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夢みるように恋してる  作者: 月城 響
Dream6.別離
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5.さようなら

 今日の一限目の授業では、先週教えた漢字と文章の入った少し難しいテストを行った。こういった選択授業では少人数のため、イギリスの学校では大体先生や講師を囲むように半月型に席をランダムに並べているものだが、ミシェル・ウェールズの教室ではそんな机の配列は許されない。


 きっちり席が並んでいるので、渚は日本のテストのように後ろから生徒に回答を送らせて一番前の席に集まってきたテスト用紙を回収していた。それが終わるとサラを呼んで、一緒にシスタールームまで運んでくれるように頼んだ。


 日本語の授業の生徒はほんの15人程度なので、わざわざ生徒に運んでもらうほどでもなかったが、サラは喜んで集めたテスト用紙を持って彼女の後ろに従った。大好きな渚先生の役に立てるのは、サラにとっても嬉しい事だった。


 シスタールームの手前で渚は立ち止まると、サラの持ったプリントを「ありがとう、もういいわ」と言って受け取った。


「でも、ナギサ先生。シスタールームはまだだよ」

「うん。でも、もうそこだから。手伝ってくれたお礼に、これを貰ってくれる?」


 そう言って渚は本の間から一枚の写真を取り出した。この間、渚の携帯でこっそりサラと2人で写真を撮った時のもので、彼らの背景には富士山が写っていた。シスター・エネスに取り上げられたサラの宝物の写真集の代わりを、渚はサラに作ってあげたかった。渚がサラにわざわざプリントを運ばせたのも、人気の無い場所でこの写真を渡す為であった。


「わあ、すごい。これ富士山?」

「そうよ。ネットの写真を取り込んでこの間撮った写真と合成したの。良く出来ているでしょ?」

「本当に富士山の前で写真を撮ったみたい!」


 サラは少し興奮気味で叫んだ。


「これなら誰かに見られても先生と写っている写真って言えば大丈夫よ。でもなるべく見せないようにした方がいいわね」

「うん。ありがとう、先生。サラ、大事にするね」


 サラは嬉しそうに写真を胸に抱きしめたあと、渚の頬にキスをした。


「先生。大好き!」

「うん。先生もサラの事が大好きよ」







 全ての授業を終えると渚は漢字のプリントや教科書を鞄に詰め込み、礼拝堂に向かった。


 ミシェル・ウェールズの鉄の戒律では朝の礼拝をサボると、とんでもない罰が待っている。一週間のトイレ掃除、もしくは礼拝堂の壁および柱磨き。無論“天にまします我らの父よ・・・”から始まる聖書の祈りの言葉を唱えながらだ。最悪、反省室入りという罰まであった。


 しかしシスターや臨時講師にはそこまでの罰はない。無論シスターで朝の礼拝に遅刻してくるなど、あのウィディアでもした事はなかったが・・・。


 だがミシェル・ウェールズに居る全ての人間が参加いるのに、自分だけ礼拝に出ないのは気まずいし、日本には“郷に入れば郷に従え”ということわざもある。渚はここに居る間は皆と同じように朝の礼拝に参加しようと決めていた。しかしそれをついこの間すっぽかしてしまったので、その日は授業が終わってからここへ来て祈りを捧げた。


 それから時々渚はここへ一人で来るようになった。


 重い木のドアを開け、静まりかえった礼拝堂の中を歩いて祭壇の前で跪き両手を胸の前で組む。


「神様。今日も無事授業を行う事が出来ました。ありがとうございます」


 一通り謝礼の言葉を述べると、渚は祭壇の上を見上げた。金色に輝く夕日が神々しく像を照らし、渚の顔もオレンジ色に染め上げている。それをじっと見た後、もう一度渚は頭を下げた。


「神様。私はクリスチャンではありません。だからもし願いを叶えて貰うのに何かが必要だとしたら、渚の持てる物は何でも差し出します。だからどうかピョンちゃんをお守り下さい。彼はずっと独りぼっちで生きてきました。だからもう辛い思いや悲しい出来事が彼に訪れませんように・・・」


 その祈りの言葉の後、礼拝堂の入り口のドアが、重苦しい音を立てながらゆっくりと開いた。こんな時間にここに来る人間はほとんど居ない。居るとしたら礼拝堂に用がある人間ではなく、ここに居る渚に用のある人物だ。


 渚はきゅっと唇を噛みしめると、覚悟を決めたように立ち上がり、今入ってきた人物の名を呟いた。


「シスター・エネス・・・」








 ダークブラウンの暗く落ち着いた色調の校長室プリンシパル・ルームが今日はひときわ重苦しい空気に包まれていた。校長がいつものように肘をついているデスクの上には、以前渚がウィディアに見せて貰ったグローバルと書かれた雑誌が置かれており、これからは始まる小さな裁判で、何が裁定されるのかを示していた。


