6.カエル騒動
ここは・・・どこだろう。草一本生えていない荒野の中で彼は目を覚ました。周りは焼け焦げた石や岩が、ただゴロゴロと転がっているだけだ。息苦しさを覚えながら立ち上がった彼は、遠くにかすむように見える巨大な山を見つめた。
「もしかして、プロポネス山?じゃあここは・・・アルセナーダ・・・?」
そう呟いた途端、この国に起こった悲劇が彼の頭の中に蘇った。国中を襲った激震、それに誘発されたプロポネス山の噴火。激しい火の粉と火山灰が国中に降り注ぐ。
助けを求めて逃げ惑う人々を襲う火砕流。揺らぐ大地に飲み込まれていく家畜や家々。美しい緑の木々は一瞬で焼け尽き、国中から恐怖の叫び声が沸き起こった。
「やめろ!やめてくれっ!」
恐ろしい記憶に押しつぶされるように、彼は頭を抱えてその場にひざまずいた。
ー 苦しむがいい。己の傲慢と愚かさを悔いながら、永遠に苦しみ続けるのだ ー
「やめろぉぉぉーっ!」
自分の叫び声に、ピョンはハッと目を覚ました。どうやら借りてきた本を読みながら寝てしまったようだ。読んでいた本の見出しには『幻の国、アルセナーダ帝国』と題名が付いていた。
彼は小さくため息をつくと、アルセナーダという文字の上にそっと手を置いた。
日曜になった。鼻歌を歌いながら楽しそうに野外授業の準備をしている渚を、ピョンはうらやましそうにじっと見上げた。
「ええなあ。やっぱりワイも行きたいなぁ」
だが渚は急に厳しい目をピョンに向けた。
「ピョンちゃんは駄目!」
「な、なんでそんな怖い顔して怒んねん」
「だって、ミシェル・ウェールズの中は未だに中世さながらなんだよ。ピョンちゃんがしゃべるカエルだって分かったら、絶対悪魔が乗り移ってるとか言われて火あぶりにされちゃうんだわ!」
渚は胸の前で両手を組んで、大げさにおびえて見せた。
「ああ、そんなことは何回もあったで」
「え?」
「昔はよう信用できそうなねーちゃんに声かけとったからな。けどみんなキャアァッて叫んで逃げてまうか、警察呼ばれて捕まりそうになるか。見世物小屋に売られた事もあったで。すぐに逃げたったけどなー」
カッカッカッと喉を鳴らしながら笑っているピョンは、どうやら大変な人生を歩んで来たようだ。
それにしても信用できそうな女性にすぐ声をかけていたとはどう言う事だろう。そういえば初めて会った時もそんな風に声をかけられたが、もしかしたらピョンは人間の女性が好きなのだろうか。もしかして遊び人?いや遊びガエル?なのかしら。
渚が口に手を当てて自分を横目で見ているので、ピョンは「ん?なんや」と尋ねた。
「う、ううん。何でも無い。とにかく絶対に着いて来ちゃ駄目よ。いい子でお留守番してて。いいわね」
「ちぇーっ、渚のけちんぼ。けちんぼー」
「絶対駄目!」
アパートを出た渚は、下から自分の部屋の窓を見上げた。ピョンの落ち込んだ顔を思い出すと、ちょっと可哀想だったように思う。だがやはりミシェル・ウェールズは危険だ。ピョンには今日の夜、おいしい晩ご飯を作ってあげよう。
渚は小さく微笑むと、手に持った鞄を肩にかけ歩き出した。
そんな渚の気持ちなどお構いなしのカエルは、このあいだ脱出を謀った、天井近くの小窓に向かって壁をよじ登っていた。
「ふん。何が“いい子でお留守番”や。子供やないでー」
野外授業は1号館の東側にある芝生広場で行われた。ホワイトボードの前に立った渚はにっこり微笑んで30人あまりの生徒を見つめた。初めて体験する野外での授業に子供達は皆わくわくしているのか、教室の中で見るよりずっと生き生きとした顔をしている。
生徒達の後ろにいる数人のシスターの中にいたウィディアとマリアンヌが、渚に“頑張って”と手を振って合図した。小さく頷くと渚は授業を開始した。
「さあ、みなさん。今日は野外授業です。ここは教室ではないから大きな声で返事をしても大丈夫ですよ。みんな、分かった?」
だがまだみんな戸惑っているようだ。もじもじしている生徒を見て、渚は更に続けた。
「何か質問がある時は、大きく右手を挙げて『はい、先生』と言ってね。説明の途中でもかまわないわよ。みんな、いいかな?」
その時、まだ戸惑っている生徒の中でたった一人、立ち上がった女の子がいた。以前渚に富士山の話を聞きに来た5人の生徒の内の一人、サラ・ブライトンだ。クラスの中でも一番おとなしいと評判の彼女の行動に、周りの友人達はびっくりしたように顔を上げた。
「はい、先生。分かりました」
サラの声は少し震えていたが、それでもしっかりとしたよく通る声だった。渚はにっこり微笑んで「ありがとう、サラ」と言うと、ボードに文字を書き始めた。
「アシタハヨイテンキデス。これを漢字を入れて書くと・・・こうなります。さあ、みんな、声を出して読んでみて」
