2.魔女の夜回り
寒い中、歩いて家まで戻って来た渚は、震えながら鞄の中からキーを取りだし玄関の鍵を開けた。
「ただいま、ピョンちゃん」
いつものように廊下を通ってキッチンを覗くと、ピョンが調理台の上で今日の夕食の魚介類のマリネに使うドレッシングを作っていた。彼は当然冷蔵庫などは開けられないが、最近調理台の上にある物で作れる物を使って渚を手伝ってくれるようになった。きっと仕事で疲れて帰ってくる渚を気遣っているのだろう。渚が作ればすぐに出来る事でも一生懸命手伝おうとしてくれる、そんな心遣いが渚は嬉しかった。
夕食を食べながら渚は今日の学校での出来事をピョンに話して聞かせる。これはいつもの夕食風景だ。
「今日はね、冬休みの宿題を発表して貰ったの。凄いのよ。誰も忘れた子が居ないの。日本ならきっと何人かはまだやっていない子も居ると思うわ」
「それで、宿題の出来は良かったんか?」
「ええ、もちろん!」
ピョンの質問に渚は自慢げに答えた。
「特に6年生のクラスは凄かったの。難しい漢字や表現を一杯使っててね。そうそう、ウェンディが発表した詩がとても面白くってクラス中が笑いの渦だったの」
「へえ、それでシスター・エネスは怒鳴り込んでこんかったんか?」
「その時はね。でも後で“あなたの行くクラスは必ず何か起こるのですね”って嫌味言われちゃった。それでこう答えたの。“ええ。とっても素敵な何かですわ”って」
食事をしながら楽しそうに話す渚を見て、ピョンは随分渚も逞しくなったと思った。以前はシスター・エネスに何か言われる度に泣いていたものだ。そういえば、新年の朝もウィディア達に雑煮(あれは非常にうまかった)やおせちを振る舞いながら渚は両親と共に過ごした正月の話をしていたが、涙を見せる事は無かった。今思えば、あの夜、ウィディア達が来てくれて本当に良かったと思う。自分と2人きりだったら、渚はやはり両親の事を思い出して寂しい思いをしていただろう。
パスタを食べていた渚はふと思い出したように言った。
「そうだ、ピョンちゃん。今週の金曜日、又夜回りなの。一緒に行ってくれるでしょ?」
ピョンはグリーンサラダのレタスをまるでせんべいを食べるように両手で持ってバリバリ食べながら渚を見上げるとニヤッと笑った。
「渚一人やったら、お化けが襲って来るかもしれへんからなぁ」
「もう、ピョンちゃんの意地悪!」
口をとがらせて言うと、渚はミニトマトをピョンの口の中へ押し込んだ。
金曜日は朝から暗い雲が低く立ちこめ、時々小さな花びらが舞うように風花が空を舞っていた。こんな日はビッグベンの音まで重苦しく鳴り響き、昔の人々が“魔都ロンドン”とこの大都市を呼んだのもうなずける。
アーノルドは朝から憂鬱であった。寝坊はしたが、何とか朝の礼拝には間に合ったのに、シスター・エネスと入り口の所で思い切りぶつかってしまい、散々怒られた後、苦手な賛美歌をみんなの前でフルコーラスで歌わされた。
ランチを食べようとトレイを持って並んでいたら、丁度彼の前で好物のミートコロッケバーガーがなくなってしまい、やけにアジアンテイストのスパイスのきいたピロシキ ーいや、あれは揚げパンと呼ぶべきかー とにかくアーノルドの好きになれない味の物に変えられてしまった。
午後からの授業はもっと悲惨だった。ちゃんと宿題をやって来たはずなのに、よりによってあのプードリー・オルバインのフランス語の授業で開いたノートの中身は真っ白だった。どうやら宿題をやっている間に眠ってしまい、夢の中で宿題を仕上げてしまったらしい。夢の中のノートには完璧なフランス語が並んでいたはずなのに・・・。
そして今、そう。この憂鬱な一日の締めくくりに、彼は最も憂鬱で惨憺たる夜を迎えたのである。
