7.京一郎のバラ
次の朝エレーヌは約束の30分前に駅に着いてしまった。昨日興奮しすぎてあまり眠れなかったのだ。洋服は何を着ていこうとか、彼とどんな会話が出来るだろうとか、そんな事ばかり考えている自分は少しおかしいと思った。本当なら彼のバラの事が気になるはずだ。でも心が躍り出しそうになるのは、バラではなく京一郎の顔を思い出す時だった。
そわそわしながら待っていると、待ち合わせの10分前に京一郎が姿を現した。二人で電車に乗って向かい合わせの席に着くと、彼等はガーデニングの話で再び盛り上がった。京一郎と話をしながらエレーヌはどうして彼と居ると、こんなに嬉しい気分になるのか考えた。日本人の持つ独特の優しい雰囲気のせいだろうか。それとも彼の庭園に掛ける情熱のせいだろうか。たった一つだけはっきりしている事は、自分が彼に恋をしてしまったのだと言う事だった。
そんな自分の気持ちにはっきり気付いた頃、列車は彼の農場のある小さな村の駅に到着した。とりあえず昼食を駅の周辺にある小さなカファで済まし、そこからバスに乗って農場に向かった。
京一郎の農場はバス停から少し歩いた先にある実験農場だった。長さ30メートルほどのハウスの中で、たくさんのバラが栽培されているようだ。
「ここで作っているのは新種ばかりではないんです。日本に持ち帰ってお客さんの庭を飾るのにも使っているんですよ」
京一郎の説明を聞きながら、バラの園に足を踏み入れた。
「このバラはイングリッシュローズじゃないわね」
入り口から左側のバラを指さしてエレーヌは聞いた。
「それはフレンチローズです。リングリッシュローズは大庭園向きですが、フレンチローズは植木鉢でも栽培できる小ぶりの物も多いので、日本の庭にはそちらの方が向いているのではないかと思い、いくつか栽培しているんです。日本ではイングリッシュローズに比べてフレンチローズはまだ手に入りにくいんですよ」
「そうなの・・・」
小さな愛らしい白バラから顔を上げたエレーヌは一瞬凍ったように立ち止まった。ハウスの右奥に昨日京一郎が持ち込んでいたのと同じ、古びた格子のトレリスがある。高さ1メートル50センチほどのそれに絡むバラは7センチほどの黒みを帯びた赤で、鮮やかな他のバラとは明らかに一線を画していた。
「まさか・・・そんな・・・」
震える声で呟いたエレーヌににっこり笑いかけると、京一郎は答えた。
「はい。あれが僕のバラです」
エレーヌは一歩一歩それに近づいた。黒みを帯びた赤い花弁は中心へ行くほどその黒さを増していた。緑の葉も濃く、決して花の美しさを妨げない。格子を伝う枝はしなやかで力強く、バラ特有のとげさえ鋭い印象を与えなかった。
「あなたが研究していたのは、黒バラなのね」
「実際にはほとんど父の研究です。僕はそれを完成させただけで・・・。それでも10年かかりました。父はこのバラを見る事はなかったけど・・・。名前はサヨコ。日本語では小さな夜の子供と書きます」
エレーヌはただバラに目を奪われたままため息をついた。一説には黒バラは青いバラより作るのが難しいと言われている。青い色素も黒い色素もバラの花には存在せず、特に黒を自然交配のみで引き出すのは全くの不可能だとされていた。
今まで世に出た黒バラも赤い色がより暗いだけで、今エレーヌが目にしているバラはまさに今までの黒バラの頂点に立つバラと言っていいだろう。しかもそれをつるバラに仕上げた育種家は多分彼が初めてに違いない。
エレーヌは静かにまるで深い闇のように咲き誇るバラを見ながらただ震えていた。
近年新しい品種を次々と発表する大手の園芸会社でもバラの色を変える事に力を注いでいる業者は少ない。だからこそコンテビューはブルーローズにゴールドメダルの夢を託した。だがそこにこの黒バラが加われば、間違いなく父のバラとぶつかり合うのは京一郎のバラなのだ。
京一郎の農場で働く2人のスタッフと共に止めてある車にバラを積み込み固定した後、それに乗って帰る事になった。だがエレーヌはこれから起こる事を考えると、とても怖かった。グレゴリックや京一郎の父の事を考えると、どちらにもゴールドメダルを取って欲しかったが、それは有り得ない。もし京一郎がゴールドメダルを取ったら、父は彼を憎むだろうか。そしてもし父がゴールドメダルを取ったら京一郎は・・・。
どう考えても最悪の未来しかない事にエレーヌはどうしたらいいか分からず、ただ黙って助手席に座っていた。
「エレーヌ?」
自分を呼ぶ声にハッと気付くと、車はもうフラワーショーの会場に到着していた。
「あの・・・僕は何か気に障る事を君にしてしまったかな。日本人って不器用だから・・・その、イギリス人の様なスマートさはなくって・・・」
エレーヌが行きと違って帰りは全く話さなくなってしまったのを京一郎は気にしているようだ。エレーヌはびっくりして首を振った。
「ち、違うの。あなたのバラがあまりにも素晴らしくて感動してしまって、それでつい無口になってしまったの。ごめんなさい。私の方こそあなたに気を遣わせてしまったわ」
慌てて言い訳をするエレーヌを気遣って京一郎は家まで送ろうとしたが、エレーヌは首を振った。
「あなたこそ早く会場に花を納入してしまわないと、警備員に叱られてしまうわ。私はタクシーを拾うから」
そう言って車を降りたエレーヌに礼を言うと、京一郎は車をコンペティション会場の方へ移動していった。
この時間ならまだカーターが自分のブースに居るかも知れない。彼があのバラを見て思う事は分かっている。そしてすぐに父に報告するだろう。
自分達と同じ、不可能を可能にしようとしている人間がもう一人居たと・・・・。




