10. 事件の行方
グロヴナー・スクエアに居る人々も近くの銀行で起きている事件に気づき、遠巻きに様子を見守っていた。その中にアレクの姿もあった。先ほど渚から“今銀行に居るので少し遅れるかもしれない”とメールが来た。まさかそれが今銀行強盗が立てこもっているウェスト・チャーチル銀行だとは考えたくなかったが、時間を過ぎても来ない彼女に不安を覚えずには居られなかったのだ。
一方ピョンはマドレーヌを全て食べ尽くし、大きな腹をさすりながら満足そうにテレビを見ていた。するとちょうどウェスト・チャーチル銀行のニュースが流れてきたので、ふと目を止めた。
『今日の午後1時頃、ウェスト・チャーチル銀行に入った強盗は仲間割れの為か、犯人の一人は仲間に射殺され、車で逃走した4人も警察とのカーチェイスの末、全員逮捕されました。しかし最後の一人はなぜか銀行に引き返し、現在銀行員と客を人質に立てこもっているようです』
ウェスト・チャーチル銀行の名を聞いてピョンは今朝、出かける前の渚と交わした会話を思い出した。ウィディアと待ち合わせをしているグロヴナー・スクエアなら近くにウェスト・チャーチル銀行がある。そこで株の配当金を下ろしてきて欲しいと頼んだのだ。それなら自分も入金するので、ついでに行くと言っていた。
「嘘やろ・・・?」
ピョンは呟くと、いつも渚が居ない時に使っている、空気取りの窓へ向かって急いで登り始めた。
銀行前に陣取った警官隊がゆっくりと下がり始めたのを見ると、パスは女性を盾にしたまま再び銀行の中に戻った。とりあえず行員を全員カウンターの中から出し、客と共に壁際に移動させ一人でも目が行き届くようにした。そして女性に命じて男性行員のベルトを外させ、それで彼らの手を縛り上げさせた。人質になった客の中には泣き出す人も居たが、渚の心は不思議と落ち着いていて、犯人のする事をじっと見つめていた。
なぜ怖くないのか分からなかったが、亡くなった父と母の事が頭に浮かんでいたのは確かだった。両親が亡くなったと聞いた時のあの辛さに比べたら、今の状況はまだましなのかも知れない・・・。そんな事をぼうっと考えながら渚は立ち上がった。
「ねえ、もういいでしょう?その人、放してあげて」
パスは緊張のあまり、先ほどからずっと女性の首を羽交い締めにしてたのだ。
「もう大丈夫よ。その人を放しても、外の人達はあなたに手を出せないわ」
優しく微笑んだ渚にパスの手が緩んだ。渚は恐怖におびえて泣き続ける女性の肩を抱きしめると、ゆっくりと人質達が息を飲んで見守る中へ戻ってきた。
辺りをいくら探しても渚の姿を見つけられなかったアレクは、やはりあの中に渚が居るのだと確信した。彼は急いで周りを取り囲む取材陣の中に入って行った。こんな時は警察に聞いてもまともに取り合ってはもらえない。報道関係者の方が何か教えてくれる可能性がある。
「人質の名前は分かりますか?あの中に知り合いがいるかも知れないんです!」
「名前までは分からない。だが客は7人で全員女性らしい」
女性ばかりと聞いて、たまらずアレクは走り出した。
「ナギサ!」
走り込んできたアレクを警官が押しとどめたが、彼は必死にもがいて前に進もうとした。
「放してくれ!あの中に居るんだ。僕の・・・!」
今からプロポーズして、一生君だけに愛を誓おうと決めた人・・・。
警官達に押しとどめられながら、必死にアレクは叫んだ。
「ナギサ!ナギサーッ!」
「何取り乱してんねん、アレク。お前らしないで」
下から響いてきた声は、間違いなくピョンの声だった。カエルはぴょんっぴょんっと飛び跳ねてアレクの前に出ると、彼を振り返った。
「お前は下がっとれ。ワイが行く」
「何を言っているんだ?君が行ってどうなる。僕が・・・」
