11.別れの時
次の日の夕方頃に新しい庭園が完成した。教会まで続く道の両側に植えられたたくさんのトピアリー(幾何学模様や動物の形などに刈り込んだ樹木)、その周りの花壇には寒い冬の間にも咲き続ける色鮮やかな花々が植えられている。教会の周りには春に咲くバラの花が、扉までのアーチや壁の周りを覆うように広がっていた。授業が終わった後、たくさんの生徒やシスター達が庭を一目見ようと訪れ、日が暮れるまで庭は賑わった。
夜、主任シスターの部屋でシスター・エネスはじっと時間が過ぎるのを待っていた。
もうすぐ終わる。京一郎は今日で仕事を終え、二度とここへ来る事はないだろう。ほっとする反面、心の中が空っぽになってしまったような虚しさがあった。
使うわけでもないのに木製のケースに入ったガラスの万年筆を取り出すと、じっと見つめた。これはシスター・エネスの持ち物の中で唯一の日本製だ。京都の職人が一本一本手作りで作っている物で、全て一点物である。これを以前居たウェールズの修道院の院長が持っているのを見て、とても魅了された。日本の品だと分かっていたが、作っている場所が京都でその地名が京一郎の京と同じだと分かるとどうしても欲しくなって、とても値の張る物だと分かっていたが院長の知人を通して何とか手に入れた。
触った時のガラスの冷たさと、握っている内にそれが温かくなっていく感覚。私はこれを使う度、京一郎を思い出していた。そして、うら寂しい修道院での生活が15年ほど続いたある日、シスター・ボールドウィンが修道院の院長と知り合いだった経緯もあり、このミシェル・ウェールズに推薦されここへやって来た。その時の荷物は小さな鞄に入るだけの衣類とこの万年筆だけだった。
それで良かったのだ。この万年筆だけで。これがあの人の代わりだったから・・・。なのに今更32年も経って、こんな姿で再会しなければならないなんて・・・。
ため息をついて万年筆をケースに戻した時、ドアをノックする音が聞こえた。シスター・エネスにはその扉の向こうの人物が何となく分かった。どうしてあの子は私を放っておいてくれないのだろう。
「どうぞ」と言う声に渚は扉を開けて中へ入った。シスター・エネスは昨日のように憤りをあらわにするでもなく、ただ静かにデスクの前に立っていた。
「シスター。余計なお世話だと怒られるのを覚悟で来ました。京一郎さんが教会の前で待っています。どうか行ってあげて下さい」
シスター・エネスは渚の顔も見ずに答えた。
「本当に余計なお世話ね。日本人はみんなあなたのようにお節介焼きなのかしら」
「京一郎さんは明日日本に戻ってしまうんです。そしたらもう二度と会う事はないんですよ。それでも会われないおつもりですか?」
シスター・エネスはちらっと机の上の万年筆を見て再び目を伏せた。
「会うつもりはありません」
「シスター・エネス。私の事はいくら憎んで貰っても構いません。でも京一郎さんを憎むのは間違っています。彼はあなたの為に何も告げずに日本へ帰ったんですよ」
シスター・エネスは、ただじっとうつむいたまま何も答えなかった。
「あの頃の京一郎さんは、お父さんの代から続けてきた新品種の作出の為に多大な借金を背負っていたんです。もちろんバラがショーで認められれば、それを充分返す事が出来たでしょう。でもあの事件で京一郎さんはゴールドメダルどころか育種家としての信用さえも失ってしまった。そんな自分に付いてきてくれと言えますか?ましてやあなたはコンテビュー家の一人娘で、苦労などした事が無いほどのお嬢様だった。そんな人を言葉も通じない、頼れる親も親戚も居ない、文化も全く違う国に連れて行くなんて出来なかったんです。苦労するのが分かっていたから。京一郎さんはあなたの為に身を引いたんです」
「苦労なんて・・・」
シスター・エネスは呟くように言った。
「ウェールズの片田舎にある貧しい修道女の暮らしに比べれば、そんなたいした物ではないわ」
