3.しゃべるカエル
「きゃっ!」
渚はびっくりしたが、カエルの方はポケットから顔を出して、聞いた事のある日本の演歌を歌っている。渚は思わず頭に手をやって目を閉じた。
ー 幻想がダミ声で演歌・・・。メルヘンでもファンタジーでもないわよね ー
ポケットの重さは、これが現実である事を示していた。確かにこれから家に帰るのだ。渚は半ば開き直って家路についた。
家に帰ってすぐキッチンに向かうと、昨日買っておいたクロワッサンの袋からパンを取り出し、皿にのせてキッチンのテーブルに置いた。カエルは「わあ、クロワッサンや、久しぶり!」と叫びながらコートのポケットから飛び出すと、大口を開けてクロワッサンを頬張った。だが慌てて食べたせいかパンが喉に詰まり、苦しそうに顔をゆがめた。
「慌てちゃ駄目だよ、ピョンちゃん」
渚が持ってきた水を飲みながら、カエルはぎょろりとした大きな目を渚に向けた。
「ピ・・・ピョンちゃん?なんや、それ」
「だって、カエルだからピョンちゃんでしょ?」
「あほ!誰がそんな間抜けな名前で呼べゆうてん。ワイにはアルティメデス・エ・ラ・ハザードっちゅう立派な名前があんねんぞ!」
アルティメデス・エ・ラ・ハザード。確かに立派な名前だ。昔彼を飼っていた飼い主がつけたのだろうか。
「それはいい名前だね。じゃあ“ピョンちゃん”はあだ名にしよう」
「なんでそうなんねん!」
関西的な突っ込みを返してくるカエルの為に、渚はクロワッサンを小さくちぎりながら尋ねた。
「どうして日本語なの?英語、話せないの?」
「いいや。しゃべれるけど、ワイはこの言い回しが好きやねん。昔船に密航した事があってな。その船が行き着いたんは日本の大阪港やった。ワイが乗ったんはコンテナ船やったけど、着いた時に見えた、でっかくてまあるい輪っかがピカピカ光って、まるで空から降りてきたみたいにキレーやったな」
彼が言っているのは多分、天保山の大観覧車の事だろう。まだロンドンに来て間がないが、すでに懐かしくなっていた日本の事を聞けてなんだか嬉しかった。大阪はカエルにとって面白いところだったらしい。食べ物もうまかったとニヤリと笑った。
「おまえは何でしゃべれんねや、日本語」
「ハーフだから日本人っぽくないかも知れないけど、一応日本人だよ。それについこの間まで日本に住んでいたし」
「へえ、ホンマ?日本のどこ?」
「神戸」
「神戸?せやのになんで標準語なん?」
「だって私、日本語の教師なんだよ。さすがに関西弁では教えられないよ」
「へえ、先生なんか。そりゃすごいなぁ」
なんだかカエルと会話をしていると、とても楽しくなる。久しぶりに日本語で話が出来るからだろうか。彼のダミ声の関西弁も慣れてくると、耳に心地よく聞こえた。渚はにっこり笑うと、パンを入れる為に置いていた籐のかごに新しいタオルを詰め込んだ。
「ピョンちゃん、今日泊まっていく?そしたら明日学校に行く時、一緒に連れて行くよ。それとも誰か待っている人が居るの?」
「は?ワイには家も仲間もおらへんけど」
「じゃ、決まりね。これはベッドよ。あ、その前にお風呂に入らなきゃ」
「風呂?」
カエルはひどく嫌そうな顔で渚を見上げた。
「ワイはカエルやで。水浴びはいつでもしてる」
「でも家に帰って来たら、お風呂に入るものよ」
そんな人間の習慣なんか知らん、と言おうとしたが、その前に両手で身体をすくいとられて浴室まで連れて行かれてしまった。
次の日の朝、渚はカーテンの隙間から漏れる光に驚いて飛び起きた。目覚まし代わりのスマホをリビングに置きっぱなしにしてしまっていたようだ。急いで着替えてキッチンに向かうと、テーブルの上に置いた籐かごの中で黄緑色のカエルが気持ちよさそうに寝息を立てていた。
「やっぱり、夢じゃなかったんだ」
渚は小さくつぶやくと、上を向いて寝ているカエルに顔を近づけた。ぷくぷくと太っている白いおなかを見ていると何となく触りたくなったので、人差し指の先でつついてみた。
「うーん。もう食べられへんて」
どうやら夢を見ているようだ。昨日まではカエルに触るなんて気持ち悪いと思っていたのに、今日はなんとも思わなかった。それにカエルの体はもっとヌルヌルしていると思っていたが、意外にさらっとしていて柔らかい革製品を触っているようだ。面白くなって何度も押してみた。
「うーん、クロワッサン・・・」
寝言を聞いて、たまらなくかわいらしく思えた。・・・が、そんな事をしている場合ではないのだ。朝の礼拝に遅刻したら、シスター・エネスに何を言われるか分からない。渚は急いでクロワッサンを籐かごの横に置くと、ピョンに笑いかけて出て行った。