「お前は銃の腕は確かやけど、人を殺した事はないんやろ?だったら下がっとれ」
その小さなカエルの目がぞっとするほど冷たくて、アレクは一瞬言葉をなくして立ちすくんだ。
ああ、そうだ。あの時代、アルセナーダほどの広大な領土と繁栄を誇った国があっただろうか・・。しかし国家の繁栄はイコール強大な軍事力を保有しなければ成立しない。アルセナーダ帝国は周りの国々を次々と従え、他のどの国にも追随を許した事はなかった。だがそれでも広大なアルセナーダの豊かな領土を狙って侵攻してくる国は後を絶たなかった。
俺が大陸最強と謳われた帝国軍を率いて出征したのは15歳の時だった。国を守るため敗北は許されない。王が死ねないように、玉座を継ぐ者も死ぬ事は許されない。死ねないと言う事は、相手を殺すという意味なのだ。
おかしなものだ。戦争の最中では人をより多く殺した者が英雄となる。俺も自分が死なない為に戦った結果、英雄となった。わずか15歳で全軍を掌握した俺は、自分に陶酔した。それが人の命の上に成り立った賞賛だとも気づかずに・・・。
どれ程、繁栄を誇ろうとも、どれ程の強大な軍を保持していたとしても、人を殺して成り立った繁栄などいつかは消滅する。そしてその報いは一人一人の上に必ず訪れるのだ。この俺のように・・・。
銀行の中で捕らわれている渚達から少し離れた壁にもたれて座ると、パスははあっとため息をついた後、じいっと渚の方を見た。
「お前、名前は?」
渚はドキッとして犯人の男を見た。どうして私の名前だけ尋ねるのだろう。
「ナギサ・・・コーンウェル」
「ナギサか。俺はパスだ」
そう言った後、彼は再びはあっと大きくため息をついて頭をかきむしった。
「くそっ!なんでこんな事になったんだ。全てうまくいくはずだったのに・・・!」
男の叫び声に渚の周りに居る女性達はビクッと肩を震わせ、たまらず涙をこぼす者も居た。先ほどパスに捕まっていた女性は、ずっと渚の隣で震えながら声を殺して泣いていた。そんな彼女の肩をぎゅっと抱きしめて渚はパスを見た。
彼は思い通りにならなかった事で随分苛立っている。これ以上追い詰められたら、ここに居る人達を殺して自分も死のうとするかも知れない。渚は自分の隣でずっと震えている女性を見た。そして同じく捕らわれの身になった人達を。
どうすればいい?誰も死なない為には・・・どうしたらいいの?パパ、ママ、教えて。一体どうしたらいい?
「ピョンちゃん・・・」
助けを求めるように小さく渚が呟いた時、入り口の自動ドアが“シュッ”という静かな音を立てて急に開いた。犯人はぎょっとして思わず銃を構えたが、誰も居なかった。だが奇妙な足音だけは、静まりかえった建物の中に響いてきた。
ー ピチャン・・・ピタン・・・ピチャン・・・ ー
小さな緑色のカエルが犯人に向かってまっすぐに飛び跳ねてくる。渚は信じられないという表情で、もう一度その名を呼んだ。
「うそ。どうして?ピョンちゃん・・・」
「なんだ。カエルか・・・」
パスは緊張の為か息を荒げながら、それでもホッとしたように銃を下ろした。
「お前が犯人か。ようもワイのかわいい女を怖い目に遭わせてくれたなぁ」
しゃがれた声でカエルが言うと、パスは気味の悪い何かを見たかのように顔を引きつらせた。
「何・・・だ?カエルがしゃべった・・・?まさか・・・」
「なんや。しゃべるカエルは珍しいか?言っとくけど警察の最新鋭ロボットとちゃうで」
おどけたように話しながら自分に近づいてくるピョンを、パスは恐怖の面持ちで見た。一瞬自分が錯乱して、幻覚でも見ているのかと思ったりもした。そして渚は声も立てられずにピョンを見ていた。なぜ彼はここに居るのだろう。どうして?
