4.カエル、脱走する
渚が学校に行った後、ピョンはすぐに起きてあたりを窺った。キッチンのテーブルの上では寝にくいだろうと渚はかごベッドをリビングのテレビの前に移動させ、朝食はリビングテーブルの上に用意してあった。そこなら低いので、カエルでも飛び乗ることが出来るからだ。
渚の思惑通り、ピョンは軽々とテーブルに飛び乗り、ラップをかけてある皿をのぞき込んだ。今日はたっぷりのゆで卵が入ったクロワッサンサンドだ。その横には野菜ジュースの入った小さな皿もあった。それらを見てピョンは顔をしかめた。
「変や、あの女。絶対変やぞ」
殺されかけた事は何度もあったが、こんなに親切にされた事は一度も無かった。もしかしてワイをサーカスにでも売ろうと思てんのちゃうか。これはもう経験済みだ。あるいはテレビにでも出て有名になろうとか・・・。こちらはまだ未経験であった。いずれにせよ、こんなにようしてくれるなんて、おかしいで。おまけに一緒に住もうやなんて・・・。
ピョンは更に顔をしかめながら渚が作りおいた食事を見た。確かにここに居れば、うまい食事に必ずありつける。昨日の野菜スープもとても美味だった。だがどう考えても本気でカエルと友達になろうと思う人間が居るはずはない。それも人間の言葉を話すカエルとなんて・・・。
「こりゃ、はよトンズラした方がええかも知れん」
そう呟いて周りを見たが、窓は全て閉まっていた。だがよく見ると天井近くにある空気取りの窓が開いているのに気が付いた。
「よっしゃ、脱出や」
そう決意して行こうとしたが、ふとクロワッサンサンドの事を思い出した。
「これ、うまそうやなぁ。いや、多分うまいはずや」
カエルは空気取りの小窓とクロワッサンを交互に見て考えた。
「あいつは先生や。授業が終わるまでは帰ってきいひん。昨日もおとといも帰ってきたのは夕方やった。と言う事は、まだ十分時間はあるっちゅうことや」
カエルはにやっと笑うとラップをめくり上げ、クロワッサンサンドに飛びついた。
授業が終わった生徒達が、足音を立てないよう気を遣いながら出て行くのを、渚はため息交じりに見つめた。せめて授業が終わった時くらい、元気に走り出す子供の姿を見てみたいものだ。今日は水曜日なので、授業は午前中で終わりだった。シスタールームに戻った渚は、ウイディアとマリアンヌに挨拶をして帰途についた。
その頃、朝食を食べ尽くしたピョンはリビングの壁にへばりつき、必死の形相で上へ登ろうとしていた。しかし・・・。
「こりゃいかん。腹がでかくなりすぎて登られへん。んぐぐ・・・」
一歩前足を踏み出すが、体が重すぎてずるずると下に落ちていってしまう。だが腹が引っ込むまで待っている余裕はなかった。カエルの足は遅いのだ。
「くうぅぅっ。何が何でも登ったるぅぅ」
膨らんだ腹を引きずって、カエルはゆっくりと壁を這い上がって行った。
渚が玄関の鍵を開けている頃、ピョンはやっと小さな窓に辿り着いた。もちろんひどく息は乱れていたが、ここまで来れば脱出成功である。彼は窓から出るとぴょーんと軽く飛んでベランダの手すりに飛び乗った。
「3階か。一気に降りるには無理があるなあ」
ピョンが迷っている間に渚が家の中に入ってきた。
「ただいま、ピョンちゃん」
キッチンを覗いたが彼の姿はなかったので、まだ寝ているのかと思いリビングにやってきた。だがテレビの前には空のかごベッドがあるだけだ。
ふと窓の外を見た渚は真っ青になった。ベランダの手すりの上のピョンが目に入るのと同時に、1メートルも離れていない所に猫が居て、大きな緑色のカエルを狙っているのが分かった。猫は低く身をかがめて今にも飛びかかりそうな態勢だが、ピョンの方はずっと下を覗いていて、気づいてないようだ。
「ピョンちゃん!」
