8.新たな未来への一歩
チェルシーフラワーショーの前日、プレス向け内覧会の前に審査委員団による審査が行われる。それぞれの展示物の作り手達はいつにも増して真剣な表情で作業を行っていた。審査員等は広い会場を順番に見て行くのでエレーヌ達の居るコンペティション会場を訪れるのは、昼前になるだろうという情報が伝わっていた。それで会場の人々もまだそれほど緊張すること無く、自分達のブースで花の様子を見たり、常連の人々は互いの花を鑑賞しながら語り合ったりしている。
そんな中、京一郎は一人で作業を続けていた。初参加の彼にはいつ頃審査委員がやって来るのか、そんな情報も伝わっていないようだった。そんな彼の様子にエレーヌはその事を知らせに行こうと立ち上がったが、グレゴリックが呼び止めた。
「エレーヌ。バスケットを開けてくれ。審査委員が来るまで時間がある。少し食べておいた方がいい」
「あ、じゃあ京一郎にも少し持って行ってあげるわ」
「彼は今日は敵だ。そうだろう?エレーヌ」
そう言った父の目をエレーヌは生まれて初めて怖いと思った。つい2日前まで父と京一郎は初めて会ったとは思えないほど親しげに庭の話をしていた。彼らの話は尽きることなく、父は京一郎に屋敷に泊まる事さえ勧めていたのに・・・。
今朝京一郎のバラを見てからグレゴリックの表情は一変した。バラ作りに精通している父にはあのバラがどれ程の価値か一目で分かったのだ。
父の表情を見てそれ以上何も言えなくなったエレーヌは、仕方なく持ってきたバスケットを開いた。
予定通り昼を目前にした頃、審査委員が会場を訪れた。それぞれのブースの前で花を見ながら手に持った審査用紙に点数を付けていく審査委員達を皆はただ黙って見つめていた。
審査の結果はプレス向け内覧会の当日の朝発表される。出品者達は朝7時に指定された場所に集まり、息をのんで発表を待った。まずはスモールガーデン部門、ショーガーデン部門と、次々にゴールド、シルバー、ブロンズのメダリスト達が発表され、いよいよ今年の新苗の受賞者を発表する番になった。
エレーヌはたった一人でじっと立っている京一郎の事が心配でたまらなくなって、父が止めるのも聞かず、京一郎の側に行って手を握った。
「大丈夫よ。あなたのバラはきっと世界に評価される。自信を持って」
エレーヌの言葉に頷くと、京一郎は彼女の手を握り返した。審査員の一人が結果を書いた紙を隣の男から受け取り、それを開いた。
「今年の新苗のコンペティション。ゴールドメダリストは・・・」
ー お願い・・・ ー
エレーヌは祈るように目を閉じた。
「サヨコ。アオヤマ・ガーデンデザインオフィス。ジャパン」
エレーヌが思わず両手を口に当て京一郎を見上げた。彼はやっと息をするのを思い出したように、息を弾ませながらエレーヌを見つめ返した。エレーヌは父が見ているのも忘れて京一郎に抱きつくと「おめでとう!」と叫んだ。そしてシルバーメダルはグレゴリック・コンテビューのブルームーンレディに。ブロンズはスペインの育種家リゴベルト・ジャンニーニが獲得する事となった。
メダルの授与が終わると、プレス向け内覧会の始まりだ。京一郎のバラの前にはゴールドメダルを受賞した事を示す盾が置かれ、もちろんグレゴリックやリゴベルトの前にもそれぞれ受賞した色のメダルの盾が立った。
盾に付けられた銀色のメダルを見ながらグレゴリックはぎゅっと手を握りしめた。初めて参加したあんな若造にこのわしが負けたのか・・・。
言い知れないほどの悔しさが身体中に沸き起こってくる。ブルームーンレディは大きさといい色といい、誰が見たって最高の仕上がりではないか。なのにあんな小さなつるバラなどに負けるなんて・・・。しかも娘のエレーヌは自分の父親が負けたのに、あの男が勝った方を喜んでいた。それが余計グレゴリックをいらだたせた。
自分のバラを見つめてじっとたたずむグレゴリックの隣からカーターが言った。
「王室関係者がお見えになりましたよ」
顔を上げるとプレス関係者を引き連れ、貴族達がコンペティション会場に入って来たのが見えた。
「こんなシルバーメダルなど、王室関係者に見て貰う価値もない」
そう言って立ち去ろうとしたグレゴリックの腕をカーターが掴んだ。
