3.ピクニックと銃声
久しぶりに帰ってきた愛娘とその客達の為に広いダイニング・テーブルに所狭しと素晴らしい食事が並んだ。サラもご機嫌が直ったらしく、渚の横でにこやかに食事を口に運んでいる。
「ピョンちゃんは何を食べるのかしら」
マーシャ夫人が渚に尋ねた。
「彼はグルメなので、人間と同じ物を食べるんです。ただ熱すぎる物はダメですけど」
「それじゃあ、冷たいスープを用意しましょうか」
「いえ、お皿を一枚いただけましたら、私の物を分けますので・・・」
小さな皿を貰うと、渚はそれに少しずつ自分の料理をより分けた。ピョンがそれを行儀良く手で持って食べているのを見て、エネディスとマーシャは「さすが、ナギサ先生の飼っておられるカエルですね」と再び感心した。
「侯爵も奥様も私の事はナギサと呼んで下さい。ウィディアもウィディアでいいわよね」
「ええ。もうミス・オースティンなんて堅苦しくって」
夫妻は声を上げて笑うと、自分達の事も名前で呼んでくれるよう渚とウィディアに言った。
夕食の後、ウィディアは渚の部屋に遊びにやって来た。仲の良いサラの家族を見て、両親が懐かしくなったのであろう。2人は渚のポケットアルバムを見ながら昔話に花を咲かせた。
「キャー、かわいい!ナギサ、これいくつの時?」
「4つの時のクリスマスよ。このサンタさんのワンピース。どうしても欲しくておねだりして買って貰ったの」
「ナギサのママ、美人!あんたいいわね。ママのいい所とパパのいい所を全部貰ってるわ」
「そ、そうかな・・・」
それから渚の小さい頃の話から両親のなれ初めまで、ウィディアに求められた。
渚の両親は母の詩織がロンドン留学中に出会ったらしい。2年の留学期間を経て日本に帰る事になった詩織だが、それをどうしても引き留めたくて、父のリチャードは彼女にプロポーズした。だからほとんど日本に帰る事なく、そのまま詩織はロンドンで生活する事になった。
しかし渚が8歳の時、神戸に住んでいる詩織の母の具合が悪くなり、リチャードが元々日本に住みたかったのもあって、彼らはロンドンを離れ日本に永住する事を決めた。リチャードにはもう孝行できる親は居ないので、彼等にとってたった一人の母の側に居てあげようという事になったのだ。だがその母も今は亡くなり、リチャードと詩織の死後、渚には親しい家族は誰も居なくなってしまった。
そんな中、リチャードと以前から親交のあった木戸教授夫妻が渚の面倒を見てくれるようになった。もともと渚が古代語に興味を持ったのも、良く家に遊びに来ていた木戸教授の影響があったのだ。彼は日本でも有数の古代語学博士で、彼が在籍しているからと渚は高校をスキップしてまで啓成学院大学に入学する事に決めたのだった。
「あんたも色々大変な人生だったのねぇ」
ウィディアが渚の昔話を聞いて、ため息をつきながら言った。
「でもあんたはまだ恵まれてるわよ。うちの父親なんてさ。アル中で酔っ払うと暴れ回るわ、仕事はしないわで、あげく私が5歳の時にコロッと逝っちゃったの。それでもママはすっごい苦労をして私を学校に行かせてくれたわ。だから勉強も頑張ったわよ。ママが病気で死んじゃった後、ミシェル・ウェールズのシスター見習いになれたのも、学校で一番成績が良かったからよ」
「ウィディア・・・」
渚はウィディアの苦労を思うと涙が出てきて、思わずウィディアに抱きついた。
「はいはい。もう、ナギサは泣き虫なんだから。でもミシェル・ウェールズに入れたのは良かったかもね。あのままだったら間違いなくストリート・チルドレン(盗みや恐喝をして生活する子供の事)になってたわ。それに何てったって、ナギサやマリアンヌに会えたしね」
「うん!」
そんな2人の楽しげな会話を聞きながら、暖かい部屋と満腹感でピョンはうとうとと眠りかけていた。それに気付いた渚はピョンの顔をのぞき込んだ。気持ちよさそうに寝息をかいて寝ている。やはりカエルの身であの長旅は疲れたのだろう。
渚はそっとスーツケースの中から毛糸の入った紙袋を取り出すと、ウィディアを振り返って頷いた。彼女達はピョンに気付かれないよう静かに部屋を出て、隣のウィディアの部屋に入って行った。
渚が紙袋から編みかけの毛糸を取り出すと、ウィディアが「かわいいじゃない!」と叫んだ。
「ホント?でもまだ半分くらいなの。25日までに仕上がるといいんだけど」
「大丈夫よ。明日からサラも協力してくれるし。さあ、私が糸が絡まないようにしてあげるから頑張ってね」
「ありがとう、ウィディア」
渚が真剣な顔で編み始めると、3色の糸が少しずつくるくる回って減っていく。ウィディアはすぐに絡まりそうになる糸をより分けながら、無心に編み針を動かす渚を見て思った。
ー ホント、幸せなカエルよね・・・ ー
次の日、朝食を終えると、近くの景観の良い湖までピクニックに行く事になった。渚とウィディアが準備をして外に出ると、蹄の音がしてサラが小さなポニーに乗ってやって来た。それがとてもよく似合っていて、渚は「まあ、サラ。かわいい!」と叫び、ウィディアは“やっぱり彼女はお姫様だわね”と思った。サラの後ろから下働きの男が2頭の馬を連れて来ている。
