1.彼女は魔女?
長いクリスマス休暇が終わると、家族と別れを告げて子供達が再びミシェル・ウェールズに戻ってくる。愛する家族と又しばらく会えなくなるのは寂しいが、それでも仲の良い友人達との再会で子供達も笑顔を取り戻したようだ。
渚も教室のドアの前で「さあ、今年も頑張るぞ!」と気合いを入れると、新年最初の授業に臨んだ。
「みなさん。明けましておめでとうございます。イギリスでは新年の挨拶はありませんが、日本ではこう言うのよ。みんな、クリスマスは楽しく過ごせた?」
相変わらず返事はないが、渚の質問に生徒達はキラキラした瞳を向けている。渚は全員の顔を見回すと、“OK みんな楽しかったみたいね”と一人納得した。近頃渚は生徒と目で会話が出来るようになったらしい。彼らが一生懸命『うん。先生。楽しかったよ!』と訴えてくるのが分かるのだ。
「さあ。それでは皆さんには一つだけ宿題を出していました。日本語で詩を書いてくる事でしたね。今日はそれを全員に発表してもらいましょう。ではアーノルド・イエーリー」
名前を呼ばれたアーノルドは内心チェッと舌打ちした。いつもこういう時はAから始まるアーノルドが一番最初に名前を呼ばれる。ウェンディなんてWだからいつも最後なのに、不公平だといつもアーノルドは思っていた。だが呼ばれた以上は仕方が無い。ちょっと口をとがらせながら席を立とうとした時だった。
「・・・と思ったけど、今日は一番後ろから行こうかしら。ウェンディ・クリプトン」
「え?は、はい」
急に渚が指名を変えたので、ウェンディは面食らったように立ち上がった。いつも一番最後に自分の順番が回って来るので油断していたのだ。
ウェンディは緊張した顔でノートを広げると、詩の朗読を始めた。
ー 君の瞳を何に例えよう。晴れ渡った日の空。何処までも続く青い海。
君の声を何に例えよう。絶え間なく聞こえるさざ波の音・・・・ ー
ウェンディの詩の朗読を聞きながらアーノルドはちらっと渚を見た。
“これは偶然か?それとも・・・”
アーノルドは以前、別のクラスの友人であるミゲル・ストラット・フォードから妙な話を聞いた事があった。
「アーノルド。ナギサ先生って、もしかしたら魔女じゃないかな」
“魔女?この現代に?”
あの時はそんな馬鹿な・・・とミゲルの言った事を笑い飛ばしたが、さっきのナギサ先生は、まるで僕の心の中を読んでいたみたいじゃないか。そういうのは魔女ではなく、超能力者等というのだろうが、ミゲルが渚を魔女かも知れないというのには、他にも理由があった。
「ナギサ先生はカエルを飼ってるって知っているだろ?そのカエルがしゃべるカエルって噂もあるんだ。カエルがしゃべるんだよ?それはつまりカエルの姿をした使い魔(悪魔や魔法使いが自分に使役させる為に使う自分より力の弱い小悪魔)じゃないかって僕は思うんだ」
確かにしゃべるカエルを飼っているなんて、魔女以外に考えられない。そう思ってアーノルドが渚の方を再び見た時、渚と目が合い、彼女がニッと笑ってその目を細めたのが分かった。
“い、今の微笑みは何なんだ?”
アーノルドは青くなって思わず下を向いた。
『私が魔女だって気付いたわね』・・・か?それとも『もし他人に私の正体をバラしたら、魔法でカエルに変えてやるわよ』・・・か?
