3.やり過ぎの記者
家に戻ると、ピョンが今晩のおかずに使うホールトマトの缶詰を開けようとオープナーを持って格闘していた。今日は鶏とほうれん草のトマト煮込みを作る予定だと、朝話していたからだ。すぐに部屋で着替えをしてキッチンに行くと、彼はまだ一生懸命オープナーを使おうとしている。
どうやらピョンは表の騒ぎに気付いて居ないようだ。出来ればこのまま何も知らないで居て欲しい。大怪我から回復したばかりのピョンに、余計な心配は絶対に掛けたくない。
「いくらピョンちゃんでも、オープナーで缶を開けるなんて無理でしょ?」
渚はピョンの持っている缶切りを取り上げると、缶を開け始めた。
「いや、無理な事はないと思うで。昔エジプト人は非常に数値に長けとってな。ピラミッドを組むのも、あの大岩を動かすのも全て計算して、どれ程の人員を用いるか、どれだけの動力が必要か全部知っとった。
その時採石場から切り出した大岩を持ち上げるのに使ったのが“てこの原理”や。これを使えば小さな力で大きな物を動かせる事を知っとったんやな。このオープナーもそう。支点の位置にもよるけど、てこの原理で20いる力を1にしとる。
例えば大人の人間の力が100としてこの缶を開けるのに必要な力は1,000やけど、このオープナーを使う事によって50ですむ。50しかない子供の力でも開けられるようになったんや。もしワイの力が人間の力の250分の1ぐらいとすると、ワイの力を125倍に増やせる道具があれば、この缶は開くというわけや」
渚は缶を切る手を止めて、数学の計算を始めたピョンを見つめた。一体彼はどんな生き方をしてきたのだろう。歴史に詳しく数学も出来るカエル。
渚は天才少女などと呼ばれているが、天才という者は所詮偏った知識に長けている者が多い。彼女は語学では母国語以外に7カ国語を操り、古語学を専門に勉強しているが、そのほかの分野では他の大学生より少し秀でている程度であった。だがピョンはあらゆる分野の知識と広域を見る目を持っている。そしてその全ては机上のものだけではなく、実生活で役に立つもの、生きる上で必要な知識なのだ。
「ピョンちゃんがもし人間だったら、天才青年博士かもしれないね」
渚の賛辞に、ピョンは片目を閉じてニヤッと笑った。
「ちゃうちゃう。間が抜けとうで。天才美青年博士や」
彼らは顔を見合わせて思い切り笑い合った。こんな風に二人で笑い合える時間を失いたくないと渚は心の底から思った。そしてこれからどんな事があっても、そしてたった一人でも、彼を守り抜くのだと心に誓った。
次の日の朝、渚はいつも通り玄関まで見送りに来たピョンに出かける挨拶をしてドアを開けた。すでにマンションの下に昨日の記者連中が集まっている事は充分予想できる。家を出るのをとどまって、渚は後ろを勢いよく振り返った。
「ピョンちゃん!」
「な、なんや?」
「私、頑張ってくるからね!」
両手を握りしめてガッツポーズをとる渚に、ピョンは少し驚いたように「お、おう、頑張れ」と声をかけた。鍵を閉め、歩いて行く足音も随分と力が入っているようだ。
「えらい気合い入ってんな、渚。熱血教師や・・・」
階下に降りると予想通り記者達がすぐに周りを取り囲んだ。
「ミス・コーンウェル。詳しい事を教えて下さいよ」
「グローバルに載っている記事は本当なんですか?」
渚は黙って一通り彼らの質問を聞いたあと、ゆっくりと自分の前に居る人々を見回してクスクス笑い始めた。
「いやだわ、しゃべるカエルなんて。皆さん本当にそんな事を信じていらっしゃるの?だとしたら少々ファンタジー映画の見過ぎとしか思えないわ」
渚はおかしさをこらえるように口元に手を当てた。
