4.ロンドンの街角で
アンドルーは銀行に行く前の自分と今の自分との違いを思い浮かべた。ピョンの言う通り、この冷たいベンチに座ってわずかな貯金を見ながら、どうして自分だけがこんな目に遭うんだろうと思ったのだ。ゴードン家の人間はみんな裕福で立派な屋敷に住み、何不自由ない生活をしている。なのに俺はそんな奴らにいいように使われて、給料は父の借金の為にほとんど残らない。
そんな風に考えていると、いつも陽気で皆に溶け込んでいるスティーブさえも憎んでしまいそうだった。
だが今はそんな気分が一気に吹き飛んでしまったようだった。確かに金はないけど、自分は健康でまだ若い。ピョンの言うように例え解雇されても、より自由になって何にでも挑戦する事が出来るのだ。
アンドルーは自分のコートのポケットから這い出て、服装のズレを短い手で直そうとしているピョンを見て微笑んだ。
「ピョンって、やっぱりカエルにしておくのはもったいないかもな」
「残念やが、ワイはカエルや。ちょっと他のカエルよりずる賢いけどな」
ピョンがそう言った時、向かいの銅像の向こう側から渚が現れて、ピョンが居る事に気付くと急いで走ってきた。
「ピョンちゃん!こんな所に居たの?」
「おう、ナギサ!」
走り寄った渚はピョンが直せなかったセーターをきちんと直し、彼をその手ですくい上げた後、やっと隣にアンドルーが居る事に気が付いた。
「まあ、アンドルー。どうしたの?こんな所で」
「お、お久しぶりです。ナギサ先生」
アンドルーは真っ赤になって思わず立ち上がった。渚が「お久しぶりね」と言いつつ笑顔を向けると、冷えた身体がさっき銀行に行った時よりもっと熱くなってくるような気がする。アンドルーが緊張して何も答えないので、ピョンが代わりに答えた。
「ここで散歩中のアンドルーとばったり会うてな。ポケットの中に入って暖ったまらせてもうたんや。おかげで凍えんで済んだで。サンキューな、アンドルー」
「まあ、そうだったの。ありがとう、アンドルー」
2人の礼の言葉にもアンドルーは赤くなって「はあ・・・」と答えただけだった。
「ほなら、行こか。今日はナギサの誕生日やからな。5年連続三つ星を獲得した、とびきりのレストランを貸切予約してあるで」
「え?」
アンドルーはびっくりしたように顔を上げた。
「もう、ピョンちゃんたら。無駄遣いしちゃダメって言ったでしょ?」
「たまにはええやろ。年に一度の大盤振る舞いや」
ピョンの言葉に困ったように微笑みながら、渚はアンドルーに別れを告げて歩き出した。
“何だよ。結局2人でデートって事か?俺がナギサ先生の事を好きって知ってて、わざわざそんな事を言うなんて、ピョンの奴。しかも待ち合わせの時間に早く着いたから、俺のポケットを避寒所に使ってただけじゃないか”
ふくれっ面で顔を上げたアンドルーは、この寒い季節も吹き飛ばしてしまいそうなほど幸せそうな笑顔をピョンに向ける渚を見た。その温かい手の平の上で明るい笑顔を見つめながら、あいつは何を思うんだろう。
「すぐ隣に俺が居るのに、あんな小さなあいつの事しか見えてないんだもんなぁ・・・」
アンドルーはスーツのポケットから自分のわずかな預金が記された紙を取り出して金額を見た後、それをビリビリ破いてゴミ箱に捨てた。
「いつかきっとあいつの預金を超えてナギサ先生にプロポーズして、あの笑顔を俺に向けるんだ。だから小さな事は気にしないっと」
そう呟くとアンドルーは北風に向かって歩き始めた。
その日、シスター・エネスは久しぶりにロンドンの街に出ていた。以前出かけたのがいつなのかも覚えていないほど、街に出るのは久しぶりだった。17年前、ミシェル・ウェールズのあの鉄の門をくぐってから、出来る限り外に出るのを避けていたからだ。
だが一ヶ月前に赴任したシスター・アンナは西ウェールズ地方の出身で、まだロンドンに不慣れな為、彼女の付き添いで出て来たのだった。本当ならこんな役目はシスター・エネスの次にベテランのシスター・モーリスが行くのだが、彼女は風邪を引いて39度の熱を出していた。
おまけにシスター・アンナはウィディアの代わりに赴任したのだが、彼女とは比べものにならないほどのんびりとしていて、3ヶ月経った今でもミシェル・ウェールズの中でさえ迷子になってしまう不器用さだった。一応教員免許は持っているので、以前ウィディアが担当していたクラスを任せてはいるが、不安しかないのでシスター・モーリスに副担任として補助をさせている。
シスター・エネスにとってそんな問題児(さしずめシスター・エネスにとって一番の問題児は渚だが)をたった一人でお使いにやるわけにもいかず、渋々付いて来たのだった。
