11.ゴードン家への潜入
ゴードン家の広い豪華なダイニングルームは、たくさんの花やオブジェが並べられた12人掛けのダイニングテーブルが置かれていたが、そこで食事をするのは大抵、ティアナ一人であった。彼女は滅多に帰って来ない父と母の席をちらっと見ると、小さくため息をついてメイドの運んでくる食事を口に運んでいた。
ふと顔を上げた時、スティーブとアンドルーが先ほどピョンの為に運んで行った食事を、そのまま持って廊下の向こうを通り過ぎて行くのが見えた。
「アンドルー、それは・・・?」
「ああ、お嬢様。それがあいつ・・・いえ、タイターニアは欲しくないって」
「食べないって言うの?あの食い意地の張ったカエルが?」
すると今度はスティーブが心配そうな顔で言った。
「帰ってからずっと元気がないのです。じっと月を見ながら泣いているみたいで・・・」
ピョンが泣いている。それを聞いてティアナは、メイドが「お嬢様お食事は?」と言うのも聞こえない様子で駆け出した。カエルはあの脱走の後、再び押し込められたトランクケースの中で、ずっと声が枯れるまで“ナギサ”という名前を呼び続けていた。その声があまりにも悲しげで、さすがのティアナも、なんだか自分が冷たい悪人の様に思えてしまったほどだ。
ナギサって誰だろう。聞かなくても分かる事だ。それはあいつにとって、とても大切な人に違いない・・・。
アンドルーは持って帰ってきたピョンの食事をキッチンの台の上に置くと、自分達の為に用意されている食事を立ったままつまみ始めたスティーブに言った。
「お前、あの時どうして止めたんだ?」
スティーブが訳の分からなそうな顔をしたので、アンドルーはムッとしながら言った。
「あの毒舌をまき散らすカエルを俺がぶん殴ろうとした時、お前、止めただろう」
「ああ、止めたよ。それがお嬢様の為になると思ったから」
「何を言っているんだ?お前は。ティアナ様は口には出さないが、ご両親の事でずっと悩んでおられるんだぞ。それをあのカエルときたら、ズケズケと・・・」
「ああ、そうだな。これでもかって言うほど言ってたよな。まあ、あいつも帰りたい一心だったんだろうが・・・。でもなあ、アンドルー。確かにお嬢様はあいつの言葉にひどく傷ついていたけど、じゃあどうしてあいつを手放そうとしないんだろう」
「そりゃあ・・・」
答えようとしたが、アンドルーにはその答えを見い出す事が出来なかった。確かにあの小生意気な小娘・・・いや、お嬢様の性格なら「アンドルー!この無礼なカエルをすぐゴミ箱に捨てて来て!」とでも言いそうなものだ。
「なあ、アンドルー。俺達は大旦那様の手前、お嬢様がどんな我が儘を言っても叱る事なんて出来やしない。だけどお嬢様は本当は誰かに叱って欲しいんじゃないのか?本来ならそれは父上であるショーン様やソニア様がするべきだが、当然お二人はあまりにもお嬢様の側に居なくて、たまに帰って来ても甘やかすしか出来ない。もし親友がいたら、友の為に苦言を言ってくれるだろう。だが学校にも行ってないお嬢様には友人らしい友人もいない。
お嬢様はお寂しい。そして自分が本当にこのままでいいのかさえ分からない。だから面と向かってはっきり自分の悪い所を言って貰いたかったんじゃないかな。友達みたいに喧嘩できる誰かが欲しかったんじゃないだろうか・・・」
「友達かぁ。だけどあいつはカエルだぜ?」
「でも普通のカエルじゃないだろ?」
「確かに。俺、あいつがこの間寝言で『Ciao Nagisa. Come Stai?』って言ったの聞いたぜ」
「何だ、それ」
「イタリア語で『ハイ、ナギサ、元気?』って意味だ。その後もイタリア語でずっとしゃべっていたぞ」
「へえ、ナギサってイタリア人なんだ」
「みたいだな」
