6.夜の校長室
カエルの足は当然遅いのだが、ピョンはミシェル・ウェールズのあるケンジントンに向かうバスがどこから出るかも知っているし、そのバスの後ろにうまく張り付いて、目的地まで行くのもお手の物だ。
それでも彼がミシェル・ウェールズの大きな門の前に着いたのは、もう夜の10時を回っていた。ミシェル・ウェールズは本館の他に1から3号館、そして200人は収容できる巨大な礼拝堂で成り立って居る広大な学校だ。だが渚の夜回りに何度も着いて来ているピョンはミシェル・ウェールズの中は全て把握済みであった。無論、校長室も・・・。
門を過ぎると本館まで長い石畳の道が続く。本館から右斜め前に進むと3号館。左斜め前に進むと2号館。2号館と3号館は子供達の寮になっている。そして本館から裏手にまっすぐ進むと礼拝堂が中庭の中央にそびえ立っていた。「良くここでマリアンヌとお茶をするの」と渚が教えてくれた人目に付かない北側の木々に囲まれた彼女達の秘密の場所は、礼拝堂から更に奥にある1号館の裏手の物置小屋の陰にある。
礼拝堂を通り過ぎしばらく行くと、1号館が暗い帳の中に現れた。彼が目指す最上階の部屋にはまだ明かりが灯っている。校長がまだ校長室に居る証だ。
「よっしゃ、ええ感じや」
ピョンは呟くと疲れた足をもろともせず、大きく飛び跳ねた。
「校長先生、起きとうか?起きとったらドアを開けてくれ。話あんねん」
いきなりドアの外から響いてきた無礼な声に、びくっとして校長はペンを持っていた手を止めると眉をひそめた。
「誰です?こんな夜中に」
「ワイ、ピョン。渚のとこにおるカエルや」
まさかと思ったが、シスター・ボールドウィンは立ち上がると、校長室のドアをゆっくりと引いた。そして自分の足下に居る小さな生き物をまじまじと見つめた。
「まあ、本当に。ミス・コーンウェルの言うように、大きなカエルだこと」
表情を変えずに彼女がそう言ったので、ピョンはニヤッと笑って部屋の中に入ってきた。
「年の功やな。その辺のケツの青いシスターみたいにキャーキャー騒げへんのはさすがやで」
校長は鼻でフッと息を漏らすとドアを閉め、デスクの隣に置いてある革張りのソファーに腰をかけた。
「それで、話とは?」
「ああ。すぐ済む簡単な話や。ワイはこうやって自首してきた。そやからナギサを元通りここの教師に戻してやってくれ」
「自首?お前は何か悪い事をしたの?」
「悪い事?」
ピョンは小首をかしげて考えた。最近やった悪い事といったら・・・。
「この間ナギサが冷蔵庫で冷やしとったプリンを10個ほどナギサの目を盗んで食ってもてん。ほんならナギサ、『ピョンちゃん!そんなに食べたら太るでしょ?それでなくてもお腹出てるのに!』ってめっちゃ怖い顔して怒んねんで。『カエルは腹出てるもんや!』って言い返したら、やれ糖尿病になるだの高血圧になるだのって10分以上も説教されて・・・。なあ、校長先生。ワイ、そんなに悪い事したんか?」
校長は真面目な顔で尋ねるカエルを、無表情な目でじっと見た。彼らの会話は、まるで夫の中年太りを気にする夫婦の会話だ。渚は見かけも中身も子供のようだと思っていたが、どうやら中身は結構年寄り臭いのかも知れない。校長はピョンの質問には答えず大きく息を吸い込むと、ゆっくりと吐きながら言った。
「一つ、あなたに聞きたいのですが、あの雑誌に書かれている事は本当なのですか?」
「ん?ああ、グローバルか。そやなぁ。ワイが見る限り嘘は書いてないと思うけどな」
「なぜナギサを助けに行ったのです?」
「なんでって、友達が危ないのに助けに行かへん奴がおるか?それにナギサはワイの用事で銀行に行ったんや。つまりワイのせいで事件に巻き込まれた。助けに行くんは当たり前やろ?」
校長は立ち上がると机の上にあったロウソクに火を付け、それをピョンの前に差し出した。
「では今夜もお前はここに、ナギサの為に殺されに来たのですね」
ロウソク越しに見る深いしわのある彼女の顔は、昼間見るよりもずっと恐ろしげにピョンの目に映った。それは決して死ぬ事のない彼にとって、初めて感じる死の予感だっただろう。
「そうやな。聖なる業火で焼かれたら、ワイのこの呪われた身体も、燃え尽きるかもしれへんな・・・」
どうせ2,500年前に同胞達と共に尽きるはずだった命だ。渚の為なら、ちっとも惜しいとは思わない。
「その代わり必ず約束してくれ。ナギサをここに戻すと・・・。あいつは教師としての自分に誇りを持っている。そして教える事に懸命や。あんなええ教育者、手放したら後悔するで」
「あなたといい、ナギサといい・・・」
校長はため息をつきながらロウソクを机の上に戻すと、ピョンの側にしゃがみ込んだ。
「他人の為に死ぬなんて、馬鹿馬鹿しいと思わないのですか?」
ピョンはきょとんとした顔をした後、自分を見つめる校長に笑いかけた。その顔は死ぬまで忘れる事が出来ないほど印象的だとシスター・ボールドウィンは思った。
「あのなあ、校長先生。大切な人の為に死ねるのは、人間にとって一番幸せな事やねんで」