「ミス・コーンウェル。この雑誌に書かれている“しゃべるカエル”とはあなたの飼っているカエルではないのですか?」


 静けさを振り払うようにシスター・エネスの声が響いた。


「なぜ、そんな風に思われるのですか?」


 渚は冷静に聞き返した。


「雑誌の取材が来たからです」


 それを聞いて渚は“やっぱり・・・!”と思った。あのヨレヨレの上着とエドウィン・ホーマーの顔を思い出すと吐き気がする。


「エクスジャーナルの記者ですね?」

「いいえ。この一週間で3つの雑誌社から取材の申し込みがありましたが、エクスジャーナルという所は来ていません」


 意外な答えに渚は戸惑った。あの男なら真っ先にここへ乗り込んで来そうなのに・・・。


「我々としてもいい加減な噂を真に受ける訳にもいきません。でもあなたがカエルを飼っているのは事実ですし、真相はあなたの口からお聞きしようと思った訳です」


 渚はここに来た時から覚悟は決めていた。神に仕える彼女達に嘘は付けない。特に渚はこの校長先生ヘッド・ミストレスには嘘を付きたくなかった。


「全てをお話しする前に、聞いていただきたい事があります」








 玄関から響いてきた鍵を開ける音に、ソファーの上でうとうとしていたピョンはビクッとして顔を上げた。渚が帰って来た。そう思ってピョンは急いで飛び跳ねた。リビングから隣のダイニングに顔を出すと、ちょうど渚も両手にたくさんの買い物袋を抱えて入って来た。


「どないしてん?その買い物は」


 びっくりしたようにピョンが聞いた。


「すごいでしょう?こんなに一杯買っちゃった。パーティしよう。パーティ!」


 たくさんの買い物袋をアイランドテーブルの上に置きながら、なぜか渚はやたらとハイテンションだ。


「パーティ?何の?」


 袋の中から野菜や果物、チーズ等を出しながら、渚はピョンの方を振り向かずに言った。


「退職祝いよ」

「退職祝い?誰の?」

「もちろん私に決まってるじゃない。今日ね、シスター・エネスと大喧嘩しちゃったの。あんまり腹が立ったから『もう辞めます』って言って帰って来ちゃった。ああ、なんだかすっきりしたわ。ほんと。あんな所、辞めて良かった!」


 渚はピョンに背中を向けたまま一気に話した。ピョンはそれをじっと聞いていたが、カウンター用の椅子に飛び乗ったあと、渚の前のカウンターに飛び移り「渚。それ、ほんまなんか?」と聞いた。


「ホントよ」

「なら何で後ろ向いてんねん。ワイの方向いてみ」


 どうしていいか分からず、渚は黙り込んでしまった。振り向きたくても出来なかったのだ。ピョンを見たら泣いてしまいそうで・・・。


「渚。パソコンって、便利やなぁ。ワイみたいな力の無いカエルでも知識さえあれば簡単に扱える。中でも凄いんはインターネットや。ここにおってあらゆる情報を手に出来る。ワイは毎日暇でな。いろんな情報も端から端まで目を通しとうし、ネット上の三面記事も大体チェックしてるんや」


 渚はドキッとしてピョンを見下ろした。まさか・・・。


「お前がワイに心配かけんように、何も言わんと一生懸命頑張っとうからワイも知らんふりをしとった。一人でよう頑張ったな。辛かったやろ・・・」


 渚の中でずっとため込んでいた思いが一気に涙となってあふれ出し、彼女はその場で崩れるように座り込んだ。ピョンはカウンターから渚の膝の上に飛び移ると、何があったのか話してくれるよう促した。








「全てをお話しする前に、聞いていただきたい事があります」


 西日が眩しい為カーテンが閉められた薄暗い校長室の中で、渚は目の前に居る校長をじっと見た。この人ならもしかしたら理解してくれるかも知れない。いや、分かって貰いたい。ピョンは決して悪魔が憑いているのでも何でもないのだと・・・。


「私は日本でいつも一人でした。両親はほとんど海外で家に居ませんでしたし、同じ年の友人もおりません。大学で友達は居ましたが、皆大人で背伸びして彼らの遊びに付き合う事も無いと思い、いつも家と学校の往復が日課でした。


 それでも寂しいと思った事は無かった。両親は毎日メールをくれたし、勉強する事は山ほどありましたから・・・。でも両親が亡くなって・・・もう二度と彼等からメールが届く事も一緒に笑い合う事も無くなったのだと分かった時、この世界の中で私は本当に独りぼっちになったような気がしました。


 イギリスに来てもそれは変わりませんでした。誰も知り合いがいない見知らぬ土地に来たのですから当然ですが、それでも私は私なりに夢を持っていました。でも、世の中はそんなに甘くなくて・・・問題にぶつかる度にどうしていいか分からなくて、一人が辛くて・・・そんな時に私は、一匹のカエルを拾ったのです」


 渚は一息つくと、これから先の事を話すべきかどうか迷った。でもここまで話した以上、話さない訳にはいかないだろう。必ず分かってもらえると信じて・・・。


「そのカエルは普通のカエルよりちょっと大きくて、そしてカエルなのに人間より人間らしくて、優しい心を持っていました。辛い事があって私が泣いていると、彼は必ず側に来てくれて私を励ましてくれます。“なあ、ナギサ。そんなに落ち込むなや。世の中、そんな悪い事ばかりやないで”って・・・」