シスター・エネスの言葉に渚は、やはり彼女はどんな事があっても京一郎と共に居たかったのだと思った。
「あなたも京一郎も何か勘違いしているようだけど、私は京一郎を憎いと思った事は一度もありません」
渚は驚いたようにシスター・エネスを見た。そして彼女は今までずっと思い出さないように努めていた32年前の出来事を騙り始めた。京一郎のバラが無残な姿に変わり果て、ゴールドメダルが剥奪されたあの日の事を・・・。
京一郎のニュースが載った夕刊の一面を読み終えたグレゴリックは、一人広大な庭の中にある冷温室へ向かった。中はまだ明るく、カーターが一人で作業をしていた。黙って中へ入ってきたグレゴリックを見て、カーターは静かに立ち上がった。
「お前がやったのか?」
「何の事です?」
カーターは手にしていたはさみを台の上に置きながら答えた。グレゴリックはかっとなってカーターに詰め寄った。
「あの時、お前は言った。“まだ負けたわけじゃない”と・・・。ああ。確かにわしのバラは繰り上げでゴールドメダルを獲得した。だがこんなやり方をしてまでゴールドメダルを取れとわしは命じたか」
「あなたは分かっていたんじゃないですか?俺が何かをする事を。約束しましたよね。ブルームーンレディがゴールドメダルを取ったら、俺とお嬢さんの付き合いを認めると」
カーターの言葉を聞いて、グレゴリックはうろたえたように反論した。
「あれはエレーヌが承知したらの話だ。だからといって何をしてもいいとは限らん!」
「いいや。あんたは確かに俺に約束した。俺にお嬢さんをくれると。なのにあんたはあんな日本人を屋敷に招いてお嬢さんに近づけた。だから俺はどんな事をしてもあんたにゴールドメダルを取らせなきゃならなかったんですよ。あんたは俺が何かをやるのを分かっていて止めなかった。それはあんたも共犯だと言う事だ」
“共犯”という言葉に、プライドの高いグレゴリックはカーッとなってカーターにつかみかかった。
「お前ごときに娘はやらん!」
「見ろ。金持ちはみんなそうだ。汚い事は人にやらせて、自分はのうのうと生きてる」
「うるさい!お前のような男は・・・」
「もう止めて!!」
ハウスの入り口からした声に、グレゴリックはカーターを殴ろうとしていた手を止めた。エレーヌが恨みのこもった目で父親とカーターを見ていた。
「もう充分よ。お父様もカーターも・・・どちらも汚い!」
そう叫んでハウスを飛び出したエレーヌは庭を走り抜け、道路に出てタクシーを拾った。そのまま京一郎の泊まっているホテルまで行くと、フロントに彼の部屋を尋ねた。
タクシーに乗っている間、エレーヌは何もかも捨てる覚悟をしていた。父親もコンテビューの名も全て捨てて、京一郎について行こうと決めた。例えそれが行った事のない異国の地だとしても・・・。
だがフロントから帰ってきた答えは、エレーヌを愕然とさせた。
「ミスター・アオヤマは2時間前チェックアウトされました」
- 2時間前?そんな・・・! ー
間に合わないかも知れない。そんな思いがよぎったが、構わずエレーヌはホテルからタクシーに飛び乗って空港へ向かった。
ー 京一郎、行かないで・・・! ー
心の中でずっとそう叫び続けながら出発ロビーを探し回った。航空機の出発便を示すボードには丁度ロンドンから東京への直行便の飛行機が、あと5分で出発する事を示す表示が出ていた。エレーヌはその出発ロビーに向かって走り出した。だがそこに到着した時、すでに飛行機はドアを閉め動き出していた。エレーヌはロビーの大きな窓から見える巨大な飛行機が、ゆっくりと滑走路に向かって行くのをただ見つめた。
「京一郎・・・」
つぶやきと共に涙がこぼれ落ちた。どうして彼は私に何も言わずに去って行ったのだろう。バラを枯らしたのが父だと思ったから?きっとそうだ。それ以外に考えられない。エレーヌはその場に崩れ落ちるように膝をついて、ただ涙をこぼした。




