5.シスター・エネスの過去
街角の小さなカフェに入ると、彼らは紅茶を注文した。ワゴンに乗せた大きなポットをウェイターがテーブルに運んで来るのを見た後、渚は自分の名を名乗り、シスター・エネスとの関係を簡単に話した。
男は自分の知るエレーヌという女性が、修道女になっていた事にかなりショックを受けている様子だった。彼は自分の名を青山 京一郎と名乗ったが、シスター・エネスとの関係を初対面の渚に話すべきかどうかを考えているようだった。そこで渚も正直に打ち明ける事にした。
「実は私はシスター・エネスとはあまり仲が良くないんです。彼女はその・・・日本があまりお好きじゃないみたいで・・・。私が子供達に日本の事を教えようとすると、余計な事を教えてはいけないといつも怒られてしまうんです」
渚の言葉に青山はふと顔を曇らせると「それはきっと・・・私のせいでしょう」と答えた。
ウェイターが注いだ紅茶に口を付けると彼は目を閉じ椅子にもたれた。その後、もう長い間閉じられたままだった秘密の箱をゆっくりと開けていくように、遠い瞳をしながら語り始めた。
ー 32年前 ロンドン ー
英国王立園芸協会(RHS)主催のチェルシーフラワーショーは1913年から続く、世界で最も権威のあるガーデニングコンテストだ。毎年5月になると、世界中からガーデンデザイナーや園芸家が集まり、己の腕と技術を競う。
新進気鋭のガーデンデザイナーがデビューを飾るスモールガーデン部門。プロのガーデナー達が腕を競うショーガーデン部門。巨大パビリオンの中は100を超す園芸ディスプレイが並び、プロの園芸家や苗木商が最も関心を寄せる新苗のコンペティションなども行われ、会場であるロイヤルホスピタルの広大な敷地が美しい花と巧みの技を凝らした庭で覆い尽くされるのだ。
エレーヌの父グレゴリック・コンテビューは自宅の広大な庭をプライベートガーデンとして公開するほど、ガーデンデザインに造形が深かった。彼はプライベートガーデンの他にも夏や冬の温度変化に対応できる冷温室実験農場、新苗を作るための空調の整った大きなガラス張りの実験室を持っており、園芸大国である英国の中でもよく知られている人物であった。
そんな彼が今最も力を注いでいるのがバラの新品種の開発である。今日も彼はお抱えの庭師達が整えた庭を満足そうに通り抜けた後、バラを栽培している冷温室に入っていった。大きなガラス張りのこの室内には、たくさんのつぼみを付けたバラたちが所狭しと並んでいる。
冷温室の中央辺りでバラのつぼみの様子をしゃがんで見ていた男が、コンテビュー卿が近づいてきたのに気付いて立ち上がった。
「どうだ?カーター。ショーに出品する花の具合は」
声を掛けられたカーター・マクフェランはグレゴリックが新しいバラの開発を進める為に雇った男だ。イングリッシュローズのブリーディングに掛けては世界的に有名なD・O社に在籍していた事のある育種家だった。カーターはまだ30歳半ばだが、去年のチェルシーフラワーショーではシルバーメダルを獲得するほど腕が良く、グレゴリックも信頼を寄せていた。
「とてもいい調子ですよ。CFSではきっと観客の目を引くでしょう」
カーターは愛おしそうにほんの少しだけ花びらを覗かせているつぼみを見つめた。
「だが気は抜けん。今年は去年ブロンズを獲得したフランスのジル・クラピッシュ社が3つのフレンチローズを出品してくるし、おととしのゴールドメダリスト、スペインの育種家・・・確かジャンニーニと言ったか・・・。彼も今年の王座を奪還するために4つもの新苗を出すそうだ」
「リゴベルト・ジャンニーニは確かに強敵ですが、数が多ければいいというものではないでしょう。たった一つでもこのブルームーンレディは世界中のバラ育種家の度肝を抜く事になる。今まで作出された中で最も青いバラ。不可能と呼ばれたバラですからね・・・」
この年のチェルシーフラワーショーは5月23日から5日間開催される事になっていた。ショーガーデン部門やスモールガーデンに参加するガーデンデザイナー達は何日も前から会場に入り、それぞれの場所で思い思いの庭を作り上げていく。見応えのあるフロリストによるアレンジメントは大きなものはその空間を最大限に利用し、天井まで高く伸びた柱にたくさんの花が埋め込まれていたり、美しい器にまるでフルーツのように花が生けられていたりと様々だ。
全ての花がショーの当日に美しく花開くように調整されており、いかに彼等がこのショーの為に心血を注いでいるかを窺わせる。そして彼等が最も真剣にその情熱を注ぐのがショーの1日前だ。その日にRHSの審査委員団による賞の審査が行われるのだ。
たくさんの人々が自分の花に命を吹き込んでいく様を見ながら、エレーヌは新苗を展示するブースに向かった。すでに大手のブリーダー会社は美しい飾り付けをして、後は中心に据える新苗を運び入れるだけのようだ。エレーヌも自分達のバラが展示される場所を見て微笑んだ。
「さすがカーター。青がくっきりと映える飾り付けだわ」
青いバラはバラの育種家にとって長年の夢である。神話の時代から青いバラはこの世に存在しない物とされ、多くの育種家が夢を抱き、そして挫折を繰り返してきた。現在はバイオテクノロジーの発展によって青いバラを作り出す事は不可能ではないとされているが、それ以前はバラの交配のみによって青いバラを作り出していたため、青と言うより紫色に近いものだった。故にブルーローズはイコール不可能を意味するのだ。
それでも多くの年月を掛けて、時には人生のほとんどをその作出に掛ける育種家もいる。それほど青いバラは彼等を引きつけてならないものなのだろう。そんな育種家達の夢に思いをはせながらエレーヌは呟いた。
「あのバラを見たらきっとみんな息を飲むわ。私だって初めて見た時、びっくりしたもの」
今度こそゴールドメダルが取れるに違いない。チェルシーフラワーショーでゴールドメダルを取るのが父の長年の夢だった。その為に父が投資した資金や年月を考えると、それは至極当然の事の様な気がした。
ふと顔を上げると、大きな段ボールを台車に乗せた男がキョロキョロと辺りを見回しながら歩いてきた。見たところ英国人ではないようだ。きっとこのショーに初めて参加するので勝手が分からないのだろう。ここは常連の自分が教えてあげるべきだと思って声を掛けると、男は不慣れな英語で答えた。
「ありがとうございます。私のブースはCー703なんですが・・・」
それなら父のブースのすぐ近くだ。エレーヌは彼を案内してあげる事にした。ブースに向かいながら男は自分の名を青山 京一郎と名乗り、このショーに初めて参加する事になり日本から来たのだと告げた。
日本でも徐々にガーデニングの意識が高まってきたのを受けて、イングリッシュガーデンも広まってきているようだ。
「父の代は青山園芸という小さな園芸店を営んでいたのですが、私は庭をイギリスのように総合的にデザインしていくべきだと思い、7年前に青山ガーデンデザインという事務所を立ち上げたんです。それをやりながらずっと研究していた花がやっと完成したので、このフラワーショーにチャレンジした所、出場のチケットを手に入れられたんです」
彼もこのショーに自分の会社の未来を託してやって来たに違いない。だが初めての参加で賞を取るのはなかなか難しいだろう。ここには毎年賞の常連である大手のブリーディング会社や個人でもかなりの実力のある人間が来ている。それでもショーに参加するだけで何百ものライバルの中から勝ち上がってきたのは違いないだろうが・・・。




