも私が最も許せなかったのはこの私自身。全ての元凶は私なのよ」
渚はシスター・エネスの言葉の意味が分からず、ただ彼女を見つめていた。
「カーターが私に惹かれていたのを父が知っていたように、私も気付いていたわ。それを父が利用してカーターがバラ作りに没頭するように仕向けたのも何となく分かっていた。それでもいいと思っていたのよ。父の夢が叶うのなら。でもちゃんと言うべきだった。そんな事を引き合いにすべきではないと父に・・・。そしてカーターにも、あなたを愛する事など出来ないとはっきり言うべきだった。
そしたらカーターは京一郎のバラにあんな恐ろしい事をしなかったでしょう。同じバラを育てる者が端正込めて作ったバラに殺虫剤をかけて枯らしてしまうなんてあんなまねを。全ては私が悪かったのよ。その私がどうして幸せになれる?父のした事を思えば、京一郎に合わせる顔などないわ」
渚はただ悲しくて涙を流すしか出来なかった。この人は父親や庭師のやった事の全ての責任を自分で背負って、何の不自由もない暮らしも女としての幸せも捨て、厳しい戒律の中に身を置いたのだ。嫌味で他人に厳しくて、嫌な人だと思った事もあった。でも今、誰よりも幸せになって欲しいと心から思った。
渚はシスター・エネスの手をぎゅっと掴んだ。
「行きましょう、シスター・エネス」
「は?あなた今私が言った事を聞いていたの?」
「もちろん聞いていました。だからこそ行かなきゃ駄目です。時間は取り戻す事は出来ないけど、人間はやり直せるでしょ?シスター・エネスはエレーヌに戻って京一郎さんと幸せにならなきゃ駄目なんです」
渚は「ちょ、ちょっと・・・」と慌てているシスター・エネスを引っ張って、本館の入り口を出てきた。前方には京一郎が設計した庭が美しいライトに照らし出されて教会まで続いている。
下から照らすスポットライトに、背の高いトピアリーはまるでクリスマスツリーのように光と影を作り出し、LEDの青と白の光の道が古いレンガの道を彩っていた。
まるでその光に導かれる様にシスター・エネスは足を踏み出した。これが京一郎の設計した庭。彼がずっと昔言っていた日本の庭の美しさ。光だけでなく影をも主役として扱う空間構成。洋風な華やかさの中にどこか懐かしさを感じる静寂との対比。京一郎の32年間がここにあるような気がした。
シスター・エネスは教会まで来ると、ゆっくりと階段を上がった。両側にはまだ花を付けていないバラの苗木が階段と教会の周りを取り囲むように植え込まれている。古い教会の階段の上でじっと待っていた京一郎は、自分の目の前に立った懐かしすぎる人を見つめた。その目は32年前、自分に向けられていた瞳と何ら変わりが無いとシスター・エネスは思った。
彼女はかがむと教会の壁に這わせてあるバラの木に付けられた名札を手に取ってみた。
「エレーヌ・・・・」
京一郎が教会の周りに植えたのは全てそのバラだった。彼の最初で最後になった作品だった。
渚は植え込みの陰に隠れながら彼等の姿が見える場所へ移動し、そっと見守った。ピョンも渚のコートのポケットから出て、彼女の肩の上へ移動した。
シスター・エネスはバラのネームプレートを微笑んで見ると立ち上がり、もう一度京一郎を見上げた。
「お久しぶりね」
最初に声を出したのはシスター・エネスだった。
「ああ、本当に。久しぶりだ」
そのまま2人は何も言わず、黙ったまま立っていた。32年間の長い月日を思い出しているのだろうか。
「お仕事の方はうまくいっているみたいね」
再びシスター・エネスが言った。
「ああ、何とか。あれから色々なガーデンコンテストで賞を貰ったよ。ただチェルシーにはあれ以来一度も出ていないんだけど・・・」
「そう・・・」
シスター・エネスは少し暗い顔で答えた。
「君の方はどう?今、幸せ?」
京一郎の質問にシスター・エネスはにっこりと微笑んだ。
「ええ。とても幸せよ。たくさんのかわいい子供達に囲まれて、それに後輩のシスター達にも慕われているの。今は主任シスターとして充実した毎日を送っているわ。あなたは?」
「・・・僕も、日本に戻ってから結婚して幸せだよ。たくさんの孫にかこまれて・・・毎日大変なんだ」
