13.心を込めて、あなたに・・・
次の日、渚とティアナは朝食を済ませると、早速マフィン作りを始めた。材料は昨日の内に執事のロックウェルに頼んでおいたら、全て完璧に用意してくれたようだ。
キッチンの調理台の上に所狭しと並べられたオレンジを見て、ティアナは「こんなにオレンジがいるの?」と驚いていたが、渚は「せっかく作るんだもの。この屋敷中の人に配りましょ」とニコニコして言った。
今まで一度も包丁を持った事のないティアナの手は非常におぼつかなかったので、渚がオレンジをくし切りにし、それをティアナが皮と実を不器用に剥いていった。慣れないティアナが薄皮を取るとき実を潰してしまったり、なかなかうまく出来なかった。
「なんだか無茶苦茶になっちゃったわ」
落ち込むティアナに、渚は小麦粉を計量しながら答えた。
「大丈夫よ。全部煮込んじゃうから分からないわ」
「煮込むの?このままマフィンに乗せて焼くんじゃ」
「それだと苦いし固いし食べられたものじゃないわ。甘く煮詰めて少しだけ苦みを抜くのよ」
皮のワタを取ったり皮を何度も煮たりを経てやっとオレンジを鍋に全量入れ、煮込む前に渚は計量した何かパウダー状の白い粉を入れ始めた。
「ティアナのお友達は皮だけと思っているみたいだけど、多分煮詰めて実が分からなくなっているのね。いわゆるマーマレードなんだけど、完全に煮込んでしまわないで少し苦みや酸味を残すのがコツなの。それからこのパウダー」
渚はプラスチックケースに入った乳白色の粉をティアナに見せた。その容器には『Bee Powder』と記されている。
「ビー・パウダー?」
「そう。これは蜂蜜を粉状にしたものよ。砂糖より風味が良くて、甘みも上品なの。それに砂糖より栄養価が遙かに高いわ。大切な人に食べて貰う物だから、味だけじゃなく健康にもこだわりたいでしょ?」
ゴードン家の屋敷で働く者は下働きも含めると、30人以上にはなるだろう。それに一人最低2個は当たるように作らなければならない。ティアナは粉まみれになりながら、渚の教え通りマフィンのネタを型に流し込み、オレンジのジャムを上に乗せていった。
昼の1時を過ぎた頃、屋敷中に甘い香りが漂い始めた。それはもちろん小さな部屋に閉じ込められているピョンの元へも漂ってきた。
「わあ、ええ匂いやな。これはクッキー?いや、マフィンやな。ええなあ。ワイも食いたいなぁ・・・」
自分の為に渚とティアナが一生懸命焼いてくれているとはつゆ知らず、ピョンは窓にピタッとくっついて以前、渚が良く作ってくれたオレンジマフィンの味を思い出していた。
本日午後3時からは日頃働いている全ての使用人達もお休みをして、アフタヌーン・ティーを楽しめる事になった。今まで一度も誰かの為に何かをした事などなかったティアナが、自分達の為にマフィンを焼いてくれたというので、みな期待半分驚き半分で紅茶をカップに注いでいった。
ティアナは渚に綺麗にラッピングしてもらったマフィンの袋を持って、嬉しそうにピョンの元へ向かった。その後ろ姿を見送りつつ渚はちょっと寂しそうに呟いた。
「ピョンちゃん、喜んでくれるかな・・・」
裏庭のベンチではエドウィンが、渚が皿に載せて持ってきたマフィンを見て嬉しそうに叫んだ。
「Wao!ケーキだ、ケーキ!」
「エド。ケーキじゃなくてマフィンよ」
エドウィンにとってはケーキもマフィンも大差はないらしく、渚の説明などお構いなしにすぐさま食べ始めた。一応エドウィンは友人なので、マフィンは他の人の倍の4個だ。
「うまい!この上に乗ったオレンジの、ちょっと苦みの効いた所がこの菓子にぴったりだ」
ピョンと同じ感想を言ってくれるエドウィンに、微笑みながら渚は言った。
「あのね、エド。ピョンちゃん、やっぱりこの屋敷にいるみたい」
「何?本当か?じゃあすぐに・・・」
渚はすぐにでも飛び出して行きそうなエドウィンに首を振った。
「待って。私はもう少し様子を見ようと思うの。ここに居るならきっとピョンちゃんは大丈夫だから」
それがついこの間まで、夜中に忍び込んででもピョンを取り戻そうとしていた渚の台詞とは思えず、エドウィンは驚いたように彼女を見た。