しかし今、シスター・エネスは古びたレンガで出来た道の上にたった一人で立っていた。その額に青い筋を何本も浮き上がらせ、唇を怒りにぶるぶると震えさせながら、彼女は呟いた。
「有り得ない。こんな事、有るはずないわ。この私が道に迷うなんて・・・」
だが確かにシスター・エネスは道に迷っていた。人で賑わった表通りを歩いている内、さっきまで後ろに居たシスター・アンナが居なくなっている事に気が付いた。慌てて道を戻りながら探し回っている内、今度は自分が全く来た事のない道へ来てしまったのだ。
冷たい風は身を凍らせ、益々不安をかき立てた。修道女が着る黒い外套はあまりにも厚みがなく、このロンドンの寒さを防ぐには物足りなかった。シスター・エネスはコートの上から胸に下がっているロザリオをぎゅっと握りしめた。こういう時は人に道を尋ねるのが一番だろう。今はみんな携帯に地図アプリを入れているので、誰に聞いても教えてくれるはずだ。だがどの道を聞こう。さっきまで歩いていた通りか、それとも目的地である教材店か・・・。シスター・アンナはどこに居るのだろう。
ピョンの確かな道案内のおかげで渚は予約を入れてある10分前には店に着く事が出来た。レンガ建てのビルの2階にあるスペイン料理の店は、渚好みの落ち着いた雰囲気だ。店のドアまではロートアイアンの手摺りがついた階段が連なっている。
古びたアイアンの手摺りを掴んでその階段を上ろうとした渚は「あら?」と声を上げた。渚がそのままじっと立っているのでピョンは彼女の鞄から顔を出した。渚の目線の先、道路を挟んで向かい側の路上にシスターの服装の女性が立っている。よく見るとそれが渚の宿敵であるシスター・エネスだと分かった。
あんな女に関わったらせっかくの誕生日が台無しになる。それでなくても昨日持って行ったバラの花やスカートに文句を付けられ、渚はかなり不快な思いをしたのだ。それを知っていたピョンは慌てて渚に言った。
「渚、あんなおばはん、ほっといて早よ店入ろ。ワイ腹ぺこや」
「でも、何だかお困りみたいだし、声だけでも掛けた方が・・・」
「そんなん止めとき。余計なお世話やって言われるだけやで」
「でも・・・」
渚とピョンが押し問答している間に、とにかくシスター・アンナとはぐれた場所まで戻ろうと決めたシスター・エネスは、丁度通りがかった紳士に声を掛けた。チャコールグレーの品のいいツイードのロングコートを着た男は、振り向きながら深くかぶった帽子をあげた。その男を見てシスター・エネスはハッとしたように目を見開いた。
ー まさか。こんな事があるなんて・・・ ー
まるで時が止まったように自分を見つめるシスター・エネスを見て、男も驚いたように息を飲んだ。
「エレーヌ?まさか、こんな所で・・・」
しばし2人はそのまま固まったように互いを見つめていた。ピョンの反対を押し切って道路を渡ってきた渚も、声を掛けられないような雰囲気だ。
すると彼らの沈黙を打ち破るように、少し間の抜けた声が人混みの向こうから響いてきた。
「あーっ、シスター・エネス。やっと見つけました。随分探したんですよぉ」
声の主は自分のせいでシスター・エネスが迷子になったのも分かっていないようで、バタバタと足音を立てながらやって来た。
「シスター・エネス?」
男が訝しそうに声を出すと同時に、シスター・エネスは彼の脇をすり抜けシスター・アンナの方に走って行くと、彼女の腕を掴んで通りの向こうへ走り去って行った。
「あのシスター・エネスが走るなんて・・・」
渚が驚いたように声を上げた。常に冷静沈着、遅刻なんてした事のないシスター・エネスは、ミシェル・ウェールズの戒律書の第一条、第一項の通り、ただの一度も走った事はない。ドレスの裾をまくり上げて走るようなシスターは、むち打ちの刑にしてもいいと思っている。その彼女が今全く冷静さを失って、まるで少女のように駆け出して行ったのだ。
呆然としている渚にピョンが鋭く声を掛けた。
「渚、あの男や。あの男を捕まえるんや」
「つ、捕まえるって・・・どうして?」
「あの男、シスター・エネスの昔を知っとる。多分シスターになる前のな。見たところ日本人や。渚が日本語で話しかけたら、すぐ引っかかるで」
男性を引っかけた経験は無かったが、シスター・エネスの過去には渚も興味があった。ピョンの言う通り、ため息をついて歩いて行こうとした男に後ろから日本語で声を掛けると、彼はすぐに振り返った。
シスター・エネスの同僚だと伝えると、彼も彼女の事を聞きたかったのか、近くのカフェで話そうという事になった。
もちろん渚と男が話している間に、ピョンは彼女の鞄の中にある携帯から予約しておいた店に1時間ほど遅刻すると連絡を入れるのを忘れてはいなかった。