「そうなの」
シスター・エネスはうつむいたまま笑った。2人のやりとりを聞いていた渚は京一郎の言葉にショックを受けた。結婚して幸せに暮らしているのなら、シスター・エネスの思いは何処に行けばいいのだろう。
「あの2人、嘘ついとんな」
ピョンが肩の上からぼそっと呟いた。
「え?」
渚は驚いたようにピョンを見つめた。
「シスター・エネスが嘘ついとんは分かるわな。そやけど京一郎の言う事も嘘や。彼は日本に戻ってから5年後結婚したが、3年もせん内に別れとる。前妻との間には子供も居れへんかったから、孫も居るわけないわな」
「ピョンちゃんったら、どうやってそんな事調べたの?」
「京一郎は日本でも有名人や。ちょちょっと調べたら、それくらいの情報すぐ分かる」
「じゃあ京一郎さんは独身なのね。だったらやり直せるじゃない」
渚は立ち上がって、シスター・エネスにその事を伝えに行こうと思った。2人がどうしてそんな嘘を付き合ってこのまま別れてしまおうとするのか、分からなかったからだ。だがピョンはすぐさま「やめとき」と言って渚を止めた。
「あの2人はお互いに嘘をついとるって分かってる。どんなに戻りたくても過ぎ去った月日は戻ってきいひんのや。あの2人にはそれがよう分かってる。もっと若ければもう一度やり直す道もあったかも知れへんが、シスター・エネスにはシスター・エネスの、京一郎には京一郎の32年間歩んで来た道があるんや。
この庭を見てみ。これは誰の為でもない、京一郎がエレーヌの為に作った庭や。庭のプロにしか分からへんような工夫が一杯施してある。そして最後に辿り着いた教会の周りに植えられたエレーヌという名のバラ。京一郎が居らんようになっても、春になればそのバラが満開に咲いて、教会の入り口を彩るやろう。シスター・エネスが毎日訪れるこの場所をな。この庭は京一郎からエレーヌへの愛の証や。京一郎は園芸家として、彼女を見守る庭をここに残したんや」
教会の入り口で微笑みながら向かい合って立つ京一郎とエレーヌを見て、渚は涙が止まらず両手で顔を覆った。
「渚はほんま泣き虫やなぁ」
ピョンの言葉に渚は手で顔を覆ったまま首を振った。
「違うわ。シスター・エネスが無理して笑ってるから、代わりに私が泣いてあげてるだけよ」
ー どんなに戻りたくても過ぎ去った時は戻って来ない・・・ ー
これは自分にも当てはまる言葉だとピョンは思った。どんなに戻りたくても2,500年前のあの日々は帰って来ない。どれ程願っても、懐かしい人達の声を聞く事はもう出来ないのだ。だから今を大切にしたいと思う。泣いている渚も幸せそうに笑っている渚も、この両手で抱きしめる事が出来なくても、心で包んでやりたいと思う。例えいつか別れの時が訪れるとしても・・・・。
ピョンは一生懸命、声を押し殺して泣いている渚を慰めるように、頬を優しく叩いた。
今日も朝から身が引き締まるような寒さだ。渚は黒のダッフルコートを羽織ると、いつものように「行ってきまーす!」とピョンに大きな声を掛けて出勤した。別に急ぐ必要は無いが、なぜか今日は早く学校に着きたくて駆け足で校門をくぐり、そこからは戒律通り急ぎ足でシスタールームに向かった。シスター達は教会の掃除をしているのだろうか、まだシスタールームには誰も居なかったので教会に向かう事にした。
本館を出ると、真っ白に霜が降りたトピアリーや苔むすレンガの道が朝日を受けてキラキラと輝き、昨晩とは又違う表情を見せている。その道をまっすぐ歩いて行くと、丁度、シスター達の掃除の確認を終えたシスター・エネスが礼拝堂を出てきて、渚を見るとまっすぐ向かって来た。
礼拝堂と本館とをつなぐ道の真ん中で2人は立ち止まった。シスター・エネスはいつもと何ら変わりなく、きりりとした眉と無表情な顔で渚を見た。
「お早うございます、シスター・エネス。今日の服装はいかがですか?」
シスター・エネスは渚の足下まで目を下げ、再び渚の顔へと目を戻した。
「結構」
それだけ言うと彼女はそのまま渚の横を通り過ぎ、本館へと向かった。渚はにっこり笑って「はい!」と答えると、朝の冷たい空気を切り裂くようにキリッと伸びた背を追いながら、霜に輝く道を戻って行った。




