7.消えたピョン
カーテンの隙間から差し込む朝日が自分の顔を明るく照らし始めたのに気が付いて、渚は目を覚ました。自分が寝ていたソファーの周りは昨日、ピョンとパーティをしたままの状態で、今からこれを片付けるのかと思うと少々うんざりしたが、今日から無職になった事を思い出すと、「ゆっくりやればいいか」と呟いた。
多分側で寝ているだろうと思っていたピョンが見当たらないので、彼の名を呼んでみたが、返事はなかった。渚は起き上がるとリビングテーブルの向こう側に置いてあるピョンのベッドを見てみたが、やはりそこにも彼の姿はなかった。それから風呂場や自分の部屋全てを彼の名を呼びつつ探したが、やはり居ないようだ。渚は途方に暮れたように部屋の中で立ち尽くすと、もう一度彼の名を呟いた。
「ピョンちゃん・・・?」
ロンドンの冬の朝にしては温かかったせいか、それとも昨夜の不思議な出来事のせいなのか、校長はいつもより早く目覚めてしまった。こんなに朝早くから起きているのは、当番で礼拝堂の掃除をしているシスターぐらいだろう。今日は小春日和の良い天気になりそうだ。彼女はシスター用の修道服に着替えると、いつものように校長室へと向かった。
鍵を開けて中に入ると、やけに部屋が明るい。いつもは締めて帰るはずのカーテンが一部開きっぱなしになっていた。そういえば昨日あのカエルと共に窓から渚達の秘密の場所を見下ろしたのを思い出した。やはり昨日の出来事は夢ではなかったのだ。
校長が残りのカーテンを開け始めた時、廊下をドタドタと慌ただしく走る足音がして、ドアの外から「校長先生、校長先生!いらっしゃいますか?」という声がした。渚の声だ。昨日カエルから事情を聞いて、嬉しくてこんなに朝早く挨拶に来たのだろう。そう思ってドアを開けたが、意外にも渚は今にも泣き出しそうな顔をして自分を見上げていた。
「校長先生、ピョンちゃん・・・カエルが来なかったですか?ちょっと大きめで黄緑色の」
「ええ、来ましたよ。昨日の夜、10時半くらいでしたね」
「ああ、やっぱり・・・!」
渚は真っ青になってガタガタ震えだした。
「それでピョンちゃんはまだ生きているんですか?それとももう火あぶりになったんですか?」
シスター・ボールドウィンは全く渚といいあのカエルといい・・・と言うような顔をすると、はあっとため息をついた。
「ここは処刑場ではありませんよ。彼も覚悟の上で来たようですが、私はカエルを焼き殺す趣味はないと言って追い返しました」
「でも、でも居ないんです。どこにも・・・。まるで消えてしまったみたいに」
「家に戻る途中で迷子になっているのではないですか?」
渚は涙をぽろぽろこぼしながら首を振った。
「ピョンちゃんは私よりずっとロンドンに詳しいんです。長い間住んでいるから。道に迷うなんて考えられない。きっと何かあったんだわ。又深い穴に落ちているのかも・・・」
昨夜のあのカエルの様子からして、ここを出てすぐに渚の元へ戻ったのは間違いないだろう。確かに何かあったのかも知れない。校長は小さく震えながら泣いている渚の両腕を掴んで彼女の顔を見つめた。
「しっかりしなさい、ナギサ。もし彼に何かあったのだとしたら、あなたしか彼を助けられないのですよ。分かりますか?」
校長に促されて渚はハッとしたように彼女を見上げた。その瞳にはもう後悔や動揺ではなく、強い決意の色がうかがえる。
「はい!校長先生」
「よろしい。では彼が見つかるまで、あなたは休職という事にいたしましょう。見つかり次第、出て来るように」
「休職・・・ですか?退職ではなくて?」
意外なシスター・ボールドウィンの言葉に、渚は驚いて聞き返した。無論、昨夜の校長とピョンの会話を知らない渚には、この展開は驚きだっだったに違いない。
「己の命を他人の為に差し出せる者が、悪魔であるはずがないと思っただけです。だからあなたも・・・」
その時、シスター・ボールドウィンは渚の行為によって言葉を失い、まるで石のように硬直した。渚は「ありがとうございます、校長先生!」と言いながら、彼女の首に抱きついたのだ。