アーノルドが真っ青になって考え込んでいる間にもウェンディの詩の朗読は続いていた。
ー お前が大好きなにんじんを食べる姿はあまりにも豪快で、時々手まで食べられるかと心配になるけれど、それでもいいわ。私のジョニー。お前が馬でも愛しているもの ー
ウェンディの美しい詩のオチに、クラスの子供達は一斉に大笑いした。そんな中、アーノルドだけはうつむいて冷たい汗を流していたが・・・。
渚は生徒達の笑い声を止めようとはしなかった。たとえ今シスター・エネスが飛び込んできて、「何の騒ぎです!」と叫んだとしても・・・。
「素晴らしいわ、ウェンディ。あなたのジョニーに対する愛情が伝わってくる様な素敵な詩ね。それに絶え間なく、とか豪快に、とか難しい表現もうまく使いこなせているわよ」
渚の褒め言葉に嬉しそうに頬を赤らめると、ウェンディは席に着いた。
学園のシンボルである礼拝堂と全寮制の初等部で成り立つこの巨大な学校は、厳しい戒律によって常に静寂さを保っている。特に授業中は静かで、本当にこの建物の中に何百人もの人間がいるのかと疑わしくなる程だった。だが渚の授業ではさっきのウェンディの詩のように少しぐらい羽目を外した文章を作っても叱られる事は無い。
渚は決して生徒の自由な発想を妨げる事はしなかった。彼女はいつも生徒に自由な発言を求めた。最初、子供達はそれが嬉しくて渚の授業の時、大声で発言してみたり渚の質問に全員で大きな声で答えたりした事もあったが、その度に渚がシスター・エネスに呼び出されお叱りを受けているのを知った彼等は、もう彼女の授業の時にはしゃいだりするのを止めたのだ。
そのかわり、彼等は一生懸命目や態度で渚の質問に受け答えする事にした。彼等は自分の為ではなく渚の為に戒律に従っていたのだ。子供なりに大好きなナギサ先生を守っていたのである。そしてそれこそが半年以上かけて渚が生徒達と築き上げた絆だった。
近頃温かい日が続いていたロンドンは、年明けと共に厳しい寒波に見舞われた。今まで何とか木々にとどまっていた落葉樹の葉は一斉に舞い落ち、マフラーや分厚いコートで身を包んだ人々が行き交う道の上を北風にあおられながら滑っていく。
ミシェル・ウェールズの広い校庭も例外ではなく、裸になった木々が風の吹きすさぶ中、寒そうに枝を揺らしていた。
渚とマリアンヌもしばらくは外でのお茶会を中止にせざるを得なかった。この寒さではせっかく紅茶を入れてもすぐに冷めてしまうだろう。
そんなほとんど誰も出てこない校庭の銀杏の大木の下で、アーノルドは友人のミゲルが来るのを待っていた。もう夕日が周りに敷き詰められた石畳の道を照らし出す時間になっている。ふと彼が目線を上げると、白い息を切らしながらミゲルが走って来るのが見えた。
「遅かったじゃないか、ミゲル。凍え死んじゃうかと思ったぞ」
「ごめん。暴君プードリー・オルバインに捕まっちゃってさ。休暇中の宿題の出来が悪いって」
プードリー・オルバインというのはフランス語の教師である。彼は渚のように外から通っているが、期間講師ではなく常任の教師であった。ただ当然暴力などは使わなかったが、出来の悪い生徒や気に入らない人間には言葉の暴力で散々痛めつける事をいとわない様な人間だった。
「フランス語の宿題?ミゲルは今回バッチリだって言ってたじゃないか」
「あの先生は僕の事が嫌いなんだよ。きっとナギサ先生の事も嫌ってるね」
「何で?」
オルバインと渚の仲が悪いという噂は聞いた事がなかった。オルバインはもう54歳だし、渚の様な若い教師と関わる事はあまりないはずだ。ミゲルは驚いたような顔で尋ねるアーノルドにニヤッと笑って両の手の平を上に向けた。
「そりゃあもちろん、ナギサ先生の方がフランス語が上手だからさ」
なるほど。あの男なら、そんな理由であの優しい先生の事も嫌いになるだろう。アーノルドはそう思いつつ、今日の授業での出来事をミゲルに話した。彼はやっぱり・・・というふうに頷くと、吹き付けてくる冷たい風にぶるっと身を震わせた後、じっと立っているのがたまらなくなったのか、彼らの寮である2号館に向かって石畳の上を歩き始めた。
「アーノルド。僕、確かめてみようと思うんだ」
突然親友の吐いた決意めいた言葉に、アーノルドはふと不安を覚えて彼を見つめた。
「ナギサ先生はシスター・エネスの意地悪で、いつも一人で夜回りをさせられているだろ?その時いつも誰かと話しているみたいだって、以前シスター・モーリスがシスター・ヴィロネスに言ってた事があるんだ。それって僕はカエルと話しているんじゃないかって思った。それに礼拝堂でナギサ先生一人なのに、ナギサ先生じゃない声が聞いた事の無い言葉で歌っていた事もあるって・・・」
なんだか随分オカルトめいた話になってきたなとアーノルドは思った。聞いた事の無い言葉ってなんだ?悪魔の言葉か・・・?
実はこの手の話は苦手なのだ。アーノルドは寒さとは別に背中にゾクッと何かが走るのを感じて思わず身震いをした。ミゲルは2号館の扉の前まで来ると、その前で辺りを窺うように見回した後、アーノルドの耳に誰にも聞こえないよう囁いた。
「今週の金曜日、ナギサ先生が又一人で夜回りをするんだ。アーノルド。二人でナギサ先生を付けてみないか?」




