9.剥奪されたゴールドメダル
次の日の新聞の一面はもちろんチェルシーフラワーショーの話題だった。中でも目を引いたのは京一郎の黒バラがゴールドメダルを獲得したという記事だった。世界で初となる黒バラの誕生は多くの人々の関心を集め、その艶やかな姿は新聞に大きく写し出された。
朝、食事前にその記事に目を通したグレゴリックは暗い表情のまま新聞を閉じた。昨日の敗亡がまだ信じられなかった。ここに大きく写真が載るのは自分のバラだと確信していたのに。グレゴリックはため息をつくと、閉じた瞳を右手で押さえた。そして彼にはもう一つ気がかりがあった。どうやら娘のエレーヌはあの青山という男に心惹かれているようだ。あの男が父親の一番の敵だと分かっているのに、味方に付くようなまねをしおって・・・。コンテビュー家の娘があんなどこの馬の骨かも分からん日本人と付き合うなど、絶対に許されん。
落ち着かない気持ちのままダイニングに向かうと、すでにエレーヌが席に着いていて新聞を広げていた。どうやら彼女もフラワーショー関連の記事を読んでいたようだ。グレゴリックが入ってきた事に気付いたエレーヌは、とてもご機嫌な様子で笑顔を向けた。
「お早うございます、お父様。今日はショーの初日にふさわしいとてもいい天気よ。楽しみね」
昨日屋敷に戻った時から妙にテンションの高い娘を見ていると、昨日の夜、京一郎と何かがあったのだろうと想像できて余計怒りが混み上がってくる。グレゴリックは返事も返さずムッとした表情で席に付いた。
「エレーヌ。昨日はどうして戻ってこなかったのだ?」
朝の挨拶もなしに身に覚えのない事を言われ、エレーヌは訳が分からず答えた。
「私、夕食までにはちゃんと帰ったわ」
「帰宅の事を言ってるんじゃない。内覧会の事を言ってるんだ」
確かに例年なら父の側に一緒に居て、共に王室関係者と挨拶を交わしたはずだ。だがエレーヌはどうしても京一郎を放ってはおけなかった。そのせいで父のバラの印象が変わる事は無いだろうが、京一郎のバラが目立ってしまったのも間違いなかった。
「それは悪かったと思っているわ。でもそれでお父様のバラの評価が変わるわけではないでしょう?」
「ああ、もちろんシルバーメダルだ。それ以上にもそれ以下にもならん。だがお前がした事は何だ?敵側に付いて敵のバラがプレス関係者の目に止まるように仕向けた。それは私への、いや、今まで共にバラ作りに携わってきたカーターやスタッフへの裏切りだとは思わないのか?」
「そんな・・・」
自分のした事が周りの人達にそんな風に思われていたと思うととてもショックだった。
「でも私は悪い事をしてはいないわ。京一郎は友達だもの。手助けするのは当然でしょう?」
「友達だと?あの男に心奪われておるくせに、よくそんな事が言えたものだ。言っておくがこのコンテビュー家の娘があんな何処の馬の骨とも分からぬ日本人と付き合うなど絶対に許さんからな!」
朝食を運んできた給仕の女性達も入り口から動くことも出来ずに親子のやりとりを見守っている。エレーヌは父親の京一郎への侮辱の言葉や頭ごなしな言い方に無性に腹が立った。
「京一郎は立派な育種家だわ。亡くなられたお父上の遺志を継いで素晴らしいバラを作り上げた。それがどれ程血のにじむような苦労だったか、お父様には分かるはずだわ。それなのに彼を侮辱するなんて許せない。間違っているのはお父様の方だわ!」
「何だと?」
親子はテーブルの向かい側でにらみ合った。
「お父様のおっしゃる通り、私は京一郎が大好きよ。その気持ちを止めるつもりはないし、京一郎を応援するのを恥とは思わないわ。彼はお父様がずっと欲しかったゴールドメダルを取った。お父様にはそれが許せないのでしょう?でもだからといって京一郎を恨むのはお門違いだわ。これで彼の名は世界中に広がる。私はそれを心から願っているわ!」
父親から目をそらすとエレーヌはダイニングを出て行った。
チェルシーフラワーショーの本番はRHS(王立園芸協会)の会員のみの入場だが、すでに前売り券は完売で多くの人達が会場の入り口で入場時間になるのを待っていた。
エレーヌは関係者専用の入り口から入ると、すぐに京一郎がいるであろうコンペティション会場へ行ったが、何だか様子が変だ。京一郎のブースの周りに人だかりが出来て皆ざわめいている。