「ティアナは決して悪い子じゃないの。ただパパやママにずっと会えなくて寂しいから、周りの人達につい我が儘を言ってしまうのよ。もし私が無理やりピョンちゃんを探したりしたら、あの子はきっと傷つくわ。だからもう少し待ってみようと思うの。あの子を信じて・・・」
エドウィンには、どうして大事な友人を攫った相手にそんな思いやりを示せるのか理解できなかった。今でさえすごく辛そうじゃないか。あいつに会えなくて・・・。
本当は今すぐにでも探し出して連れて帰りたいのを、じっと我慢しているのが分かった。
「あんたがそう言うんなら俺は別に構わないけど・・・。いいのか?もしピョンがナギサの所より、金持ちでうまいもの食えるからこっちの方がいい、なんて言い出したら・・・」
「それは・・・。ピョンちゃんが決める事だから。もしピョンちゃんがその方がいいんなら、私には何の権利もないし・・・」
渚の目にじわっと涙がにじんでくるのを見て、エドは自分の失言を後悔した。
「う、嘘だよ。冗談、冗談!お前がこんなに思っているのに、食い物につられて他の女に目移りするわけないだろ?な?な?」
まるで恋人の浮気を否定する友人のように大慌てで慰めてくれるエドウィンに渚は微笑むと、涙を拭いて彼を見上げた。
「エド。お仕事ずっと休んでくれてるんでしょ?」
「ん、まあ。一応取材って事にしておけば何とかなるから」
そう言いつつ、放っておいたら何をしでかすか分からないからな、このお嬢さんは・・・とエドは内心思った。
「ありがとう。エドがここに居てくれるだけで心強いわ」
渚はエドウィンに微笑みかけると、残りのマフィンが載った皿を彼に渡し、屋敷の方へ戻って行った。
「はあ。羨ましい奴だぜ、ピョンちゃんって奴は・・・」
ピョンの居る部屋を訪れたティアナは、彼の乗ったテーブルの前のソファーに座ると、ぎこちなくマフィンの入った袋を差し出した。
「これ、私が作ったんだけど・・・」
先ほど漂ってきた良い匂いの原因であるマフィンを見て、ピョンは嬉しそうに叫んだ。
「ティアナが作ったんか?ワイが食べてもええの?」
「うん」
嬉しそうにマフィンを袋を開けると、ピョンは早速かぶりついた。
「わあ、これ。ナギサのマフィンとおんなじ味や。うまいなぁ!」
ピョンが美味しそうにマフィンにかぶりついているのを見て、ティアナは思わず涙が出そうになった。自分が一生懸命作った物を美味しいと言いながら食べて貰うのがこんなに嬉しい事なのだと初めて知った。
すでに2個目のマフィンを食べ始めたピョンを見て、嬉しさのあまりティアナはつい「ナギサに会いたい?」と聞いてしまった。ピョンはピクッと身体を震わせて食べるのを止めると、その大きな瞳でじっとティアナを見上げた。
そうだ。そんな事は聞かなくても分かっている。彼が一番帰りたい場所がどこなのか・・・。
ティアナは何て自分は愚かなんだろうと思い、恥ずかしさのあまりテーブルの上にうつ伏せになった。彼を無理矢理 友達にしようとしているのは自分なのだ。
「ごめん・・・」
腕の中に顔を隠して、ティアナは小さな声で呟いた。そんな彼女の側に飛び跳ねてやって来ると、ピョンはその小さな手でポンポンと軽く彼女の頭を叩いた。
「ティアナ。お前、学校に行け。そしてここでは決して学ぶ事の出来ない色んな事を教えてもらうんや。そのうち一杯友達も出来る。今の生活よりずっと楽しいぞ」
学校の事を考えない訳ではなかった。だがティアナは自信がなかったのだ。仲間はずれにされたり、誰も相手にしてくれないんじゃないかと思うと怖かった。
「今更行ってもいじめられるだけだわ」
「そりゃ最初はそういう事もあるかもしれへん。そやけどお前が根気よく明るさを失わずにいたら、必ず理解してくれる友達は出来る。世の中そんなつまらん奴ばっかりちゃうで」
「友達・・・出来るかな。私なんかに・・・」
「ああ。今のお前やったら大丈夫や。ワイが保証したる。なぁ、ティアナ。ワイはずっとお前の側にはおられへん。ナギサと約束したんや。あいつがばーちゃんになっても側におったるって。だからお前は自分の力で友達を作るんや。ばーちゃんになっても一緒に茶が飲める友達をな・・・」
ティアナはあふれてくる涙を見られないように、やはりうつ伏せになったまま頷いた。
「今度、パパとママが戻って来たら言ってみる」
「ああ。それがええ」




