9.巻き込まれた渚
「とにかく・・・だ」
ミシェル・ウェールズの堅苦しいシスター・ルームになど居場所もなく、外を歩けば可愛いのだが、ちょっとやかましい女生徒達に捕まってしまうアレクセイ・フラグスタートは、あまり人が訪れない様な北校舎の裏庭で一人ため息をついた。
この僕ともあろう者が、あんな両生類に毎回邪魔をされ、おまけに彼女のまだ少女のような性格も相まって、未だに教師仲間という関係を逸しないとは・・・。それにあのピョン吉。全くもって不可解なあのカエルに最初はむかついていたはずなのに、今ではあいつが人間だったら意外といい友人になれたかも、なんて思ったりする自分も全くもって不可解だ。
いや、そんな事はどうでもいい。
「とにかく・・・だ」
彼はもう一度呟くと、懐のポケットから封筒を取り出した。エアメールらしく周りにトリコロールの縁取りが付いている。その中から取り出したのは、ニューヨーク行きの航空券であった。彼が次に行く仕事先であるニューヨークの大企業から送られてきた物だ。そう、ここへ来てもう2ヶ月半。あと2週間で彼はミシェル・ウェールズでの臨時講師の仕事を終え、遙か彼方、アメリカの大都市に旅立つのであった。
「とにかく時間が無い。ここらで一気に勝負を決めるぞ!」
そう言って勢いよく立ち上がった。
「まあ、 アレク?」
渚の声だ。ドキッとして振り返った彼は、両手一杯にお菓子やドリンクを抱えている渚と目が合った。後ろにマリアンヌもいる。一気に勝負を決めるぞと決意したばかりであったが、彼は戸惑って耳まで赤くなりそうだった。
「アレクもここで息抜きをしているの?」
「え?ああ、まあね」
「マリアンヌ。私たちの秘密の場所がアレクにもばれちゃったね」
「秘密の場所?」
「良くここでウィディアとマリアンヌと3人でアフタヌーンティーをしていたの。ウィディアが居なくなったから今日は2人でと思って来たんだけど、アレクも一緒にどう?」
「あ、ああ。それじゃあ、お言葉に甘えて・・・」
3人でお菓子を囲んで他愛ない会話が始まったが、アレクの心はここにあらず、だった。
今だ。今言うしかない。校内で渚に話しかけるとシスター・エネスが何かとうるさいし、かといって渚の携帯に電話を入れると、あの憎たらしいカエルが出てきて「ナギサはおれへんで!」と言われて即切られる。(本当にアルコール漬けにしてやりたいよ)
しかし、今ここにはシスター・マリアンヌも居るし・・・。
「アレク、どうかしたの?」
渚に呼びかけられハッとしたように彼女を見たが、思わず赤くなって彼女から目をそらしてしまった。そんな彼の様子にマリアンヌはすぐアレクが渚に何か言いたい事があるのだと気が付いた。この間、マリアンヌとウィディアを仲直りさせる為に開いたパーティの時に、アレクが渚をなんとなく好きな事は恋愛経験のないマリアンヌでも充分気付いていたからだ。
あの夜みんなが帰った後、マリアンヌは一人渚の家にお泊まりして二人で夜遅くまでおしゃべりをした。マリアンヌにとって女友達の家に泊まって夜更かしするなんて初めての経験で、それはとても楽しい思い出となったのだが、あの日渚といくら話していてもアレクに恋心を抱いているそぶりは無かった。多分渚本人はアレクの気持ちを全く分かっていないのだろう。そんな渚は真顔でアレクに話しかけた。
「もしかしてアレク。なにか授業や生徒に関して悩み事でも。だったら相談に乗るわ。私もマリアンヌもミシェル・ウェールズではアレクより先輩だし」
「は?」
渚の真剣な顔を見て、マリアンヌは思わず吹き出しそうになってっしまった。今彼を悩ませ居ているのは、ミシェル・ウェールズの生徒でも授業内容でもなく、間違いなく渚本人なのだから。マリアンヌはこれ以上ここに居るのは邪魔なだけね、と思い立ち上がった。
「ナギサ、私ちょっと用を思い出しちゃったから先に行くわ」
「え?用って?」
「ちょっとね。じゃあアレク先生。あと、宜しくお願いしますね」
マリアンヌはアレクにほんの少し含みを込めた笑いを向けると去って行った。そんなマリアンヌの様子にアレクはため息を付きそうになった。時々しか会わないシスターマリアンヌまで気付いているのに、どうして渚は何も気付かないんだろう。それとも気付かないふりをしているのか?何の為に・・・?もしかしてあいつの為・・・?