渚は走り出した。窓を開け、ピョンを両手で包み込み胸に抱きしめた瞬間、飛びかかってきた猫の爪が渚の肩に食い込んだ。驚いて見開いたピョンの目に、渚の肩から吹き出た血が服に染み込むのが見えた。
「あっちに行って!ピョンちゃんは、絶対殺させないんだから!」
びっくりして猫はすぐに逃げていった。
「ピョンちゃん、大丈夫?」
「ワイは・・大丈夫やけど・・・」
「良かった・・・」
ほっとしたように微笑んだ後、急に涙があふれてきて渚はその場にしゃがみこんだ。ほんの数ヶ月前、飛行機事故で亡くなった両親の事を思い出したのだ。どんなに泣いてももう二度と彼らの笑顔を見る事は出来ない。それでも渚は泣く事しか出来なかった。だからもう誰も失いたくない。大切な人を誰も・・・。
「渚、大丈夫か?傷、痛むんか?」
「こんなの、全然大丈夫だよ。消毒をしておけばすぐに治るって」
涙を拭って、渚はピョンに笑いかけた。
夜遅く、暗い廊下をピョンは急いで跳ねていた。夕食を散々飲み食いしたので、トイレに行きたくなったのだ。
「ああ、めんどくさい。人間の家におると、いちいちトイレに行かないかんのは大変やな」
そんな事を呟きながら飛び跳ねていると、渚の部屋のドアから光が漏れているのに気が付いた。どうやら彼女はまだ起きているようだ。ふとその隙間から中を覗くと渚がベッドにもたれかかって座ったまま、じっと膝の上の何かを見つめているのが見えた。
「パパ、ママ・・・」
小さく呟いた言葉で、彼女が見ているのは両親の写真なのだと分かった。
「今日ね、ピョンちゃんが外に出ていたの。そしたら猫が襲ってきてね。でも私、ちゃんと守ったよ。今度こそ・・・。ごめんね。パパとママは守ってあげられなくて・・・。ごめんね」
写真立てに顔を沈めて、渚は小さくすすり泣いていた。この時やっとピョンは彼女の行動が理解できた。
- そんな事ないよ。私はピョンちゃんと友達になりたい。私じゃ駄目? ー
ー だってしゃべれるから友達になれたんだよ。それってとっても素敵な事じゃない? ー
ー ピョンちゃんは、絶対殺させないんだから! ー
ドアから離れて暗い廊下を飛び跳ねた後、ふと立ち止まってピョンは呟いた。
「おまえも、寂しかったんやなぁ・・・」
次の日の朝、ピョンは珍しく早起きをして渚と朝食をとった。今朝のメニューはハムサンドとゆで卵、サラダにトマトジュースだ。ピョンが食べやすいようにハムは刻んで入れてある。口の中いっぱいにサンドイッチを頬張っているピョンをちらっと見ると、渚は彼に声をかけた。
「ピョンちゃん」
「あ?なんや?」
「あの・・・」
口ごもった渚にサンドイッチを飲み込んでピョンは「なんや、はっきり言わんかい。じれったいなぁ」と言った。
「うん、あのね、家の中にいるのは嫌?外の広い野原や池に帰りたい?」
「いーや、別に」
「でも、昨日外に・・・」
渚はピョンがここから逃げだそうとしていた事に何となく気が付いていた。ピョンと一緒に暮らしたいと思うのは自分のエゴで、彼は自由になりたがっているのかも知れない。
「ああ、あれはな。カエルゆうんは、たまに窓とかにひっついてるやろ?あれは光に寄ってくる蛾とかを食いに来てるんやけど、ワイもたまには窓登りがしたくなってな。ほんで誤って上の窓から落ちてもうたんや。あっ、言っとくけどワイは蛾は食わへんで。あれはグルメの食いもんやないからな」
「そうなんだ。でも・・・」
「あのなぁ、渚。黙ってても飯は出てくるし、夜はふかふかのベッドで寝れるし、外敵に襲われる心配も無い。そんな快適な生活を手放すアホがおるか?ワイはここでの暮らしに満足しとる。それに外に出とうなったら、おまえが一緒に連れてってくれるんやろ?」
その言葉に渚は嬉しそうに微笑んだ。
「うん!」
「それじゃあ、今度ピクニックに行く?クロワッサンサンドいっぱい作って」
「おー、ええなー」