「まだ負けたわけじゃない。俺のバラはまだ・・・」
カーターの言葉の意味が分からず、グレゴリックは訝しそうな顔をしたが、とりあえずその場にとどまる事にした。
徐々に近づいてくる王室関係者や貴族達を見て、京一郎はもう緊張が頂点に達しているようだ。このままではせっかく彼等に声を掛けてもらえても、うまく話が出来ないだろう。王室関係者の後ろについて回っているプレス関係者にいい印象を与えて記事にして貰わなければ、せっかくゴールドメダルを取っても彼の名は世界に広まらないだろう。そう考えたエレーヌは父の元へ戻らず、彼の側で彼等を待つ事にした。父は怒るかも知れないが、今のエレーヌにとっては京一郎の未来の方が大事だった。
「大丈夫よ。ほら。あの一番前におられる貴婦人。あの方はイングランドでも有名な園芸評論家でもあるサザーランド伯爵婦人よ。彼女に声を掛けて貰う事は最高の栄誉なの。きっとあの方もあなたのバラを見てびっくりなさるわ。だから顔を上げて。私がずっと側に居るから」
エレーヌの言葉に勇気が出たのか、京一郎は微笑みながらエレーヌに頷いた。
多くの人々に囲まれサザーランド伯爵婦人がやって来たのはそれからすぐであった。情趣なたたずまいの中に溶け込むように咲き誇る京一郎のバラを見て、彼女は一瞬目を奪われたように立ち止まった。
「これは・・・黒バラね。何という色なの?まるで闇に誘い込まれるよう。それでいて誇り高く立つ東洋の姫君の様に美しい・・・。このバラの作出者はあなた?」
京一郎は丁寧に頭を下げると「はい」と答えた。
「見事だわ。これほどの黒バラを私は見た事がありません。さぞかし端正を込めて育てられたのでしょう。ゴールドメダルを獲得したのも頷けます。それにしても・・・」
伯爵婦人は微笑みながらエレーヌを見つめた。
「コンテビュー卿は今年も新苗を出しておられたのに、エレーヌ嬢はどうしてここにおられるのかしら?」
エレーヌはいつもの冷静さも忘れて、少しうろたえながら顔を赤らめて答えた。
「はい、あの・・・ミスター・アオヤマはショーに初参加ですので・・・。その、サポートする人間が必要かと・・・」
「そう・・・」
婦人は答えながら、ちらっと京一郎のバラのネームプレートを見た。
「じゃあ、このバラの名はSAYOKO(小夜子)からエレーヌに変わるかも知れないわね」
ハッとしたように見つめ合う2人を目を細めてみると、彼女は次のブースへ向かって行った。
内覧会が終わると、人々は明日からのショーに向けて花の調子を見たり、ガーデン部門では最後まで庭の調整を行う。グレゴリックの所にはカーターや他のスタッフもたくさん居るので、エレーヌはその日一日中京一郎の花の手入れを手伝った。
会場を出た頃は、もう辺りは薄暗くなっていた。
「今日は疲れたでしょう?伯爵婦人に会って緊張した?」
「うん。生まれて初めての経験だったから。でも君が側に居てくれたから凄く落ち着けたよ。本当にありがとう」
エレーヌはちょっと頬を赤らめて照れたようにうつむいた。
「プレス関係者もあなたのバラを何度もカメラに収めていたし、明日の新聞が楽しみね。なんと言ってもゴールドメダルですもの。きっと大きく取り上げられるわ」
「君の父上のバラも同じだよ。あのブルーローズは素晴らしかった。きっとフラワーショーの話題を浚うだろうね」
「あなたのバラの方が凄いわ!」
思わず叫んでしまったエレーヌは、恥ずかしそうに京一郎から目をそらした。
「あ、あの、だって初めてだったから。あんなに美しいバラを見たのは。だからきっと・・・」
「エレーヌ・・・」
京一郎が自分の手をそっと握りしめたので、エレーヌは驚いたように彼の顔を見上げた。
「あのバラの名前。エレーヌにしてもいいかな」
「あ、あのでも・・・あのバラにはサヨコって名が・・・」
「別にその名に思い入れはないんだ。黒バラだから夜という字を入れたかっただけで・・・。君の名を付けるのは迷惑?」
「迷惑だなんて・・・。嬉しいわ。私、とても嬉しいわ」
握った手をそっと引き寄せられ、エレーヌは上を向いて目を閉じた。生まれて初めての口づけは、むせかえるような香りに包まれたバラの園に居る時より、もっと心が締め付けられるような幸せを感じた。