「まさか、こんな事になるなんて。彼は本当に育種家なのか?」
そんな言葉が聞こえてきて、エレーヌは今それを言った男を捕まえて聞いた。
「何があったの?」
「ミスター・アオヤマが自分のバラを枯らしてしまったんだよ。殺虫剤のかけ過ぎでね」
ー そんな馬鹿な・・・! ー
エレーヌは人混みをかき分け前に出た。そして自分のバラの前に呆然として立ちすくむ京一郎を見た。エレーヌは声も掛けられずに近づいて彼の大切なバラの無残な姿を見つめた。
確かに花も葉も周りが焼けたように枯れている。殺虫剤は強力なので花に接近して掛け過ぎると、たった一晩でこのように枯れたような焼け方をするのだ。だがプロの園芸家に限ってそんな失敗は有り得ない。第一今更この会場で殺虫剤など掛ける必要が何処にあるのだろう。
「きっとゴールドメダルを取って花に神経を使いすぎたのね」
そんな声にエレーヌは叫びそうになった。京一郎がそんなミスを犯すはずはない。これは誰かが作為的にやったものだ。そんな事をするのは・・・。
エレーヌはそこから先を考えるのが恐ろしくて、震えながらその場に立ち尽くした。京一郎はただ悲しそうな瞳で愛するバラに触れると、小さな声で呟いた。
「辛かったろう?守ってやれなくてごめんな・・・」
そうした事件があったものの、チェルシーフラワーショーの1日目は盛況の内に終わった。だが残念な事に協会の話し合いで、京一郎の受賞は取り消される事になった。その事はすぐに新聞に取り上げられ、一大ニュースになった。
『不注意で自分の作品を枯らしてしまった育種家』
そう題名付けられた記事は、園芸家としての青山 京一郎の名が地に落ちたも同然だと物語っていた。
長い昔話を終えると京一郎は少し冷めた紅茶に口を付けた。
「そして私は日本へ戻りました。エレーヌの事も気になりましたが、チェルシーフラワーショーの事は日本でも報じられますから、まず日本の事務所に戻ってこれからの事を考えないといけないと思ったからです」
「でも・・シスター・エネスは・・・エレーヌは待っていたんじゃないですか?あなたを・・・」
京一郎は少し間を置いて考えていた。
「分かりません。ですが、何も告げずに去ってしまったのは彼女の気持ちを踏みにじる行為だったと思います。エレーヌが私を恨んでも仕方の無い事でしょう」
本当にそうだろうか。渚は話を聞いていて違うような気がしたが、今までの日本の事を嫌っているようなシスター・エネスの言動を考えると、やはり彼が原因なのかも知れないと思った。
「それで信用は取り戻せたんですか?」
京一郎のその後が気になって聞いてみた。
「ええ。最初はやはり色々言われましたが・・・。日本は狭い国ですので。それもあって新苗の開発からは手を引き、今はガーデンデザインの方に力を入れているんです。今回こちらに来たのもロンドンのある大きな会社の依頼で、会社の庭と内部空間とをつなぐガーデンデザインを頼まれたんです。日本庭園とイングリッシュガーデンを融合させたようなモダンでそれでいて懐かしさを感じる・・・そんな難しい注文なんですがね」
32年経って彼はある程度の成功を収めているようだ。渚は鞄の中からヒソヒソ話しかけてくるピョンの助言に従って、青山の止まっているホテルと携帯番号を聞いてから彼と別れた。
せっかくの渚の誕生祝いだったが、渚はさっき聞いた京一郎とエレーヌの事が気になって仕方が無いようで、食事の間もずっとその話をしていた。それでピョンも仕方なくその話に付き合って渚のスマートフォンでアオヤマ・ガーデンデザインの事を調べてみた。
「見てみ、渚。京一郎は2000年に入ってから立て続けに賞を取っとる。シンガポール・ガーデンフェスティバル。インターナショナル ローズ&ガーデニングショー、ガーデニングワールドカップ。全部国際的な一流のコンペティションや。ワイ等には知られて無くても青山 京一郎の名はその筋では認められとんやな。でなけりゃわざわざイギリスの会社が日本のデザインオフィスに依頼はせーへんで」
それを聞いた渚は嬉しそうに両手を胸の前で組んだ。
「いいこと思いついちゃったわ、ピョンちゃん。早速明日実行するわね!」
又どんな余計な事を実行するんやろうなぁ・・・。ピョンはデザートのラズベリータルトを口に放り込みながら思った。