「確かに私はカエルを飼ってますけど、どこにでも居る普通のカエルですよ。まあ、一人暮らしですから時々寂しい時にはしゃべりかけたりしますけど、返事はないですね。何も答えてくれなくても、居るだけで癒やされるものでしょ?ペットって」
渚はピョンを一度もペットと思った事はなかったが、友達等と言えば妙に勘ぐられるだろう。彼女はもう一度にっこり微笑むと記者の間をゆっくりと歩き始めた。その毅然とした態度に、彼らはそれ以上何も質問できずに渚を見送った。しかし・・・。
「では、その普通のカエルを見せていただけませんか?」
後ろから響いてきた声に、渚は立ち止まると振り返った。以前、飛行場に向かう時にしつこく質問をしてきたあの男が、相変わらずヨレヨレの皮のジャンパーを着て、記者達の群れの前に立っていた。
「エドウィン・ホーマー・・・」
渚はすぐ返事をせずに、黙って彼を見つめた。この騒ぎの張本人に文句を言ってやりたいのは山々だったが、あの雑誌の記事を見る限り、この男が見かけ通りでない事は確かだろう。
もし適当に普通のカエルを手に入れ「これが私のペットです」と言って見せても、この男ならすでに隠し撮りをしてピョンの写真くらい手に入れているかも知れない。
「残念ですわ。あの子、とてもデリケートでたくさんの人の集まる所やシャッターやフラッシュが大嫌いなんです。前も友人達とパーティをした時、病気になってしまって。ですから申し訳ないですけど、知らない人と会わせるなんて出来ません」
渚は最後の台詞を言い終わらない内に彼等に背を向け、さっさと歩き出した。あまりにも正反対の事を言っている内に笑い出しそうになってしまったのだ。ピョンちゃんがデリケートだなんて、本人が聞いても大笑いするよね。
「なんだ、つまらん。やっぱガセかぁ」
「エクスジャーナルさんよ。いくらネタ詰まりだからって、しゃべるカエルはあんまりだぜ?」
どうやら記者達は渚の態度にしゃべるカエルなどやはり存在しないのだと思い込んだようで、口々にエドウィンに嫌味を言いながら帰って行った。だがエドウィンは彼等が帰った後もじっとその場から動かず、渚の部屋のある3階を見上げた。
「さあ。そうとばかりは限らないぜ」
してやったりと思いつつ、学校へ向かっていた渚だが、ふとある事を思い出した。今日漢字の小テストをする予定だったが、その問題を忘れてきてしまったのだ。渚は真っ青な顔をしてその場に立ち止まった。それでなくても遅刻寸前なのに、今帰れば朝の礼拝をすっぽかす事になる。だが生徒の前で一度言った事を自分のミスで撤回するのは絶対に出来なかった。
「ごめんなさい、神様!」
渚は胸元でクロスを切ると、そのまま踵を返し家へ向かって走り出した。
渚のマンションがある通りは大通りから少し離れている為、一通り通勤や通学をする人々がいなくなると、閑静な住宅街に戻る。人通りがなくなるのを待ってエドウィンは物陰に隠していた梯子をずるずると引きずってきた。梯子は最大5メートルしかないので、3階の渚の部屋のベランダまでは届かないが、あとは石のタイルの隙間に指を突っ込んで、根性で壁をよじ登ってやる。壁には雨樋があるし、そこをうまく掴めばベランダを覗くくらいは出来るはずだと彼は踏んでいた。
「下手をすると、家宅侵入で訴えられるかも知れないが、まあ何とかなるだろう」
軽い口調で呟くと、エドウィンはマンションの壁に梯子を立てかけ登り始めた。
渚の家の下、2階の主婦が洗濯物を干していたらしく、登ってきたエドウィンを見てびっくりした顔をした。
「ハロー。3階のベランダが壊れちゃってね。外から修理するんだ。物を落としたりしないから安心して」
驚いた表情の女性に笑いかけ、彼はとうとう梯子の頂上までやって来た。「よし!」と気合いを入れ、壁に手をかけた。
ピョンはいつものようにリビングのソファーの上で、日本食スーパーで買った近頃お気に入りの照り焼きチキン味ポテトチップスをぼりぼりと食べながらテレビを見ていた。