そう思った瞬間、アレクは渚の手を握りしめていた。
「ナギサ!」
「は、はい!」
「明日。明日の晩、会ってくれないか?二人っきりで」
二人きりという言葉に、渚は思わず俯いた。
「ごめんなさい。私、夜は・・・」
“ああ、あいつがうるさいんだな”
勘のいいアレクはすぐに気が付いた。
「じゃあ、明後日の水曜日。グロヴナ-・スクエアのルーズヴェルト記念碑の前で1時に待っている。必ず一人で来てくれ。いいね?」
アレクの真剣な表情に思わず頷いてしまった渚だが、学校から家に帰る道すがら、ずっと悩んでいた。
ピョンに嘘はつきたくない。だがグロヴナー・スクエアに行くと言ったら、きっと彼はピクニックと思い、自分も行くと言うだろう。だがアレクのあんな真剣な顔は初めてだった。きっと何か重要な相談があるに違いない。それも誰にも聞かれたく内容の・・・。やはりピョンには何とか誤魔化して行くしかないだろう。後で事情を話せばきっと分かってくれる。渚は自分の心をそう納得させて、家のドアを開いた。
対照的にアレクは全ての力が抜けて、ぼうっとした面持ちで帰路についていた。やっとうまく行きそうだ。そう思うと急に緊張してきた。美丈夫でどこへ行っても女性からの熱い視線を受けてきたアレクにとって、渚のような純真で無垢な女性にはどう接していいか分からなくなる時がある。しかも最大の敵が彼女の側にいつも居て、余計うまくいかなかったのだ。でも明後日彼女は一人で来てくれる。そうしたら誰にも邪魔されずにプロポーズ出来るぞ。
彼は早速、渚が「Yes」と言ってくれそうなプロポーズの言葉を考える事にした。
そんな彼等が待ち合わせに決めているグロヴナー・スクエアの脇に、黒いバンが6人の男女を乗せて止まっていた。彼らは皆、道路を渡った向かい側にあるウェスト・チャーチル銀行をじっと見つめている。6人の内、唯一の女性が後ろにいる男達に言った。
「あさっての水曜には、エリザベス女王杯の売上金が全て集まってくる。あたし達が突入したら、ジョンは車を銀行のすぐ前へ。ヤード(スコットランド・ヤード:ロンドン警視庁)が来るのは3分後。それまでに仕事は済ませなきゃならない。エルナルとパスはカウンター内の行員を。ベラグとガナールは店内に残った客を足止めする。ジョン。武器の手配は?」
女は運転手の男に尋ねた。
「今日中に完了する」
「山はでかいよ。車に乗り遅れた者は射殺する。いいね?」
男達はゴクッとつばを飲み込むと、黙って頷いた。そして車は静かにロンドンの町の中へ溶け込んで行った。
“ほんとにもう。ロンドンの銀行ってどうしてこんなに手続きが遅いのかしら”
水曜日。待ち合わせより早くやって来た渚は、銀行に行って入金手続きをしていた。しかしロンドンの銀行で入金をするなら、まず入金用の用紙に必要事項を記入し、サインをして金額を書いてから又並んで窓口に持って行かなければならない。
『Pay In Book』という自分の名と口座番号を書いてあるものがあれば早いのだが、あまり入金をする事が無い渚はまだ持っていなかったのだ。ただし出金は24時間いつでも手数料無料で下ろせる。ATMも所々にあるので、ここは日本と変わらず便利なのだが、なぜ入金だけが面倒なのか渚には謎だった。