この小さなカエルの中にどれ程の思いがあるのだろう。友の為に死ねる者こそが真実の愛を持つ者だ、とイエス・キリストは言われた。彼は聖書など読んだ事はないのだろうが、心はその意味を知っているのだ。
シスター・ボールドウィンがピョンの前にそのしわの刻まれた手を伸ばしてきたので、ピョンはとうとう終わりだと思い目を閉じた。彼女は彼を左の手の平の上に乗せると、いつも彼女が座っているデスクの後ろにある窓の側にやって来て、もう片方の手でカーテンをさあっと開けた。ピョンが一体何をされるのだろうと思って目を開けると、4階の窓から1号館の裏庭がよく見えた。
「あの物置小屋の陰で、ナギサとマリアンヌが時々お茶をしています。ウィディアが居た頃は3人で、それは楽しそうに・・・」
ピョンが窓から外を見下ろすと確かに木々に囲まれては居るが、物置小屋はここからよく見える。丸見えやがな、渚・・・。ちょっと間の抜けている渚達にピョンはため息をついた。
「ウィディアが全ての責任を取ってここを出ると言って来た時、私はあえて引き留めませんでした。この子には独りで生きていける強さがある。この狭い世界で生きるよりも、もっと広い世界で生きる方があの子には似合っていると思いました。そしてナギサも・・・。あの子にとってもここは窮屈すぎるだろうと・・・」
なんとまあ、不器用な先生やなぁ・・・。
シスター・ボールドウィンはウィディアや渚の為に憎まれ役をしていたのだ。誰から見ても彼女達を校長が嫌っていて、邪魔な二人を追い込んで辞めさせたように思われるだろう。そんな風にしか周りの者に愛情を示す事が出来ないシスター・ボールドウィンに同情して、ピョンは下から校長の顔を見上げた。
「確かにウィディアはそうかもしれへんけど、ナギサは違うと思うで。あいつはまだ両親の死から立ち直っとらへん。この間も両親の事を思い出して、写真立てを抱きながらずっと一人で泣いとったしな。まあたまには思いっきり泣くのもええやろと思ってワイは何も言わへんかった。ワイが妙に慰めたらあいつは無理して笑いよるから・・・。
それにナギサはまだはっきり自分の進む道を決めてるわけやない。本来ならまだ大学で勉強してるはずやったのに、あまりにも一気にいろんな事が起きてもて整理がつけへんのやろう。そやからここで過ごす時間はあいつにとって心の整理を付けるのにちょうどいい期間やと思う。両親の死を乗り越えて新しい自分の道を切り拓いていく為に必要なものや。ここの戒律も子供を教える事も・・・。
だからあいつをここに戻してやってくれ。あいつはこのミシェル・ウェールズにとって新し過ぎる風かも知れへんけど、決して不快な風にはならへんはずや。そう思えへんか?校長先生」
「ナギサを信じているのですね」
「そうや。ナギサはええ女になるで。なんせこのワイが初めて信じた女やからな」
その時今まで一度も笑った事などないように思われるシスター・ボールドウィンの深いしわが、一瞬ほころんだような気がしてピョンはもう一度彼女の顔を見た。しかし明かりに背を向けて立っている為か、その表情を読み取る事が出来ない内に、彼女はいつもの顔に戻っていた。
シスター・ボールドウィンはピョンを机の上に置くと、椅子に座り直した。
「そうですね。あなたが側に居ればきっとナギサは大丈夫でしょう」
「え?それって、もうワイは火あぶりにならんでもええって事か?」
「私はカエルを焼き殺す趣味はありませんよ」
「ほな、ナギサは?ここに戻って来てもええんか?」
「ナギサが戻って来たいのなら、私はそれでいいと思っています」
相変わらずわかりにくいシスター・ボールドウィンの温情ではあったが、ピョンにはそれで充分だった。彼はぴょーんと机から飛び降りると「おおきに、ありがとな、校長先生!」と叫んだ。校長はゆっくりと立ち上がって彼の為にドアを開け、ぴょんはすぐに飛び跳ねて部屋を出ようとしたが、ふと立ち止まった。
「そうや。ナギサ達の秘密の場所を誰にも言わんかったお礼に、とっておきの秘密を教えたるわ。ナギサはあんたの事を話す時、いつも言うんやで。『校長先生は私の事をあまり好きではないかも知れないけど、私はとても尊敬しているの。だってあんなおばあさまが居たら素敵でしょ?』って・・・」
そう言ってカエルはすぐに出て行ってしまったので、校長が「グランマ・・・」と呟きながらほんの少し赤くなっていたのを知る由もなかっただろう。
ピョンは一刻も早く、渚にこの事を知らせてやりたくて懸命に飛び跳ねた。きっと彼女は泣いて喜ぶだろう。危ない事をして、と怒るかも知れないが、又明日から元気に学校へ行く姿を見る事が出来る。
ピョンは来る時よりもずっと軽い足取りで、校門の柵の間を飛び抜けた。しかし、彼の身体はバサッという音と共に空中に止まっていた。びっくりして周りを見回すと、自分が大きな網の中に捕らわれているのに気が付いた。こんな経験は何度もある。
大きな輪のついた虫取り網からカエルが逃げ出さないよう、その入り口を手で握りしめると、彼を捉えた男はそれを自分の顔の前まで持ってきて、もう一人の男とニヤッと笑い合った。
「おしゃべりガエル、捕まえた」