ー 何で、何で僕はこんな所に来てしまったんだ・・・? ー
ミシェル・ウェールズの夜回りは午後11時から行う事になっていた。夜の10時30分を過ぎると、渚は身体が冷えないよう、セーターの上にフリースの防寒着を着、その上から分厚いウールのコートを着込むと、同じく緑の防寒着に身を包んだピョンをコートのポケットに入れてミシェル・ウェールズに向かった。
これから一番寒い時間を迎える通りは、まるで凍り付いたように静まり返っている。渚は走って表通りに出るとタクシーを拾った。いつもバス停まで歩く歩き慣れた道であるし、ロンドンは夜の治安もいいのだが、深夜女性が一人で出歩く事をピョンが良しとするはずがなかった。
渚を乗せたタクシーがミシェル・ウェールズの門の前に止まった頃、アーノルドはミゲルの部屋で11時が来るのをじっと待っていた。
「そろそろ行こうか」
そう言って立ち上がったミゲルは異常なまでに厚着をしていた。ウールのコートの上から更に毛皮のコートを羽織り、まるでビア樽のようであった。
「ミゲル。いくら寒いからと言ってもそんなに着込んだら、身動きが取れないんじゃないか?」
「仕方ないだろ?フォード家の跡取りは風邪をこじらせたり出来ないからね」
彼の言うとおり、ミゲルはイギリスの名門ストラット・フォード家の一人息子だ。だからたとえこのミシェル・ウェールズで何か問題を起こしてもストラット・フォードはその名と財力で全てをもみ消してくれるだろう。
ー だが、僕はどうだ? ー
アーノルドはミゲルの後ろに付いて廊下を小走りに走りながら、やはりどんな事をしてもミゲルを止めるべきではなかったかと後悔の念に襲われた。
アーノルドはイエ-リー家で6番目の子供である。彼の上にはこのミシェル・ウェールズを優秀な成績で卒業した兄が3人も居て、当然彼はイエ-リー家の息子と言うだけの存在だった。何かここで問題を起こしたりしたら、やれイエ-リー家の名に泥を塗っただの、やっぱりお前はダメだなと立派すぎる兄や姉達に落ちこぼれのレッテルを貼られ、もしこのミシェル・ウェールズを退学にでもなれば、当然勘当等という事態にもなりかねなかった。
やっぱり戻った方がいい。いや、戻るべきだ。だって今日は朝から付いてない事この上ない一日だったのだから・・・。
「ねえ、ミゲル。やっぱり・・・」
「シッ!」
2号館から本館へ向かって歩いていたミゲルは礼拝堂の中へ入っていく渚を見つけて、アーノルドの腕を掴んで木の陰に隠れた。
「ナギサ先生が礼拝堂に入った。もしかしたら歌が聴けるかも知れないぞ」
嬉しそうに目を輝かせている親友に、なぜこの状況でそんな顔をしていられるのかと尋ねたくなるアーノルドだったが、やはりそんな彼の顔を見ると、帰ろうとは言えなくなってしまった。
それにしてもどうしてミゲルは、これほどまでにナギサ先生が魔女かどうかを確認しなければならないのだろう・・・。
渚は重い音できしむ自分の身長の倍もあろうかという礼拝堂の木製のドアを開けた。いつもならたくさんあるステンドグラスの細長い窓から月の光が青白いベールのように差し込んで来るのに、今夜の灰色の重苦しい雲はそんな弱々しい光を全て遮ってしまっていて、礼拝堂の中は暗く静まりかえっていた。渚はドアからまっすぐに前に伸びた通路を歩いて像の前に跪くと、胸の前で手を組んで祈り始めた。彼女はいつもこうやってから夜の見回りを始めるのである。
「今夜も無事に夜回りを終えられますように。怖いお化けや魔女に出会ったりしませんように」
自分が魔女かも知れないと疑われているとはつゆ知らず、渚は小さな声でそう祈ると立ち上がった。