窓口で並んでいる人々の列の中で携帯を取りだし時間を確認しながら、渚は小さくため息をついた。
その頃アレクもちょうどグロヴナー・スクエアの入り口に到着していた。
「少し早く着き過ぎたかな・・・?」
それでもちょっと嬉しそうに微笑むと、彼は目当てのルーズヴェルト記念碑へ向かって歩き始めた。
「渚、そろそろウィディアと会ってる頃かな」
リビングでテレビを見ながらピョンは渚が作っていってくれたマドレーヌを食べていた。贅沢なカエルである。本当は渚と一緒に行きたかったが、今日はウィディアとエステとやらに行くらしい。そこは女の子が顔や身体をキレイにしてもらう所らしく、男子禁制なのでピョンは連れて行けないと断られたのだ。その代わりチャイニーズストリートの豚まんをお土産に買って来ると言われ、おとなしく家で待つ事にした。
「豚まんかぁ・・・」
最近マイヒットの豚まんを思い浮かべ、ピョンは幸せそうに微笑んだ。
1時の待ち合わせ時間の5分前になっても、まだ渚は入金を終わらせる事が出来ずに居た。やはり今日はもう諦めて待ち合わせ場所に行った方がいいだろう。5分では待ち合わせ場所に着かないかも知れないので、一応アレクに少し遅れそうだとメールを送り、列から離れようとした時だった。銀行前に素早く止まった黒い車の中から覆面をした5人の人間が飛び込んできた。入り口の前に陣取った女が銃を一発天井に向けて撃つと、店内に叫び声が上がった。
「全員壁際によって地面に手をつくんだ!」
後ろに居た幹部クラスの男が机の下の非常ボタンを押そうとしたが、それも別の男の発砲で止められた。それでも銀行の入り口に居てすぐに逃げた客や、外に居る人間に通報されるのは認識済みだ。すぐに2人の男が店内の客を全員壁際に追い立て両手を地面につかせた。残りの2人が支店長らしき人間に銃を突き付け、金庫を開けさせる。1人が支店長に銃を突きつけている間に別の男達が金庫の中から競馬の売上金の詰まった袋を持ち出した。
「あと1分30秒!」
入り口で指揮を執っている女が叫ぶ。目当ての売上金を持って犯人達は銀行の外へ駆け出した。最後に女がもう一度銃を天井に向けて撃つと、中に居た人質達が「キャーッ」と叫んで身を伏せた。
しかし犯人達が銀行前に止まった逃走用のバンに駆け込もうとした時には、すでに警察のパトカーがサイレンを鳴らしながらやって来るのが見えた。
「チッ!」
舌打ちすると女は「急いで!」と叫んだ。だが金は重く、思ったようにバンの後ろに積み込めない。2人の男達は必死に金を積み込んだ後、やっと車のドアを開け乗り込もうとしたが、すでにパトカーが迫っていた。
「出して!」
パスとガナールという仲間を残したまま、車は発車した。
「待ってくれ!」
そう叫んで車を追いかけようとしたガナールに窓から女が銃を撃つと、一瞬でガナールの身体は地面に崩れ落ちた。
“このままでは俺も殺される!”
そう思ったパスはすぐさま後ろを振り返ると元いた銀行に走り込んだ。
せっかく難を逃れたと思っていた人々に、再び恐怖が訪れた。パスは女性客一人を後ろから羽交い締めにすると、銀行前に止まった3台のパトカーから銃を向けて出てきた警官隊の前に飛び出し、彼女の頭に銃を突きつけた。




