1.友人達の訪問
渚はその黒い瞳以外はイギリス人の父の血を受け継いだせいか、このロンドンに居ても日本人に見られる事はまず無い。ただ身長はロンドンッ子らしからずだが・・・。しかし彼女の中身は純日本人らしく、こちらに移って来た時、土足用のフローリングには全て絨毯を敷き詰め土足厳禁にし、冬にはリビングにわざわざ日本から取り寄せたこたつを置いている。
彼女はウィディアとの旅行から戻ってくると、休む暇もなく家の大掃除を始めた。元々きれい好きの渚が休みの度に掃除をしているので特に汚れた所はないがこれは彼女にとって年間行事らしく、小さな脚立まで購入して来て換気扇からライト、天井に至るまで磨き立てた。それが終わると日本食を扱っているスーパーに行き、食材を色々買ってきておせち料理を作り始めた。
そんな渚の様子をぽかんと見ていたピョンであったが、渚が料理を作り始めると、調理台の上に乗って出来上がるのをじっと見つめている。いつものように隙があったら味見をしようと思っているのだ。
だが今までピョンに何度もつまみ食いをされている渚は彼の口を塞ぐ手段も心得ていた。
「ピョンちゃん。ごまめの味見をしてみる?」
「ゴマメ?何や、それ」
ごまめ(または田作り)はカタクチイワシの稚魚を干した物に、砂糖、醤油、みりんを加えて甘辛く煮詰めた物で、干し魚の為か少し固い。人間で少し硬いのだから、カエルには相当硬いのだ。
ピョンが手をベトベトにしながらその小さな魚と格闘している間に、渚は他の料理を全て作り上げてしまった。
黒い重箱の中に綺麗に盛り付けられた料理を見てピョンは「わーい、おせちや、おせち!うまそうやな」と喜んだが、渚は「ピョンちゃん。おせち料理はお正月に食べるのよ。今日は食べないの」と告げると、がっくり肩を落とした。
「じゃあ、今日は何を食べるんや?」
「今夜は年越しそばを食べるのよ。それから・・・、そうかぁ。“ゆく年〇る年”見れないんだ。でも初日の出は一緒に見ようね」
「うん!“トシコシソバ”も“ユクトシ”も“ハツヒノデ”も一緒に食おな!」
「ピョンちゃん。あとの2つは食べ物じゃないよ・・・」
ロンドンの年末は新しい年を皆で迎える為に、大勢の人々が繰り出し、街は人であふれかえる。人々は新しい年の0時前からカウントダウンをして0時になったら周りの人々とキスを交わし、新しい年を祝うのだ。だがインドア派の渚はそんな人混みに行く気など毛頭無く、ウィディアにも誘われたが、ピョンが潰れてしまうかもしれないので断ったのだ。
ピョンは熱い蕎麦は食べられないので、彼の分はざる蕎麦にした。(ざるが無いので皿蕎麦だが)
2人分の蕎麦をトレイに乗せてリビングに入ると、ピョンが初めて食べる“そば”とはどんな物か目を輝かせてこたつの上に登って待っていた。
「お待たせ、ピョンちゃん」
蕎麦を下ろそうとした時、ドアのベルが鳴って来客の訪問を告げた。
「誰かしら。こんな時間に・・・」
蕎麦の皿が目の前まで降りてきたのに、渚が再び皿をトレイに乗せてキッチンの方へ行ってしまった事にピョンはショックを受けた。
「ワイの年超しそばぁぁぁ・・・」
こんな遅い時間に誰かが来るとは思えなかったので、渚は用心深くドアスコープから外を覗いた。ドアから玄関のゲートまでは3メートルある。だが玄関灯に照らされたドアの前にも薄暗いゲート前にも誰も居なかった。
「渚、どないしたんや?はよ蕎麦食お。伸びたらうまないで」
「ね、ねえピョンちゃん。誰も居ないの。お、お化けかな・・・」
ドアを指さして青い顔をしている渚にため息をつくと、ピョンは彼女の身体から飛び上がってドアのスコープを覗いたあと、すぐに飛び降りた。
「渚!開けたらあかん。蕎麦食うで!」
「え?ピョンちゃん?」
慌ててキッチンの方へ飛び跳ねていったピョンを見た後、渚はもう一度外を覗いて「あ!」と声を上げた。急いでドアを開けると、真っ先に渚に飛びついて来たのはティアナだった。その後ろに少々ふてくされた顔でエドウィンが立っている。そして勿論ティアナの世話係兼ボディガードのスティーブとアンドルーも居た。
「ティアナ。エドまで、どうしたの?」
驚いて尋ねる渚に抱きついたままティアナが言った。
「パパとママね。ニューヨークでお偉いさん達のパーティがあるって昨日行っちゃったの」
ティアナの説明不足をスティーブとアンドルーが補った。
「申し訳ありません、ナギサ先生。こんな夜分にお邪魔しまして・・・」
「何分お嬢様が先生を驚かせたいので連絡を入れるなと。さっきもインターホンを鳴らしておいて姿を隠したりして申し訳ありません」
「はあ・・・」
面食らった顔をしている渚にティアナがニコニコしながら言った。
「びっくりした?そうそう、この売れない雑誌記者さんも、どうせ暇でしょうからついでに連れてきてあげたのよ」
ティアナの暴言にエドは真っ赤な顔をして叫んだ。
「“売れない雑誌記者”ってのと“どうせ暇”と“ついでに”が余計だよ!」
「あら。どうせクリスマスも独りぼっちだったんでしょ?せっかく先生の所で新年を迎えさせてあげるんだから感謝しなさいよ」
「何が“迎えさせてあげる”だ!アパートで寝ている所をたたき起こしやがって!」
玄関先でこんな夜中に騒いでいると、隣近所から文句を言われそうなので、渚はとにかく4人を部屋に通した。ティアナはやっとの事で蕎麦の皿に辿り着いたピョンが今まさに蕎麦を食べようとしているところをすくい上げ「久しぶり、ピョンちゃん!」と言った。無論ピョンが、“何でドア開けたんや、渚ぁ・・・”という情けない顔をしていたのは間違いない。
渚は一度も日本の蕎麦を食べた事のない彼等に自分の蕎麦を4等分にして渡すと、軽い食事を用意する為にキッチンに入って行った。すると再び玄関のインターホンが響いて、玄関に行った渚は今度は躊躇無くドアを開けた。渚の名前を呼びながら首に抱きついて来たのはウィディアだった。
「ウィディア?ビッグベンのカウントダウンイベントに行くんじゃなかったの?」
「だって、ナギサも来ないし。イギリスでは年超しは友人同士でパーティをして過ごすものよ。それにこの子と行ってもねぇ」
「え?」
背の高いウィディアの後ろにまるで隠れるように遠慮がちに男の子が立っているのに渚は初めて気が付いた。茶色の巻き毛に薄いブルーの瞳、年は16、7歳くらいだろうか。こんな夜中にもきちっとしたスーツを着ている姿はいかにも育ちのいいお坊ちゃんのようだ。
「もしかして・・・あなたがマイケル?」
「は、はい。マイケル・コーリングです。ウィディアさんからナギサさんのお噂はかねがね・・・」
「もう、マイケル!その堅苦しい言い方は止めなさいっていつも言ってるでしょ?」
マイケルの挨拶を途中で遮ると、ウィディアはムッとしながら家の中へ入って行った。
「す、すみません、ウィディアさん」
落ち込んでいるマイケルに渚は優しく微笑むと「どうぞ、マイケル」と行って彼を招き入れた。