結婚をしていないシスター・ボールドウィンには、当然子供も孫も居ない。彼女にとって渚の様な若い少女 ーシスター・ボールドウィンにとって渚はまだ少女のような存在だったー にハグされるのは初めての経験であった。しかも渚は「大好き!」と言いながら彼女の頬にキスをしたのである。それはまさに孫が愛する祖母にする行為であった。
あまりの出来事にびっくりして固まってしまったシスター・ボールドウィンに渚はにっこり笑いかけると「私、必ずピョンちゃんを見つけて戻って参ります!」と大きな声で言いつつ校長室を飛び出して行った。
鉄の戒律その第一条、第一項に記されている『廊下や階段は決して走ってはならない』という規則をすっかり忘れてドタドタと足音を響かせ階段を降りていく音を聞きながら、シスター・ボールドウィンは頬に手を当てて呟いた。
「グランマ・・・ですか。悪くはないですね」
エクスジャーナルは今日も忙しい朝を迎えていた。70㎡あまりの事務所のあちこちで電話が鳴り響き、昨夜からの徹夜組の記者達は充血した目をこすりながら記事を仕上げている。気の利く女性記者が自分の分を買うついでに、そんな彼らに紙コップに入ったモーニングティを振る舞っていた。
エドウィンはこの間のウェスト・チャーチル銀行の記事が今ひとつ世間の反応が悪いので編集長に呼ばれ、もう“しゃべるカエル”関連の記事は入れるなと注意を受けていた。
「でもデスク。しゃべるカエルは存在するんです。もう少しで接触できる。いえ、きっとして見せます。そしたら彼にインタビューを取って・・・」
「いつまで夢みたいな事を言ってるんだ!お前のおかげでグローバルの売上が落ちているんだぞ。ライバルのトラスティックを見たか。お前の記事を“何の信憑性もない妄想”と扱き下ろしているんだぞ」
「他の雑誌なんてどうだっていい。俺は・・・!」
編集長との口論の真っ最中に同僚が彼の側にやって来てニヤッとしながら言った。
「おい、エド。お客さんだぞ。かーわいい女の子」
「女の子?」
俺に女の客が来るわけないだろうという顔をして振り返ったエドウィンは、思わず「え?」と声を上げた。事務所の入り口に渚が立っている。記者嫌いの渚がこんな所に来たのにも驚いたが、彼女が恨みのこもった目で自分を見つめつつ、凄い勢いでこちらに向かって来たのにも驚いた。そして彼女は今までエドウィンが見た中で一番怖い顔して彼を見上げた。
「どこにやったの?」
「は?」
「ピョンちゃんを攫ったでしょう。返して!」
「ちょ、ちょっと待てよ。一体何の・・・」
「しらばっくれないで。彼を返して。返して!」
渚に詰め寄られオタオタしながらもエドウィンは聞いた。
「ちょっと待てよ。カエルが居なくなったのか?いつからだ?」
「よくもそんな事を。あなたが攫ったんでしょう?」
渚はあくまで自分を犯人だと思い込んでいるようだし、編集長や他の記者達の視線も気になったので、彼は「ちょっと来い」と言って渚の手を引っ張り誰も居ない会議室に連れて行った。
「放して下さい!こんな所に連れて来てどうするつもりです?本当に訴えますよ!」
「何もしやしねーよ。話をちゃんとしたかっただけだ。カエルはいつ居なくなったんだ?」
渚はじいっとエドウィンの顔を見上げて居たが、やがて落胆したように肩を落とした。
「ごめんなさい。あなたじゃないかも・・・とは思ったんだけど、他に思いつかなくて・・・」
「はあ?あんたってホントひでぇ女だなぁ。まあ、いいや。ホントに攫われたのか?その“ピョンちゃん”は」
「分かりません。朝起きたら居なくなってて・・・。でも私の為に外へ出たのは間違いないんです。だから・・・」
「彼の姿を最後に見たのは?」
「昨日の夜10時半頃にミシェル・ウェールズの校長先生の所に行ったそうですが、それから後は・・・」
「ふーむ、10時半か。じゃあ、とりあえず昨日の夜にカエルを見た人間がいないか、ミシェル・ウェールズの周辺で聞き込みをしてみよう」
「え?あの・・・」
渚はびっくりしてエドウィンの顔を見上げた。
「大事な友達なんだろ?カエル攫いにされちゃたまらんからな。一緒に探してやるよ。上着を取ってくるから待ってろ」