「そ・・・それは、つまり・・・そのカエルは言葉を話すという事なのですね?」


 震える声でシスター・エネスが問いかけた。


「はい・・・」

「なんて恐ろしい!校長先生、悪魔ですわ。そのカエルは悪魔が姿を変えているのです!」

「違います!ピョンちゃんは悪魔なんかじゃありません。しゃべれるだけの普通のカエルです!」

「何が普通ですか!しゃべるカエルのどこが普通なのです。あなたは悪魔に騙されているのですよ!」


「騙されてなどいません。もしピョンちゃんが悪魔ならこの世の中は魔物だらけだわ。彼は一族全てを失ったんです。この世にたった一人生き残った事を悔やみながら生きてきた。だからこそ彼は他人の気持ちが分かるんです。


 彼は別に私と居なくても充分暮らしていけるんです。でも私が寂しがるから、だからあの外よりずっと不自由な家の中で私を待っていてくれる・・・。彼は人間じゃないけど、誰よりも人間らしい優しい心を持っているんです。そんな彼をどうして言葉を話すだけで虐げられるんですか?」


 校長はいつものようにデスクの上に肘をついたまま、じっと目を閉じて渚の話を聞いていたが、やがてそのくぼんだまなこを開くと渚を見据えた。


「では、そのカエルが悪魔の化身でないと言うのなら、ミス・コーンウェル。そのカエルをここに連れて来なさい」


 来るべき言葉が来てしまったと渚は思った。それを拒めば次に来る言葉は分かっている。それでも渚は首を左右に振るしかなかった。


「出来ません」

「それではそのカエルが悪魔だと認める事になるのですよ。そんな物と暮らしているあなたももはや魔女と言わざるを得ません。ここを追われる事は覚悟の上なのですね?」

「どうしても信じてはいただけませんか?」

「信じてほしければ、カエルを連れて来なさい」


 渚は悲しげに瞼を閉じた。ここにピョンを連れてくれば、渚がどんなに止めても泣き叫んでも彼は火あぶりにされるだろう。彼女は大きく息を吸い込むと、校長の前で深々と頭を下げた。



「短い間でしたが、お世話になりました」









 渚の膝の上で彼女が降らす涙の雨に濡れながら、ピョンはじっと渚を見つめた。どうしてこんなに力がないんだろう。こんなにもこの小さなひとを守りたいと思っているのに・・・。きっとこの場面を見たらアレクはこう言うに違いない。


ー だから渚は僕に任せれば良かったんだ。僕なら彼女をこんな風に泣かせたりしないのに・・・ ー


 ピョンはやるせなさそうに首を振ると、渚に呼びかけた。


「渚。渚・・・ごめんな。ワイの為に、辛い思いさせて・・・」


 渚は首を横に振ると、頬の涙を拭い取り、ピョンを両手ですくい上げ自分の顔の前に持ってきた。


「ピョンちゃんのせいだなんて、一度も思った事はないよ。ただミシェル・ウェールズの仕事は1年と8ヶ月だけだったからちゃんと終えたいと思って・・・。それが出来なくなったからちょっと悔しかっただけ。でも全部ピョンちゃんに聞いて貰ったらすっきりしちゃった。もう大丈夫だよ」


 そう言って自分に微笑みかけた渚を、ピョンはとても強い人だと思った。


「そうか。それでこれからどうするんや?」

「うん。まず日本へ帰って、ミシェル・ウェールズの仕事を紹介してくれた木戸先生にご挨拶に行くわ。それからパパとママのお墓参りもしなきゃ。一周忌もしないといけないし」


「そやな。ほんならワイも挨拶に行かなあかんな。渚のとこで世話になっとうカエルですってな」


 渚はまだ赤い目をしながらも嬉しそうに笑った。


「うん。ちゃんとパパとママに紹介するね」

「でも、まあ、とりあえずはパーティの準備でもするか。こんなにぎょうさん買って来てんからな」

「うん!」


 そうして渚とピョンは二人で食べきれないほどの料理を作り、渚が買って来た387ポンド(約7万円)もするドン ペリニヨンを惜しみなく開けた。最近ずっと気を張り続けていた渚は、酒が入ると急に眠気が襲ってきたらしく、ソファーの上で横になった。


「渚、寝てもたんか?」


 枕元でピョンが声をかけたが、渚は気持ちよさそうに寝息を立てて眠っていた。そんな彼女の寝顔に微笑みかけると、ピョンは小さな声で語りかけた。


「ごめんな、渚。お前と一緒に日本へは行かれへん。お前はここでちゃんと仕事を全うするんや。アレクと約束したから。どんな事があってもお前を守るって・・・。だからな・・・」


 彼は小さな丸い指先で渚の頬にちょんっと触れると、彼女に背中を向けた。



「さよならや、渚・・・・・」





 


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