ピョンが居る部屋はこの大きな屋敷にしては小さな部屋だったが、それでも普通の子供部屋くらいのスペースはあるだろう。カーテンとお揃いのレースがたくさん着いたクッションがソファーの上に並べられ、イタリア製のミラーの着いたキャビネットの中には、クリスタルガラスで作られた犬や猫の置物が所狭しと並べられていた。
ピョンが思うに、ここはティアナのペット専用の部屋だろう。しかしピョンにとってはそんな少女趣味なゴテゴテ飾られた部屋など、煩わしいだけであった。どんな高価な部屋も渚が居なければ、ただの冷たい氷の部屋でしかなかった。
「ああ、ナギサに会いたいなぁ。ナギサの作ったクロワッサンサンド、食いたいなぁ。それからパンプキンスープにチキンの照り焼き、肉じゃが、卵の載ったハンバーグ、ミートドリアもうまかったなぁぁ」
そっとその部屋のドアが開いても、ピョンはトランクの中からずっと月を見つめていた。
『はい、ピョンちゃん。今日はピョンちゃんの好きなボンゴレスパゲティだよ』
「ナギサぁ。ボンゴレスパゲティぃぃ・・・」
渚が目の前でピョンの好物を差し出しているのを妄想しながら、彼はただ思い出に浸っていた。ティアナはそっとトランクの蓋を開けてみた。本当にピョンが大きな涙をこぼしながら月を見上げている。
「そ、そんなにお腹が空いているなら、夕食を食べれば良かったじゃない」
そんな声にもピョンはティアナの方を振り向きもせず肩を落としていた。
「あんなメシ、いらんわい・・・」
「ど、どうしてよ。あんたなんかに食べさせるにはもったいないような食材なのよ。キャビアとかフォアグラとか」
「いくら高級な料理でも愛情のこもってない料理なんかうまくもなんともないわ。ナギサの料理はワイへの愛情がいーっぱいこもっとって、最高にうまかったなぁ」
「何?もしかしてナギサってあんたの彼女?」
「え?お、おう。そうや」
「生意気ね。人間の彼女と付き合っているなんて。そのナギサって子もおかしいんじゃない?カエルを彼氏にするなんて」
もちろん渚はピョンの彼女でも何でもない。言ってみれば、ただの同居人である。だが渚の料理に愛情がこもっているのは間違いないとピョンは思っていた。彼女はそういう人だ。いつでもウィディアやマリアンヌや自分の周りに居る人達に、精一杯の愛情を注いでいるのだ。
「ナギサはな、人の内面を見抜く力を持ってんのや。そやからワイの外見やのうて、中身を愛してくれてんのや。そりゃあもう、ナギサは素直で優しくて料理が上手で気が利いて、笑った笑顔が又、最高にかわいいんや。ホンマ、どこかの金持ちのわがまま嬢とは格が違うなぁ」
ティアナはムッとした顔をするとぷいっと横を向いた。
「悪かったわね!」
「いや、別に悪ないで。ナギサが特別なんや」
ピョンはそう言うと、再びじっと箱の中から月を見上げた。ティアナには彼がその“ナギサ”の元へ帰りたがっているのはよく分かっていた。だがどんな形であってもティアナにとってピョンはやっと得た友達なのだ。こんな風に縛り付けるのはいけない事だと分かっていても、彼を帰したくなかったのである。
「ここはあんたの為の部屋だから、トランクから出てもいいわよ」
彼女はそれだけ言うと、黙って部屋を出て行った。
ソーホーを後にした渚は、その足でミシェル・ウェールズの校長の元を訪れていた。そして彼女を通して正式にゴードン家へある申し入れをして貰ったのである。それはそれから3日後に一人で朝食を取っていたティアナに伝わった。
「家庭教師?ミシェル・ウェールズの?」
「ええ、そうですよ」
アンドルーもスティーブもティアナがミシェル・ウェールズに喉から手が出るほど入りたがっていたのを知っている。ミシェル・ウェールズの現役の教師がティアナの家庭教師としてやって来る事を彼女の父が使いの者を通して言ってきた時、アンドルーとスティーブはすぐさまティアナの元へ走った。
「ミシェル・ウェールズの校長先生から『我が校一の優秀な教師です』とお墨付きを貰った方なのですよ。ミシェル・ウェールズでは日本語を教えておられるそうですが、何でもまだ17歳という若さで7カ国語を話される才女だそうです」
