1.不審な男
次の日から渚は再びミシェル・ウェールズの教壇に立った。不思議な事に生徒もシスターも誰一人事件に付いて尋ねてくる者は居なかったので、いつも通りの静かな学校の様子に渚はほっとする思いだった。
日本の学校で渚はいつも好奇の目で見られていた。日本人とイギリス人のハーフと言うだけでも目立つのに、父親は世界的にも有名な心理学者。15歳で有名私立大学に入学。その後の両親の悲劇。話題性のある彼女を記者達はひっきりなしに追いかけ、悲劇の天才少女として祭り上げた。
心ない大学の生徒達のやっかみ混じりの質問攻めに疲れ果てていた頃、父の友人で渚の恩師でもある木戸教授がこのミシェル・ウェールズでの話を持って来てくれたのだ。少しの間日本を離れていれば、世間はこの悲劇の少女を忘れてくれるだろうと・・・。
いつもはミシェル・ウェールズの戒律を忌み嫌っている渚だが、今回はこの鉄の戒律に感謝したい気持ちだった。きっと“つまらない事で騒ぎ立ててはいけない”という戒律書の第45条、第3項が効いているのだろう。
そんな事を考えながら歩いていると廊下の向こうからマリアンヌとアレクがやってくるのが見えた。マリアンヌは「ナギサ・・・!」と叫んで走り寄って来ると、涙を流しながら渚をぎゅっと抱きしめた。きっと人質になっていた自分の身を案じてくれていたのだろう。渚の目にも涙があふれてきた。その近くで2人の様子を見守っていたアレクが声をかけた。
「君が来たって事は、ピョンはもう大丈夫なんだね」
「ええ、もうすっかり。眠っていた分食べんとあかん、とか言ってずっとお菓子を食べ続けているの。糖尿病になるんじゃないかって心配だわ」
アレクは心配性の渚にクスッと笑いかけた。
「それじゃあ、12月3日は2人で見送りに来てもらえそうだな」
そう言われて渚はハッと思い出した。アレクがミシェル・ウェールズに来てもう3ヶ月。11月一杯で彼は期間講師の契約を終え、その日ニューヨークへ向けて旅立つのだ。向こうへ行ったらほとんど会う事もないだろう。親しい友達が去って行くのはとても寂しいものだ、と渚は思った。だが彼には彼の人生がある。笑って見送ってあげよう。縁があれば必ずまた会えるのだから・・・。
渚はにっこり微笑むと、背の高いアレクの瞳を見上げた。
「ええ。必ず2人で見送りに行くわ」
ー 12月3日 ー
「ピョンちゃん、早く早く!」
玄関でブーツを履きながら、渚はまだ家の奥に居るピョンに叫んだ。
「早く早くって、渚が念入りに化粧しとうから遅なったんやろ?」
「遅くなってないよ。でも少し早めに行った方が安心でしょ?それに念入りになんかしてないよ。いつも通りだもん」
渚は玄関までのそのそと歩いてやって来たピョンを拾い上げると鞄の中に入れドアを出た。
「大体ピョンちゃんが少し早めに行って空港の中を見学したいって言ったんじゃない」
“う・・・まあ、そうやねんけどな・・・”
ピョンは鞄の中で黙って考えた。確かにそうは思ったのだが、アレクに会うのは何となく気が重い。あいつの事だ。最後の最後にどんでん返しを狙い、いきなりニューヨーク行きのチケットを取り出して「ナギサ!今から僕と一緒にニューヨークへ行こう。きっと僕が君を幸せにするから!」などと言ってそのまま彼女の手を掴んで飛行機へ・・・。なんてドラマチックな事をしかねないとピョンは思っていた。
渚の家からほんの数分歩くと、車の良く通る大通りに出る。渚は向こうからやって来たタクシーを見かけると手を挙げて呼ぼうとした。その時「ミス・ナギサ・コーンウェル?」と聞き慣れない声がして、渚はドキッとして上げた手を下ろした。
見知らぬ男がじっと立ってこちらを見ている。あまり防寒にならないようなヨレヨレの黒い皮のジャンパーを着た、センスのなさそうな男だ。茶色い髪はちゃんと洗っているのかと言いたくなるほどボサボサで、年は27、8歳くらいだろう。しかし渚はその男の服装よりも彼の鋭い瞳に何かを感じて、とっさにピョンの入った鞄の口を押さえた。
