11.元気になって
中の様子をうかがいつつ突入のチャンスを狙っていた警官隊は、犯人が銃から手を放し倒れ込んだのを見ると一斉に飛び込んできた。しかし涙のあふれた渚の目が捕らえたのはそれではなく、「渚・・・」と言いつつ微笑んだ彼が、まるで抜け殻のように床に倒れ込んでいく姿だった。
「ピョンちゃん!」
渚は人質を助け出そうと自分の腕を掴んだ警官の手を振り払い、ピョンの元へ走った。
「ピョンちゃん!ピョンちゃん!やだ、死なないで、ピョンちゃん!」
手の平ですくい上げたカエルの身体は本当に抜け殻のようで、二つの弾痕から彼の身体の中にある全てが出て行ってしまったように軽かった。
「ピョンちゃ・・・ん?いやぁぁぁっ・・・!」
警官隊が突入したあと、すぐに何人かの人質が警官と共に出て来た。そのあと担架に乗せられた犯人が運び出された。公園に集まった報道陣が一斉にカメラを抱えて飛び出していった。
「なんだ?誰か負傷したのか?被害者は客か?」
「いや、あれは犯人らしいぞ!」
たくさんの記者が走り出していく中、アレクは呆然と銀行の入り口を見つめた。渚はどうなったんだ?ピョンは?
野次馬が見守る中、次々に人質達が外に出て来たが、その中に渚の姿を見る事はなかった。アレクは不審に思いつつも、人の波をかいくぐり銀行の中へ入って行った。そして彼は冷たい床に座り込み、手の平の中の小さな生き物を見つめながら、ひたすら泣きじゃくる渚を見たのだ。
「ピョンちゃん、ピョンちゃん。お願い、死なないで。誰か、誰かピョンちゃんを助けて。お願い、お願い・・・」
渚の濡れた頬に小さな丸い指が力なく触れた。
「何泣いてんのや、ナギサ・・・」
「ピョン・・・ちゃん?」
「さっき言うたやろ?ワイは死なへん。死にとうても死なれへんのや。だから・・・大丈夫やから。一週間もしたら、元に戻る・・・」
「ほんと?ほんとに?ピョンちゃん、治るんだね?」
ピョンは重たくなっていく瞼を何とか見開いて渚を見た。
「ナギサ・・・。気持ち悪・・・ないか?死なへんカエルなんて・・・」
「どうして?死なない方がいいよ。死なないで、ピョンちゃん。ピョンちゃんが死んだら、私も死ぬ。一緒に死ぬから・・・!」
渚のその言葉にアレクは雷に打たれたような衝撃を覚えて、その場に立ち尽くした。ピョンは嬉しそうに笑うと「ほんなら、しばらくは死なれへんなぁ・・・」と言って眠るように気を失った。
「ピョン・・・ちゃん?やだ。目を開けて。ピョンちゃん!」
渚の悲しそうな声にハッと我に返ったアレクは彼女に近づくと、その肩に手を乗せた。
「アレ・・・ク?」
渚の手の上に居るカエルの様子をのぞき込んでみると、確かにボロボロになった彼の身体の傷がゆっくりと閉じていくのが分かった。
「大丈夫だよ。きっとピョンの言う通り、何日かすればきっと良くなる。だから家に連れて帰ってやろう。ね?」
渚は小さく頷くと、アレクに支えられながら立ち上がった。
アレクに伴われて家のドアを入るまで、渚はピョンを抱きしめたままずっと泣き続けていた。アレクは2,3言葉をかけて彼女を慰めたあと、家のドアを閉めた。きっと君はこのあとも、泣きながらあいつの看病をするのだろう。何度か来た事のあるマンションの階段なのに、なぜか知らない場所のように思えた。もう僕がここに足を運ぶ事は無いだろう。彼はそう思いつつゆっくりと階段を降りていった。
-ピョンちゃんが死んだら、私も死ぬ・・・!ー
渚が思わず叫んだあの言葉に嘘はなかった。きっと間違いなく、彼女の心の底から出た言葉だろう。渚のあの激しい思いに比べると、自分の考えていたプロポーズの言葉なんて、ひどく陳腐なものに思えた。階下に降り立った彼は、3階にある渚の部屋の窓を見上げると、「完敗だな・・・」と呟いた。
誰に?あいつに・・・?いや・・・。
「ナギサに・・・だ」
アレクはフッと笑うと、ゆっくりと秋色に染まった町を歩き始めた。
家に戻ってきた渚はまずタオルを濡らしてピョンの身体に付いた汚れを拭き取り、彼の小さな身体にそっと包帯を巻いていった。ピョンに対する申し訳なさと、彼の身体の傷跡のひどさにどうしようもないほど心が痛む度、渚の頬にはとどめなく涙が流れ続けた。