渚はミシェル・ウェールズの校長を介してゴードン家に家庭教師として入り込む事にしたのだ。語学は自分の得意分野。それを生かさない手はない。だがティアナの反応は、スティーブやアンドルーの予想とは全く裏腹であった。
「ミシェル・ウェールズが今更なんだというの!私が入学したいって言った時、成金の娘だからって断っておいて!何が家庭教師よ!馬鹿にしないで!」
ティアナは激しい怒りに、テーブルの上の朝食の乗った皿を床に向かって思い切り投げ始めた。彼女にとってミシェル・ウェールズは決して得る事の出来ない貴族社会の憧れであった。そして金の力で全て思い通りになると思っていたティアナにとって、それだけでは決して動かす事の出来ないものが、この世にあると初めて知らしめられた存在でもあった。
それ故、ティアナはミシェル・ウェールズ以外の学校には行かないと強情を張って、家庭教師だけで勉強してきたのである。
「お、お嬢様・・・」
怒りにまかせて朝食の皿やカップを投げつけてくるティアナを、周りの誰も止める事が出来ずにオロオロしていたその時、彼女の手をぐいっと掴んだ者がいた。
ティアナのやる事を止められる人間はこの家には誰もいない。彼女はこの家の中で、まさに女王陛下なのだから・・・。自分の腕を掴んだ人間に対して、更に怒りを増幅させながら見上げたティアナの目に、印象的なゴールドブラウンの瞳とまばゆいばかりの笑顔が飛び込んできた。
「初めましてティアナ。私は今日からあなたの家庭教師になった、ナギサ・コーンウェルよ」
その名を聞いて、あまりに驚いたティアナの手から力が抜け、皿が滑り落ちた。それは激しい音を立ててテーブルの上に落ち、破片が辺りに散らばった。
ティアナはその名前に驚いたのもあるが、その女性が皿が落ちた瞬間、自分を抱きしめて破片から身を守ってくれた方に驚いていた。今初めて会ったばかりの人間の為に、そんな事が出来る人が居るのだろうか。
ティアナが複雑な気持ちでその人を見上げると、彼女は心配そうに「ティアナ、怪我はない?」と聞いてきた。ティアナがちょっと照れたように頷くと、ほっとしたようにティアナの頬に手を当てて「良かった。かわいい顔に傷が付いたら大変だもの」というのを聞いて、益々ティアナの頬は赤くなった。
「朝食中だったのね。ごめんなさい。こんな朝早くから来てしまって・・・。でも一刻も早くあなたに会いたくて来てしまったの。これから宜しくね、ティアナ」
さっきまで家庭教師なんていらない、と癇癪を起こしていたティアナだったが、今はまるで借りてきた猫のようにおとなしくなって渚の言葉にただ頷いた。渚を案内して来たこの家の執事が騒ぎが収まったのを見て、メイド達に散らかった朝食の皿を片付けるよう指示し、渚を部屋へ案内して行った。渚はこの家に滞在して家庭教師をするのだ。
ティアナは渚が去って行った後をじっと見つめながら、あれがピョンの言っていた“ナギサ”なんだろうか・・・と考えた。いや、あいつの彼女ならもっと小さな少女に違いない。きっと別人だわ。ティアナは自分の心に起こった不安を打ち消した。ティアナはピョンを自分と同じくらいの少年だと思っていたかった。
一方スティーブとアンドルーはティアナを一瞬でおとなしくさせた渚に感動していた。まさに彼女はミシェル・ウェールズのカリスマ教師に違いない。あの我が儘お嬢様をただ赤くなって頷かせたのだから・・・。
「でもあの人、ナギサって言わなかったか?まさかあのカエルの・・・」
「違うよ。ナギサはイタリア人だろ?全然別人だって」
「そうだよなぁ」
いつもお読み頂き、ありがとうございます。
ティアナは13歳の今まで家庭教師について勉強していますが、イギリスの家庭に於いてホームスクーリング(在宅教育)は珍しくありません。ホームスクーリングから学校へ戻ったり、そのまま大学へ進学したり出来ます。