「先生とウィディアも馬で行く?」
「そうね。久しぶりに乗ってみようかしら」
「え?ナギサ、乗れるの?」
びっくりして聞くウィディアに、渚は片目を閉じて答えた。
「イギリスで暮らしていた時に、パパに何度か乗馬に連れて行ってもらった事があるの」
「ええ?ずるい。私、乗った事なんてないわよ」
「それではウィディア様はこちらの方で・・・」
後ろからアーハードの声がしたので振り返ってみると、1頭立ての馬車が止まっていた。馬車の側面には2頭の羽の生えた馬が向かい合っているブライトン家の紋章が描かれていた。
「きゃあ、馬車よ!」
嬉しくなってウィディアが思わず叫んだ。
「御者は私が務めますので」
ウィディアは大興奮で馬車に乗り込むと、お姫様気分で窓から顔を出した。渚はそんなウィディアに手を振ると自分の肩に乗ったピョンに尋ねた。
「ピョンちゃんはどうする?ウィディアと一緒に馬車に乗る?」
「馬に乗るに決まっとうやろ。ワイは騎馬は大の得意やで」
彼はニヤッと笑うと渚の肩から馬の背に飛び乗った。渚はそのすぐ後ろに乗ると、馬の腹を蹴った。
「行くわよ、ピョンちゃん!」
「行けーっ、ナギサーっ!」
彼らの馬は土煙を巻き上げ走り出したが、それを見ていたアーハードは青い顔をしてサラに尋ねた。
「お嬢様。今カエルがしゃべっておりませんでしたか?」
「え?さ、さあ。私には何も聞こえなかったわ」
サラはそれ以上何かを質問されないよう、慌ててナギサの後を追って走り出した。
「アーハード、私達もレッツ・ゴーよ!」
ウィディアが叫んだ。
きらめく朝の光が木々の間から差し込む道を風を切って走り抜ける。この辺り一帯はブライトン家の土地なので古くからの自然が手つかずで残っており、深い森に囲まれていた。普段ロンドンの大都会で暮らしている渚とピョンには頬に当たる風が心地よく、久しぶりに馬に乗って走る爽快感から渚は後ろを気にせず思い切り走って来てしまった。
馬を止めて振り返っても、サラ達が来る気配は全くなかった。
「ちょっと早く来すぎてもたかな?」
「でも大丈夫よ。お城から北に1.5Km位で湖って言ってたから、先に行っていたら後からみんな来るわ」
自信を持って言った渚を、ピョンは“え?”と言う顔で見上げた。
「渚。太陽はどっちから昇った?」
「何言ってるの。東からに決まってるじゃない」
「ほなら渚、両手広げてみ?」
「え?こう?」
渚は言われた通り両手を身体と平行に伸ばした。
「わいらが北に向かっていたとしたら、渚の右手が東。左手が西や。今太陽はどっちに居る?」
「え・・・と・・・」
渚はおかしな事に気が付いた。どうして太陽が後ろから照っているのだろう。
「ピョンちゃぁん。お日様が南から昇ってるよぉ」
「ちゃうやろ。渚が北やと思って走っとったんは、西やっただけや。そんな泣きそうな顔せんでもええ。今から東北に進路を取ったら途中湖に行く道とぶつかるはずや。うまくいったらサラ達に出会えるやろ」
「う、うん・・・」
渚は手綱を右に引いて方向を変えた。今度は通り過ぎないように、少しゆっくりめに馬を進めた。
「ねえ、ピョンちゃん。まだかなぁ」
「もうちょっとかかるやろな。心配せんでもワイが帰り道を覚えとうから」
「え?そうなの?凄いね。こんな道路標識も何もない所なのに」
いや、渚の場合は標識以前の問題やろ、とピョンは思った。考えてみれば渚は日本でほとんど大学と家の往復だった。今は大学がミシェル・ウェールズに代わっただけで、後は図書館と食料品を買うスーパーや日用品を買うアウトレットくらいで、大体彼女の行動範囲はバスで30分以内だ。きっと渚は自分が方向音痴だという事すら気づいて居ないだろう。
ほんま、困った天才少女やで・・・。
ピョンが苦笑いをして渚を振り返った時だった。
ー ガガーーン!! ー
辺りの森の木々を揺るがして銃声がこだました。野鳥達が驚いたようにバサバサと羽音を立てながら飛び立っていく。
「何?今の・・・」
「猟銃やな。誰か狩りでもしとんちゃうか?そやけど、妙やな。ここはブライトン家の土地や。するとしたらあのサラの父ちゃんくらいやろけど、あの人はそんな趣味なさそうやしな」
「ウィディア達が心配だわ」
渚がすぐに馬を走らせようとしたが、ピョンが止めた。
「あかん。銃声は前からした。引き返すんや。妙に走っとったら、この深い森や。間違われて撃たれるかもしれへん」
「でも・・・!」
その時、彼らのすぐ近くの茂みがガサガサッという音と共に動いたので、彼らはびっくりして振り返った。すると一匹の牡鹿がその堂々とした姿を現したが、彼の右後ろ足の大腿部は先ほどの銃弾がかすめた傷であろうか、血が吹き出していた。
「こっちだ。こっちに逃げたぞ!」
そんな声と共に激しく吠える犬の声が響いてきた。渚は自分達の後ろを指さすと「逃げて、早く!」と叫んだ。牡鹿はその声に反応するように飛び出し、すぐに木々に隠れて見えなくなった。
しかし渚の乗った馬の周りは、激しく吠え立てる数匹の犬に囲まれ、渚は興奮して後ろ足で立ち上がる馬を落ち着かせるのに四苦八苦だった。