昼過ぎに目を覚ましたカエルは、大きなあくびをしながら周りを見回した。どうもいつもの風景と違うと思ったら、昨日妙な女に拾われてそのまま寝てしまったことを思い出した。時計は昼の12時10分を指している。教師だと言っていたので、彼女はもう学校に行ったのだろう。かごから飛び降りた彼は、すぐ側に置いてあるクロワッサンに気がついた。
ー 渚・コーンウェルとか言ったっけ。変な女やな。このパンはワイのために置いたんやろし・・・ ー
ピョンは丁寧にラップをかけられたクロワッサンを取り出しながら考えた。
ー おまけにカエルを泊めたろやなんて・・・ ー
授業が終わると渚は帰り道にあるスーパーで買い物をし、急いで家に帰ってきた。
「ただいま、ピョンちゃん?」
返事がなかったので、すぐにキッチンに行ってかごのベッドを覗いたがカエルは居なかった。帰ってしまったのだろうか。せっかくピョンちゃんの好きなクロワッサンを買ってきたのに・・・。残念そうにため息をつくと、渚は買ってきた食材を調理台の上に置き始めた。
「おお、クロワッサンやんか」
「ピョンちゃん?」
振り返ると背中が濡れたままのカエルが目に入った。
「お風呂に入ってたの?」
「おう。昨日の水がまだタライに残っとったからな。それより早よ上げてんか。わい、腹が減ってんねん」
渚はクスッと笑うと彼をすくい上げ、テーブルにのせた。今日のクロワッサンはミニサイズだ。この方が食べやすいだろう。
「クロワッサンだけじゃ足りないだろうから、野菜スープでも作ろうかと思うんだけど」
「おう、気い利くな。ワイのは冷たいのにしてくれ。熱いもんは食われへんからな」
「分かったわ」
どうやらピョンはよほど堅い物以外は何でも食べられるようなので、渚は買ってきた野菜を刻み始めた。
「今日ね、朝の礼拝に3分遅れちゃって、シスター・エネスに大目玉食らっちゃったの」
「シスター・エネス?誰や、それ」
「ミシェル・ウェールズの主任シスターよ。何かというと、すぐ戒律だの規則だのって子供達を縛り付けて、新しい知識を取り入れるのを邪魔するの」
ピョンは渚が野菜を刻む心地よいリズムを聴きながら答えた。
「ミシェル・ウェールズゆうのは、そういう所や。あの学校は400年の歴史があってな。あそこに子供を預ける貴族ってのは、古くから続く格式のある貴族がほとんどや。そんな奴らの考えてる事いうたら、いかにして先祖代々から続く家屋敷やしきたりと伝統を守り抜くかって事で、当然子供にもそれを要求する。いらん知識なんかつけて、家を守らんようになったら困るやろ?」
渚は目を見開いてピョンを見つめた。
「すごい、ピョンちゃん。評論家みたいだよ」
「フン、ワイはその辺のへっぽこガエルとは違うからな。そやからワイは誰ともつるまへんし、いつも一匹狼なんや」
ー 一匹狼・・・。カエルなのに ー
渚は思ったが、あえて口にはしなかった。
「じゃあ、友達は居ないの?」
「おらん。第一カエルの連れなんか要らんわ」
ぷいっと横を向いたピョンを渚は不思議そうに見つめた。確かに彼は他のカエルとは違う。姿さえ見なければ、まるっきり人間を相手にしているのと変わらないのだ。
「じゃあ、人間は?人間の友達は要らない?」
「人間?そりゃワイはかめへんけど、人間の方が嫌がるやろ?カエルの友達なんて」
「そんな事ないよ。私はピョンちゃんと友達になりたい。私じゃ駄目?」
「いや、駄目やないけど・・・」
「良かった。じゃ・・・」
渚は微笑むと、別の買い物袋から赤や黄緑などのカラフルな色の小さな食器を出し始めた。
「何や、これ」
「今日買ってきたの。この黄緑のはピョンちゃんのお風呂。それからこの赤いお皿は食器で、黄色いのは・・・」
「ちょっと待て。お前、ワイと暮らす気か?」
「うん、そうだよ。何か問題でも?」
「いや、問題って・・・」
ー キャアッ、カエルがしゃべったわ ー
ー 気味が悪い! ー
ー 悪魔が乗り移ってるんじゃないのか? ー
ピョンの頭の中に自分が過去に出会った人間達の言葉が蘇ってきた。言葉が話せると分かった途端、ただのカエルが化け物に変わるのだ。そう考えた人間達に何度殺されかけただろう。急に黙り込んだピョンの顔を渚はのぞき込んだ。
「ピョンちゃん?」
「おまえ、気持ち悪ないんか?」
「何が?」
「しゃべる・・・カエルなんて」
「全然。だってしゃべれるから友達になれたんだよ。それってとっても素敵な事じゃない?」
ピョンはただ驚いたように、目の前で微笑んでいる人間を見つめた。