日本で何人もこんな人間に会った事がある。彼らは人の裏側にあるものを暴いては、それを記事にして世間にばらまくのだ。それが嘘であろうと本当の事であろうと。悲劇の天才少女などと言う偶像を作り上げ、さんざん渚の私生活を引っかき回したのは、こういう人間達なのだ。
「私はこういう者です」
そう言って彼が差し出した名刺には“エクスジャーナル ジャーナリスト エドウィン・ホーマー”と書かれていた。
“やっぱり・・・”
エクスジャーナルがどんな雑誌社か知らないが、渚はもう記者と関わるのはごめんだった。
「この間のウェスト・チャーチル銀行の強盗が立てこもった事件。あなたは人質になってたんですよね」
渚はその質問には答えようとせず、前を見つめたまま冷たく言った。
「全て警察に話しました。何か聞きたい事があるなら、ロンドン警視庁にお聞き下さい」
「そうですか?妙だなぁ」
エドウィンは渚の態度に引きもせずニヤッと笑うと、彼女が握り締めている鞄をじっと見た。
「銀行内で人質になっていたのは行員も含め25人。あなた以外の24人は皆口を揃えてこう言った。“犯人をやっつけてくれたのは、黄緑色の大きなカエルだった。それも言葉を話すカエルだ”と。だがあなただけは違った。“私は恐ろしくてずっと泣いていました。だから何が起こったのか、どうして助かったのかも分かりません”」
「本当の事ですから」
渚はキリッとした目で彼を見つめて言った。
「本当の事、ねぇ。だが犯人に羽交い締めにされて殺されかけた客の一人・・・。あなたは名前も知らないだろうが、彼女はあなたに助けられた事をとても感謝していたよ。私より年下のようなのに勇気のある人だったと。ずっと泣いていたなんて嘘じゃないのかい?」
彼の口調は年若い渚をまるで威嚇するようにだんだんと低くなっていった。教師とはいえ、まだ10代。エドウィンはじわじわと追い詰め責め立てれば必ずぼろを出すに違いないと信じていた。
ー もう私にはかまわないで!放っておいて下さい! ー
そう叫びたくなるのを渚は必死にこらえた。それはまさにこの男の狙い通りの反応なのだから・・・。鞄の中でピョンが「こら出せ、渚!ワイが文句言うたる!」と言いながらごそごそ(ピョンは必死に暴れていたが)動いているのを気づかれないように渚は素知らぬ顔で鞄を持った手を後ろに回した。
「嫌だわ。私、そんな大それた事をしたのかしら。本当に全然覚えてないんです」
彼女は微笑みながらそう言うと、優雅に片手を上げ、タクシーを呼び止めた。
「ほら、あまりに恐怖を感じたりすると、その時の記憶を失ってしまうって言うでしょう?警察の方もそんな風におっしゃってましたわ。では私は友人と待ち合わせをしておりますので」
自分の期待とは的外れの渚の反応に驚き顔の記者に背を向けると、渚は素早くタクシーに乗り込んだ。滑るように車が町中へ消えていくのをエドウィンは何も言わずに見送ったあと、フッと笑って呟いた。
「ふーん?さすが日本の天才少女、というだけはあるなぁ。おもしろい・・・」
タクシーの中で渚ははあっとため息をついて、シートにもたれた。
「こら、渚。なんでワイを出さへんねん!」
そう叫びつつ首を出したピョンの頭をぐいっと押さえて渚は小さな声で囁いた。
「ピョンちゃん、出てきちゃ駄目」
これからはどこで彼らが見ているか分からない。気を付けなければ・・・。渚はぎゅっと鞄の口を握りしめた。
日本で渚の事を報じた雑誌に載っていた写真はカフェで本を読んでいたり学校の帰り道などだったが、どれも渚の許可を得て撮影されたものではなかった。つまり盗撮されていたのである。もしピョンがしゃべるカエルだと公表されたらどうなるのだろう。私一人で守り切れるだろうか・・・。
不安な心を抱いたまま、タクシーはロンドン国際空港に到着した。