『明日は良い天気です』
「そう。とっても上手よ。じゃあ、次は・・・」
渚がボードに次の文字を書いた。
「これを読める人は居る?」
「はい、先生」
「どうぞ。ジョナサン」
「キノウハ・・・アメデシタ」
「Perfect!素晴らしい発音よ。じゃあ、みんなでもう一度」
『昨日は雨でした!』
生徒達の楽しそうな声を聞きながら、ウィディアは隣にいるマリアンヌに「大成功ね」とささやいた。
「でも日本語って難しいのね。中国語とも全然違うし」
「あら、私は“アリガトウ”と“コレ安クシテ”は分かるわよ。日本に旅行に行く時は、この2つが話せれば結構イケるって何かで読んだわ」
ウィディアがにやりと笑って片目を閉じた。
授業が進むにつれて、だんだん子供達も大きな声を出せるようになってきたようだ。自分の言葉に皆が手を挙げて「はーい!」と返事をするのを渚は嬉しそうに見つめた。
ー 良かった。みんな、とっても楽しそう ー
明るい日差しの中で子供達の笑顔が輝いて見えた。
「Fatherはお父さん。Motherはお母さんでしたね。ではこれを読んでみましょう」
渚が書いた文字を子供達が大きな声で読み上げた。
『お父さん。お母さん。私は元気です』
子供達の明るい声を聞きながら渚は青い空を見上げ、きっとそこから見守って居るであろう両親に呼びかけた。
ー パパ、ママ。私は元気です。私は頑張っています・・・ ー
午前の授業が終わると、皆でランチタイムだ。イギリスのお弁当は日本のように可愛いお弁当箱に栄養価の高いメニューが彩りよく入っているわけではなく、プラスチック製のランチボックスにハムやチーズなどのサンドイッチや、まるごとリンゴ、コーラとサラダなどが定番だ。リンゴは日本のリンゴよりかなり小さく、ランチボックスにすっぽり入る。
そこに更にチョコレート菓子やポテトチップス(英国ではクリスプと呼ばれる)などを持って行くのだが、当然全寮制のミシェル・ウェールズの生徒達にはそれを作ってくれるお母さんは居ないので、デリバリーを頼んだ。メニューは似たようなものだが、みんなと外で食べる食事は特別な物になるだろう。
だが渚の分までは学校から支給されないので、自分で弁当を作ってきた。せっかくだから日本のお弁当を見てもらうのもいいだろう。イギリスの人たちは日本人のお弁当を見ると、大抵その手の込んだ中身に驚いて写真を撮るそうだ。
渚は生徒達のために手の凝った料理をたくさん詰め込んできた。きっと生徒達の歓声が上がり、我先にと飛びついて食べてくれるだろう。ほくそ笑みながら持ってきたバスケットの蓋を開けた時だった。
勢いよくバスケットの中から何かが飛び出し、それは渚の後ろに居た若いシスターのランチボックスの中に飛び込んだ。
「きゃああぁぁっ!」
彼女は叫び声を上げ、手に持ったランチボックスを放り上げた。すると中に入った何かも再び飛び出し、又誰かのランチボックスへ・・・。なごやかにランチを楽しんでいた子供達も大騒ぎになった。
驚いて顔を上げた渚の目に、サンドイッチやリンゴをばらまきながら飛んでいくランチボックスと黄緑色の大きなカエルが映った。
「うそ・・・。ピョンちゃん?」
びっくりして立ち上がったが、空を飛んでいたカエルは再び別の女生徒の弁当に入った。
「きゃぁっ!」
たくさんのランチと共に空を飛ぶカエルが降ってくる度に、あたりは騒然となった。
「何事ですか!この騒ぎは!」
ドレスの裾を持ってシスター・エネスがその場に駆けつけた時、ちょうど思い切りジャンプしてきたピョンが彼女の顔に張り付いた。さすがの気丈なシスター・エネスも、その気味の悪い感触に、その場で気を失ってしまった。
「シスター・エネス!!」
このカエル騒動で、せっかくの野外授業は中断せざるを得なかった。校長室に呼ばれた渚はやっと気が付いたシスター・エネスの逆鱗に、ただうつむくしか出来なかった。
「一体全体、あなたは何を考えているのですか!」
「も・・・申し訳ありません」
シスター・エネスの額には怒りの為にいくつもの青筋が立ち、目も血走っていた。
「学校にカエルを持ってくるなんて、子供じゃあるまいし。いいえ、我が校の生徒にそんな愚かな事をする人間は一人もおりません!全く、あなたという人は・・・!」
「申し訳ありません。ちゃんと家に置いてきたつもりだったんです」
「言い訳はよろしい!あなたは謹慎です。しばらく家で反省しなさい!」
謹慎・・・。あまりに厳しい処分に渚は助けを求めるように校長を見たが、彼女もあきれたようにため息をつくだけだった。
「あなたという人間を信じて、大切な生徒を預けた私自身に怒りを感じます」
校長の冷たい言葉に渚は何も言い返せず、帰宅する他はなかった。