「ああ、暇やなあ。出かけたらあかんって言われると、余計出かけたなるわ」
ふとベランダの外で何かが動いた気配がして目をやると、見た事のない男がにっこり笑いながらこちらに向かって手を振っているのが目に入った。ピョンはこの間彼と会ったとき渚のバッグの中に閉じ込められていたのでエドウィンの顔を知らなかったので泥棒かと思ったが、泥棒が手を振って住人に知らせてくるはずはない。間違いなくこの間の記者だと思ったピョンは出て行って叱ってやろうと思った。しかし昨日食事をしながら渚が言っていた言葉を思い出した。
「ピョンちゃん。しばらくの間、決して外には出かけないで。絶対誰にも姿を見られちゃ駄目よ。いい?」
「渚は心配性やなぁ。大丈夫やって」
「お願い、ピョンちゃん。約束して」
そう言って渚は小指を立ててピョンの前に差し出した。
「な、なんや?それ」
「指切り。日本では絶対約束を守る誓いを、こうやってするの」
それを聞いてピョンは心の中で「え?」と思った。では日本では裁判の宣誓をする時、みな小指を立てて宣誓するのだろうか?ちょお気持ち悪いなぁ。(注:日本では宣誓は宣誓書を読むだけです)
「小指ゆうたかてワイの指、4本しかないで?」
「じゃあ一番短いのでいいわ」
もちろんピョンの指は小さなマッチ棒の様な指なので、渚の指と絡める事は出来ない。そこで彼らは指と指の先を当ててその代わりとした。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ーます。指切った!」
昨夜の指切りの誓いは、ピョンにとって絶対的な物だった。
ー 嘘をついたら針を千本飲ませる ー
なんちゅう恐ろしい誓いや。いくらワイでも針を千本も飲んだら、しばらくは復帰できへんで・・・。
その約束を思い出すと、慌ててピョンはソファーのクッションの後ろに飛び込んだ。ベランダの向こうからやっと目当てのカエルの姿を見られたと思っていたエドウィンは慌てて「あっ、君。ちょっと待って!」と叫んでベランダへよじ登ろうとしたが、「あなた、何をしているんです!」と言う声にびっくりして遙か遠い地面へ目をやった。渚がものすごく怒った顔をして自分を見上げて居たのだ。
「うそ。学校へ行ったんじゃなかったのか?」
あまりに慌ててしまったので彼は足を踏み外し、思わずベランダの柵に掴まった。これはまずい。足が空中に浮いている。それを見て、さすがに怒っていた渚も慌てて叫んだ。
「しっかりして。ゆっくり降りればいいわ。柵を掴みながら右側に移動して。梯子まではすぐよ」
息を切らしながら何とか壁を伝って、梯子まで辿り着いた。やっと一息ついたが、今度は又渚の怒った声が下から響いてきた。
「そこに居なさい、エドウィン・ホーマー!警察に連絡して、家宅侵入の現行犯で逮捕してもらうわ!」
「ちょ、ちょっと待って下さい!家に入ろうなんて思ってません。ちょっと覗こうと思っただけで・・・」
「それだって立派な犯罪です!」
確かに犯罪だ。とにかく下に降りさせてくれと怒っている渚を説き伏せて、エドウィンはやっと地面に降り立った。青い顔をして息を切らせている彼を見て、渚もさすがに警察には連絡するつもりはなかったので、彼をきつい目で見上げて腰に手をやった。
「今度こんな事をしたら本当に訴えますよ」
「す、すみません。あの、でもほんの少し、少しだけでも会わせてもらえませんか」
とんでもない醜態をさらしてしまったエドウィンは、かなり低姿勢で頼んだ。
「嫌です」
「一目、ほんの一目だけでいいから!」
「駄目です!特にあなたのような人には絶対に会わせません!」
ぷいっと後ろを向いて去って行く渚の背中に「くそっ!」と毒づくと、彼はボリボリと頭をかいた。