「お前の仲間は一人死に、後の4人は逮捕された。もう諦めて自首したらどうや?手ぇ挙げて出て行ったら表の奴らも射殺したりはせえへんで」
「う、う、うるさい!お前なんかに、だ、誰が従うか!」
「カエルの言う事は信用でけへんのか?しゃあないなぁ。ほんなら死ぬより怖い目に遭うけど、かめへんのやな?」
「ヒ・・・ヒィィッ!」
じっとりと近づいてくるこの得体の知れないものに、パスは言い知れぬ恐怖を覚え、震える手で銃を構えた。
「ピョンちゃん!」
渚の叫び声は2発の銃弾の音にかき消された。ピョンの足下の床に弾痕が二つ刻まれている。それを見下ろしてピョンは思った。
“さすが45口径やな。ものすごい衝撃や。おまけにこいつが持ってんのはコルトガバメント。多分弾は7発入るはずや。あと5発・・・。いくらワイでも5発も受けたら動かれへん。早めに勝負は決めんとあかんなぁ”
「どうした。当たれへんで?そんなにワイが怖いんか?」
「こ、こ、この・・・!」
歯を食いしばると、パスはもう一度銃を構えた。
「ピョンちゃん!やめて・・・!」
思わず立ち上がろうとした渚をさっきが助けた女性が肩を抱きしめ引き留めた。その瞬間、“ドォォ・・・ン”という音と共にカエルの身体が入り口の方まで吹き飛ばされた。
「いやあぁぁっ・・・!ピョンちゃん!」
「行っては駄目。駄目よ!」
女性も必死に渚を押さえつけた。
「放して!ピョンちゃん、ピョンちゃん!」
パスはハアハアと息を切らして吹き飛んでいったカエルの骸を見つめた。もう起き上がっては来ないだろう。彼は小さく薄ら笑いを浮かべたが、カエルはゆっくりと頭をもたげ、再び彼の方にやって来たのだ。
ー ピチャン・・・ピタン・・・ピチャン・・・ ー
「ヒ・・ヒィィッ!」
その足音が近づいて来ると、パスは恐怖に顔を引きつらせながら引き金を引き続けた。
「いやあっ、ピョンちゃん!やめて!やめてっ!」
渚の叫び声が3発の重い銃声にかき消され、再びピョンの身体を1発の銃弾が突き抜けた。だが渾身の力を込めて床にしがみついていたカエルの身体は今度は吹き飛ばされなかった。パスはにじり寄ってくるカエルにもはや銃を向ける事も出来ず、ヒイヒイと息を荒げながら壁に背中を押し付けて怯えていた。
「全くもう。人の身体、穴ぼこだらけにしよってからに。内臓ほとんど吹っ飛んでもたやないか」
「来るな!来るなぁぁっ!」
「なんや。もうそれで終わりか?残念やったなぁ。ワイの身体は銃弾ごときじゃ死んでくれへんのや」
やがてピョンは震えるパスの足にゆっくりとよじ登り始めた。
「永遠に生きる苦しみをお前にも教えてやろか。たとえ五体が引き裂かれても、車にひかれてぺちゃんこになっても、2,3日もしたら元に戻るんや。何度死の恐怖を味わっても死ぬ事は出来ひんのやで。一回で死ねるお前等は幸せやなぁ」
「や、止めろ!来るな・・・来るなぁぁーっ!」
パスの叫び声はすぐにかき消された。ピョンが彼の口の中に飛び込んで行ったからだ。そしてピョンはその喉の奥にある彼の声帯を引き裂いた。
「アガァァァッ・・・!」
声にならない叫び声を上げて、パスが口を押さえて倒れ込んだ。床に降りたピョンは軽蔑したようにパスを見て呟いた。
「お前の罪は、その声をもって贖ってもらう」