「ピョンちゃん、ごめんね。私の為に、ごめんね・・・」
渚がウェスト・チャーチル銀行の事件に巻き込まれ人質になったというニュースは、世間の情報に疎いミシェル・ウェールズにも届いていたので、しばらく休ませて欲しいという渚の申し出にはあのシスター・エネスでさえ異議を唱える事はなかった。
立てこもりの犯人がなぜか声帯を傷つけられ、声が出なくなっているので、人質になった人々にあとから事情徴収が行われたが、渚を除く全ての人々は口を揃えてしゃべるカエルが助けてくれたのだという。だが警察がそんな話を信じるわけにもいかず、不可思議な事件としてしばらく新聞やニュースを賑わせる事になった。
死んだように眠り続けるピョンの包帯を渚は必ず朝と晩の2回交換する。その時水で濡らしたガーゼで彼の身体を拭いてやり乾燥させないようにするのだ。そして朝、昼、晩の3回、小さな水差しで彼の口に水を含ませる。そうして夜は以前使っていたかごベッドを枕元に置いて彼を寝かせ、何かあった時すぐに対処できるようにサイドチェストの上のライトは付けたまま寝ていた。眠る時に渚は必ずピョンに声をかける。
「早く目を覚ましてね。そして又おしゃべりしようね」
よく夜中まで2人で語り合った。いつも彼は枕元に座って話しているのだが、そのまま2人とも眠ってしまい朝目を覚ますと彼が枕の上で一緒に寝ている事が何度かあった。そんな時ピョンは必ずびっくりしたように飛び起き、大変な事をしてしまったと言う顔をする。それがおかしくて渚はピョンがもう自分のベッドに帰って寝ると言うのを何度ももう少し、もう少しと引き留めたものだった。
日本に住んでいた頃、二度と両親が戻って来ない広い家で、どれ程辛く寂しい夜を過ごしただろう。だがピョンと出会ってから、寂しいと思う夜は一度も無かった。渚が悩んだり泣いたりしていると、必ず彼は来てくれるのだ。どれ程ピョンの存在が渚の心を救ってくれただろう。
彼は一族全てを失ったと言った。それは彼の両親も死んでしまったと言う事だ。彼の悲しみはそのまま渚の悲しみでもあった。だからピョンが「ワイらは独りぼっちや。そやけど、こうして出会うたやろ?ワイはそう簡単に死んだりせん。ずっと渚の側におる」と言ってくれた時、彼はきっと天国の両親が出会わせてくれた友達なんだろうと渚は思った。
だから渚はどんな事があってもピョンを守ろうと思った。それが何も出来ずに逝かせてしまった両親への恩返しだったのだ。なのに彼はこんな小さな身体で自分を助けに来てくれた。いくら死なないと言っても、怖くないはずはないのに・・・。
「ごめんね、ピョンちゃん。ピョンちゃんに嘘をついたりしたから、罰が当たったのかな。でもそれだったら私にだけ当たれば良かったのに・・・」
渚は今夜も彼に「ピョンちゃん、早く元気になってね。待っているから・・・」と声をかけて眠りにつく。明日こそ彼が目を覚ましてくれるように・・・。
- ガシャーンッ ー
何かが割れるような大きな音で、渚はびっくりして目を覚ました。枕元にあるピョンのかごベッドを振り返ると、そこに寝ていたはずの彼は居なかった。渚は布団を勢いよくめくり上げ、音のした方へ走った。
キッチンのアイランドカウンターの上で、イギリスでは定番のキューカンバーサンドイッチ(きゅうりのサンドイッチ)を作ろうとしてどうやら包丁をひっくり返してしまったらしい。包丁などカエルが使えるはずもないのに、元気になった事を渚に知らせたかったのだろう。体中マヨネーズだらけになったカエルを渚はキッチンの入り口で呆然と見つめた。
「おう、渚。朝メシ、もうちょっと待ってな。もう少しで・・・」
彼の言葉は走り寄ってきた渚に抱きしめられて途中で途切れた。何も言わずにただ自分を抱きしめて泣いている渚の姿は、彼女がどれ程自分を心配していたかを伝えていた。
「ごめんな、心配かけて。ごめんな」
黙って首を振る渚に、ちょっと照れくさそうな顔をしてピョンは言った。
「マヨネーズ臭なるで」
「いい」
「ええ事ないやろ?学校行くんちゃうんか?」
「今日は休みだもん」
どうやら彼は、このままおとなしく渚に抱きしめられている他はないようだ。




